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この世に愛のムチなるものは存在するのでしょうか。

「自分は、相手のためだと思って、あえてむごい行動を取っている」というのは、己の理不尽さを正当化するための言い訳のように思えてなりません。

もっと言えば、「自分は、これだけ人のために尽くしている」という満足感にひたって快楽を得たいというエゴに過ぎないのではないでしょうか。「おためごかし」というものです。

以前の質問でもふれたことがあるのですが、私がかつて勤めていた会社の社長は、ほかの社員にはやさしく接するくせに、私にだけは、ひどい仕打ちを繰り返しました。

彼もまた、自分の行ないを「愛のムチ」と信じ込みたかったようです。「俺は、お前に一人前になってほしいから、わざとつらく当たっている」という言葉さえ吐きました。

しかし、私は彼に感謝する気には全くなりませんでした。今でも恨みに思うぐらいです。

愛のムチが存在するか否か、ご自分の体験も交えて教えていただければ、幸いです。

A 回答 (6件)

他の方も回答されていますが、むちを振るわれる側の受け取り方次第で、愛にも暴力にもなります。


むちを持つ側は「愛」だと信じて疑わなかった。しかし、質問者にとってはただの暴力だった。
要は、二人の間に意思の疎通がなく、むちを持つ側の気持ちが質問者に届かなかったことが問題と思います。
それだけのことでしょう。
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やってる本人がその言葉を使ったらニセモノ。



でも、やられてる側がその厳しさに感謝していれば、ホンモノ。
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愛の鞭ってそう言うものではないでしょうか?



鞭は鞭であって、攻撃している本人にとっては愛の鞭であっても、受けている人にとっては単なる拷問具かもしれません。


鞭は元々拷問に用いるものなので、一方的なものです。
調教師は愛を持って獣に接しても、獣がその愛を受け入れるとは限りません。
それが鞭です。


愛の鞭だろうと、鞭は鞭です。

存在するかどうかに関しては、存在します。ただ愛の鞭は叩かれたら情愛がうつる魔法の道具ではなく、単なる拷問具です。ただその攻撃を受けてよい結果になる事もあると言うだけです。勿論悪い結果にもなりえます。
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愛とは何か?哲学的な答えがいくつもあって解釈が人それぞれですからね、簡単に言えば社長の愛と、君の思う愛が違ったということなのだと思います。



赤ちゃんの頃から一緒の時間を過した親子間でもありますよね、親の思う愛と、子の求める愛が違い親子間に憎しみが生まれる
親心というのは君が言うようにエゴが強い面があると私も思う
この場合、子供が親の言っていたことはこういうことか~と気付くのは、問題が解決された後だったりする

親は自分の経験で解決する道を知っている、解決策にばかり目がいきがちで、その当時どんな思いだったかなんて忘れている
道ばかり進める、勝手にその道に持っていく、そういったことをしがちである本人は子供の為と本気で思っている
多少、いい親でありたい気持ちもあると思う
子供からすれば気持ち置き去りの強制執行、荒療治である

そう考えるとムチになるかもしれない

でも私もこれはなんか違うと思う


愛ってなにかよく分からないし君の当時の事情はよく分からないけど、私がその時の社長だったら何を聞くでも言うでもなく笑顔でずっと見守っているかな、君自身の力を信じて

社長になるくらいだから孤独に戦うこともあっただろうし、社長という身分でチヤホヤされることはあっても、いつも会社の将来、従業員の生活を一人で抱えているのだと思う、責任がなければ信用もされず仕事も減ってしまうだろうから、その為に理不尽な心ももたなければならない葛藤があったり、誰にも相談できないプライドがあったり、孤独な役割だと思う

事情は分からないけど、何か社長自身と君が重なり そういった結果になったのかもしれないよ

見込みがあるからこそ厳しくするという考えも分からなくはないかな、嫌われる覚悟がいるけどね。


だから愛のムチは時間差があるのかな

私が完全に愛とは違うと思うのがアメとムチ
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 愛のムチという事が、全くないとは言えないかもしれませんが、ムチを振るう(身体的暴力とは限らず)という事は、上下関係があるという事です。


 俺はお前より偉いという気持ちが根底にあるはずです。
 つまり序列を確認している事になります。

 こういう状況が起きるのは、あなたにいくらムチを振るっても自分に跳ね返ってこなと思ってるか、ここでムチを振るっておかないと自分の序列が危ういと感じているかだと思います。

 普通の人は、こういう事はよくないという気持ちもあるので、ご指摘のようにすり替えを行います。
 「おためごかし」ですね。

 何ら根拠はありませんが、私はこういう行動について、人間がサルから受け継いだものだと思っています。猿の社会では、こういう行動は社会をを安定させる機能があったのかもしれません。
 それが、人間になっても消滅していないんだと思います。

 こう人は時々います。相手を猿だと思ってみては。
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受け取り方の問題だと思います。



同じ行為でも、受け取り方によっては、それが愛のムチにもなれば、恨みの元にしかならないでしょう。

私は、現役の頃、比較的部下に厳しい方でしたが、ある男は、後になって、今の自分があるのは、私のお蔭だと言って感謝してくれましたが、別の男は、彼自身に落ち度があるのに、それは棚に上げて、私に恨み言を述べていました。

前者は、私の言動を基にして成長しますが、後者は、恨みの心を抱くことによって、成長どころか、自分で自分の人間性を、ますます落として行く事になるのですが、本人は、その事に気付きません。
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