dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 コーヒーブレイクです。
 スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。

 すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。
 これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。

 すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。


 ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~
 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

 835  (師((ブッダ))は語った)、

   「われは(昔さとりを開こうとした時に)、
   愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
   かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
  
   糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。
   わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・

 質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

A 回答 (15件中11~15件)

仏教は、覚った後で全てが明らかになる性質を持っています。

つまり覚る前にはわからないのです。ですから、ブラジェロンヌさんが訝しくおもうのも当然でしょう。また、勝敗を超えた境地で議論に赴かない修行僧やブッダを、負かそうと思った時点でお門違いとなってしまいます。私が仏教の肩を持っているのではなく、仏教がそう言っているだけのことを、そう言っていると受け止めているに過ぎません。つまりは客観的に見ているので、ブラジェロンヌさんのように憤ることもないのです。

ブラジェロンヌさんは、ブラジェロンヌさんが仏教について抱く見解に憤っているのであり、仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれについて、言を呈していることにはならない処が、残念です。そういう論理を仏教が持っていることについて、それをペテンという事は勝手です。
じゃあアホナは仏教の真の姿を知っているのかと言われると、同じく知らないと言わざるを得ないですが、
少なくとも議論によってブッダの教えを叩きのめそうなどとは思わないわけです。
ブラジェロンヌさんの肩も、仏教の肩も持たない見解ですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 仏教は、覚った後で全てが明らかになる性質を持っています。つまり覚る前にはわからないのです。ですから、ブラジェロンヌさんが訝しくおもうのも当然でしょう。
 ☆ ん? ん? ん? 

 ということは あ_ほなさんは さとりをすでに得ている。ということですか? 
 でもそれを言葉にして明らかにすることはしない。・・・


 ★ また、勝敗を超えた境地で議論に赴かない修行僧やブッダを、負かそうと思った時点でお門違いとなってしまいます。
 ☆ 勝ち負けや アホバカといった言葉を 話のあいだに挟む文体をここでは採っています。ですが 問題は 哲学の道理に反するところを指摘して その是非を問うています。

 (もっと言えば 勝負は初めについています。わたしがかなわないのは 親鸞です。ほかにいません)。


 ★ 私が仏教の肩を持っているのではなく、仏教がそう言っているだけのことを、そう言っていると受け止めているに過ぎません。つまりは客観的に見ているので、ブラジェロンヌさんのように憤ることもないのです。
 ☆ 直前のNo.4への返答として スッタニパータから犀の角のくだりを持ち出しました。これについて それでは 《客観的に見る》といったいどういう評価が与えられるのでしょう?
 
 つまり たたき台は 次です。 
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  ▼ (スッタニパータ・犀の角) 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
 ☆ 友だちとは 利害関係を超えようとするマジワリであるはずです。それにしても 無縁の人びとのあいだにあってさえも お互いさまということは通じるとも考えられます。

  ▼ 心がほだされると、おのが利を失う
  ☆ なんてバカなんだろう! とつくづく思います。思いませんか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ ブラジェロンヌさんは、ブラジェロンヌさんが仏教について抱く見解に憤っているのであり、仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれについて、言を呈していることにはならない処が、残念です。そういう論理を仏教が持っていることについて、それをペテンという事は勝手です。
 ☆ ということは ひとつにわたしが理解してやり玉に挙げているところは それとして妥当な内容である。ということであり もうひとつに それでは 先ほど触れたとおり あ_ほなさんは すでにさとりを得ている ということなのですね。

 つまり
 ★ 仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれ
 ☆ は わたしの理解するところとは 別なのだと。

 でも そのすでに得ているさとりの中身は 門外不出であるともいうことのようなのですね。理由は分かりませんが 致し方ないのかも知れません。



 ★ じゃあアホナは仏教の真の姿を知っているのかと言われると、同じく知らないと言わざるを得ないですが、
 ☆ ええっ? ええええっ? ええええええっ?


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 少なくとも議論によってブッダの教えを叩きのめそうなどとは思わないわけです。
 ブラジェロンヌさんの肩も、仏教の肩も持たない見解ですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 同じく直前のNo.4でのやり取りから ふたつの箇所を引きます。その議論をめぐって どういう見解を持つか。明らかにしてくれませんか?

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 【問題 A 】
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、
 その当時のバラモンたちに比べて
 かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっ? ほんとうにそのようにお考えなのですか?

 《出家僧と女とのマジワリを断つ》という戒律を示そうとして こんなバカな内容をもって おことわりの言葉とした。という意味でしょうか? 古代インドでは ありえたのでしょうか? とお応えするしかないようです。



【問題 B 】
 ★ ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。 / それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。
 ☆ えっ? どういうことでしょう? 《きつい言葉で唐突に始めている》のは ゴータマであるか もしくはこの編集者ですよ。なのに どうして 《それゆえに・・・》という推理になるのでしょう?

 確かにマーガンディヤーが 恨みを持ったことは かのじょ自身の問題であり落ち度です。
 恨みを持ったままにして放っておかないほうがよい。・・・といった思いは ゴータマにはいささかも起こらなかったのでしょうか? それにしても 阿呆ではないでしょうか? なぜって 《この上なき智慧のさとりを得た》とみづから宣言している男なのですよ。どこが 天上天下唯我独尊なのですか。あったま おかしい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/04/04 00:14

伝説と経典は区別するべきと思います。


経典はバラモン・マーガンディヤと釈尊との対話であり、
その対話の内容を論ずるべきと思います。
伝説をもって来て、釈尊うんぬんを議論しても意味がないような気がします。
原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、
その当時のバラモンたちに比べて
かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。
ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。
それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。
法という観点からは、この「マーガンディア」という経典は、
スッタニパータのなかで最も重要なものの一つであることは間違いない。
しかし、伝説を信じれば、
あなたの言うようにこの経典の意味は半減してしまう。
この経典を中心に読めば、
宗教仏教において論じられることがほとんどない
原始仏教の核心部分に迫ることができる。
仏教者としてどちらをとるかは明らかと
私には思えるのだが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 伝説と経典は区別するべきと思います。
 ☆ この問題は かなり探究しました。結論には到っていません。つまり 早く言えば マーガンディヤーとゴータマとのかなり長く切り結びした交通関係が どこまで史実であるかです。

 その意味では 《経典》も 必ずしも史実ではないということでは それほど 経典を優位に置く理由もないのかも知れません。

 いづれにしましても もし《伝説と経典とを区別するべき》だとすれば それゆえにも 《コーヒーブレイク》として みなさんの考えをうかがっている。と受け取ってくださいませ。

 ただし ここに掲げた求婚を拒絶するゴータマの言葉は スッタニパータという経典の問題ではあります。

 答えにはならないかも知れませんが このような姿勢で この問いでは臨んでいます。



 ★ 経典はバラモン・マーガンディヤと釈尊との対話であり、 / その対話の内容を論ずるべきと思います。
 ☆ ですから そういう問いもあり得ますし ここで採っている問いは 言わばエピソードのたぐいを材料として あれこれゴータマ観をやり取りする場としているわけです。

 ★ 伝説をもって来て、釈尊うんぬんを議論しても意味がないような気がします。
 ☆ 求婚をことわる言葉は 《伝説》の域を超えている。ゆえに 雑談にならない範囲で ゆるく見解を述べ合うという趣向です。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、
 その当時のバラモンたちに比べて
 かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっ? ほんとうにそのようにお考えなのですか?

 《出家僧と女とのマジワリを断つ》という戒律を示そうとして こんなバカな内容をもって おことわりの言葉とした。という意味でしょうか? 古代インドでは ありえたのでしょうか? とお応えするしかないようです。



 ★ ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。 / それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。
 ☆ えっ? どういうことでしょう? 《きつい言葉で唐突に始めている》のは ゴータマであるか もしくはこの編集者ですよ。なのに どうして 《それゆえに・・・》という推理になるのでしょう?

 確かにマーガンディヤーが 恨みを持ったことは かのじょ自身の問題であり落ち度です。
 恨みを持ったままにして放っておかないほうがよい。・・・といった思いは ゴータマにはいささかも起こらなかったのでしょうか? それにしても 阿呆ではないでしょうか? なぜって 《この上なき智慧のさとりを得た》とみづから宣言している男なのですよ。どこが 天上天下唯我独尊なのですか。あったま おかしい。




 ★ 法という観点からは、この「マーガンディア」という経典は、 / スッタニパータのなかで最も重要なものの一つであることは間違いない。
 ☆ いえ。わたしは別にそこまでのことは感じません。

 ★ しかし、伝説を信じれば、/ あなたの言うようにこの経典の意味は半減してしまう。
 ☆ あぁ でも バラモンのマーガンディヤ(つまり父親)とゴータマとの対話について 検討してみなくてはまだ分からないというところでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 この経典を中心に読めば、
 宗教仏教において論じられることがほとんどない
 原始仏教の核心部分に迫ることができる。
 仏教者としてどちらをとるかは明らかと
 私には思えるのだが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですかね。

 スッタニパータから どう見てもおかしいくだりを さらに示しましょう。

 ▼ (スッタニパータ・犀の角) 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
 ☆ 友だちとは 利害関係を超えようとするマジワリであるはずです。それにしても 無縁の人びとのあいだにあってさえも お互いさまということは通じるとも考えられます。

 ▼ 心がほだされると、おのが利を失う
 ☆ なんてバカなんだろう! とつくづく思います。思いませんか?

お礼日時:2014/04/03 23:53

私は、仏教の一見して世間的に冷たい部分があるのを感じます。

大乗が起こるのも無理ないなと思うのです。
仏道は賢者の道であり、愚者が覚ることはないと聞きました。愚者は、自ら徳度して賢者になり、それから道を歩むというのです。
マーガンディヤーはじめとする愚者にはとことん冷たかったのかもしれません。
しかし一方で、六祖慧能はこうも言っています。
何故だか世には知者と愚者があるが、そんな愚者を知者は導くと。
それなら私にも納得が行きます。
ということは、ブッダというのは知者でもなく愚者でもないのかもしれません。
マーガンディヤーの処遇については、私も釈尊の過ちだったのではないかと思います。もっと柔らかに説き伏せておれば、マーガンディヤーも改心していたのかもしれないからです。しかし釈尊はそうはしなかった。そこに生死を超克した常人ならざる考えがあったのかもしれません。良し悪しを別にして。

今本屋にいます。法華経を手に取り、読みやすい経典だなと思います。無類の衆生の徳度するのが描かれており、いかにも大乗らしいです。法華経を書いたのは釈尊ではなく、別の仏だと言われていますが、この経典のように一切衆生の解脱を説いた処に私は平等を感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 私は、仏教の一見して世間的に冷たい部分があるのを感じます。大乗が起こるのも無理ないなと思うのです。
 ☆ 二見しても三見しても 千見しても万見しても そうだと思います。
 なぜなら 身分制を敷くブラフマニズムに抵抗し対抗して アートマンを否定したのはいいとして その意味について――ということは 神ないし信仰について――何にも知らなかった。のです ゴータマは。

 無我(アン‐アートマン)と説けば けっきょくは 無神論になるということを知らなかった。知っていたとしても説明していない。

 ですから のちのちブディストと称する人たちは(つまり マハーヤーナ―の人たちは) この梵我一如を否定した無梵無我一如なる無神論が分かりにくいというので ブッダターを考案し これを アートマンと同じ《非思考の庭〔なるハタラキ〕》に据えた。

  仏仏一如

 というわけです。無神論は 有神論とまったく同じ信仰であるにもかかわらず そこから繰り出される思想(つまり生活態度)は 心に背を向け モノを何かと重んじるくせが出て来ます。無い神を心にいだいているのですが。つまりは 神は無いと言っていることが そのまま世の中における無慈悲な残酷のありさまにつながってしまうところから来るのでしょう。



 ★ 仏道は賢者の道であり、愚者が覚ることはないと聞きました。愚者は、自ら徳度して賢者になり、それから道を歩むというのです。
 ☆ それでもいいですよ。

 あるいはつまり 《神のおろかさは 人間の賢さよりもかしこい。神のよわさは 人間のつよさよりも強い》といった見方も出来るのですが。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 マーガンディヤーはじめとする愚者にはとことん冷たかったのかもしれません。
 しかし一方で、六祖慧能はこうも言っています。
 何故だか世には知者と愚者があるが、そんな愚者を知者は導くと。
 それなら私にも納得が行きます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 納得がいきません。たとえ愚者であったとしても その愚行や悪行という《思惟および行動》の問題とそしてそうではなく 存在の問題 これは 別箇にあつかうのが かしこい人ということなはずです。そうではありませんか?



 ★ ということは、ブッダというのは知者でもなく愚者でもないのかもしれません。
 ☆ ん?

 ★ マーガンディヤーの処遇については、私も釈尊の過ちだったのではないかと思います。もっと柔らかに説き伏せておれば、マーガンディヤーも改心していたのかもしれないからです。
 ☆ 《改心》っておっしゃいますが まだ何もわるいことはしていませんよ。ただ絶世の美女であったということだけです。

 むろん もともと性悪であったかも知れません。けれどもそうだとしても その性癖を ゴータマが引き出した格好になります。

 ★ しかし釈尊はそう(柔らかに説き伏せること)はしなかった。そこに生死を超克した常人ならざる考えがあったのかもしれません。良し悪しを別にして。
 ☆ 《良し悪しを別にする》ことは出来ません。結果がわるければ 自業自得のわざにかんして悪の側に よけいに片寄らせてしまう。それでもよいと ゴータマは 内心で思っていたということでしょうか?


 ★ 今本屋にいます。法華経を手に取り、読みやすい経典だなと思います。
 ☆ 漢文ではなく 日本語の訳が出ていますから。

 ★ 無類の衆生の徳度するのが描かれており、いかにも大乗らしいです。法華経を書いたのは釈尊ではなく、別の仏だと言われていますが、この経典のように一切衆生の解脱を説いた処に私は平等を感じます。
 ☆ ですから そこまで大きな乗り物(マハーヤーナ―)であるにもかかわらず 《一大事因縁》ではゴータマは シャーリプトラの願いを聞き入れずこれを無視して さとりの境地を説明しなかった。なぜか? こちらのほうが 問題です。

 つまり この説明がないとすれば そこに描かれた《無類の衆生の得度》にしても 眉唾物であると見ざるを得なくなります。そういう問題です。そうではないですか?

 
 知らなかった・つまりペテンだったのでなければ つまり さとりについて確かにほんとうに知っている(つまり その境地にあった)けれども なぜか語らなかった。とすれば どういう理由が 考えられるか?

 もし語っても人びとは理解できないと考えたとすれば それは 自分の説明能力の無さを語っています。自分の力不足であるに過ぎません。四十年もつづけて来て それでも説明の仕方を考え及ばなかったとすれば それは さとりの度合いが 低いということでしょう。それ以外に考えられません。
 これが わづかにペテン師でない場合の解釈です。つまり 《この上なき智慧のさとりを得た》というのは 大法螺であったことになります。

 どこから見ても ゴータマに勝ち目はありません。

お礼日時:2014/04/03 19:56

今、たまたまスタバにいます。

はからずも本当のコーヒーブレイクとなりました。
マーガンディヤはじめ世間の人々の肩も、釈尊はじめ出家者の方々の肩も持ちませんが、想像を逞しくするなら、マーガンディヤは美貌を鼻にかけた嫌な奴だったかもわかりません。その世間の人々の心理を見て、常識に縛られず言いたいことをそのまま言ったのが釈尊だったかもわかりません。それが不自然なまでに威圧的であったとしても、そういう極端な遠慮のなさが彼にはあったのでしょう。良い悪いは考慮しない、物怖じしない、そんな感じではないでしょうか。俗世間の事を意に介さないといってもよいかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 《スタバ・・・》。――それはそれは 偶然の一致とは言え。・・・

 これからのことを考えて 用語を精確にしておきます。

 ・マーガンディヤ:バラモンのひと。次の女の父。
 ・マーガンディヤー:娘。


 ★ 想像を逞しくするなら、マーガンディヤは美貌を鼻にかけた嫌な奴だったかもわかりません。
 ☆ のちに コーサンビーの王の第三夫人になります。そのとき ふたたび・みたび ゴータマ・ブッダの弟子となっていた第二夫人のサーマーワティ―を ゴータマを恨む気持ちから その復讐として焼き殺しにします。

 《嫌な奴》だったのでしょう。
 けれども 問題は それをどうあつかうかです。マーガンディヤーなる女性が どのように成仏するかについて考え回らすのが ブッダなる人間の役目ではないか? にあります。


 ★ その世間の人々の心理を見て、常識に縛られず言いたいことをそのまま言ったのが釈尊だったかもわかりません。
 ☆ それならそれで かまいません。世間の秩序がそれによって保たれるのなら ひとつの手です。

 ★ それが不自然なまでに威圧的であったとしても、そういう極端な遠慮のなさが彼にはあったのでしょう。
 ☆ いえ。ですから その《放言ないし暴言》にしても 世の中の秩序のためといった一つの目的があるのならば 理解はできます。つまり 問題は それとともに マーガンディヤーの人間性をどのようなかたちで受け留め 互いにこれをどのように磨いて行けばよいか? こういう問題に問題は移ります。


 ★ 良い悪いは考慮しない、物怖じしない、そんな感じではないでしょうか。俗世間の事を意に介さないといってもよいかもしれません。
 ☆ 俗世間のことは意に介さないのなら それでもよいでしょう。問題は ひとりの人間ということです。いかに悪人だと言っても まだその悪行は この求婚とそのことわりの段階では なされてはいません。

 そもそも ゴータマの暴言によってゴータマに恨みを持ったところから マーガンディヤーの悪人ぶりは 現われて来ます。いったい全体 このことを ゴータマくんは どう考えているのか? 恨みを買われるのは相手の勝手であり その恨みによって 仏弟子が犠牲になっても それは おれの知ったこっちゃねえと言うのか? どうなのか?

  すでに別の質問でのやり取りの中で この仏弟子サーマーワティ―の焼き殺しを承けてのゴータマの言葉は 引用したことがありますので ここでも 掲げておきます。


 △ (仏弟子の死を悼むゴータマ) ~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html(その趣旨説明欄)

  僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。
  この世でたとえいくら生きても 放逸でわがまま勝手で 
  道を需(もと)めない人間は すでに死んでいるのと同じで
  生きていても価値がない。

  それにくらべ いつでも熱心に道を需め 正しいことをし
  ようと願い 慈悲の心の燃えている者には 永遠の命がさづ
  けられている。

  現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。
  マーガンディヤー(=ねたみを持った 犯人)たちは 生
 きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。
  サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても 永遠に生
 きつづける。
  彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに
 聖者の位を得て死を迎えている。
   (寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに対しては どこまでも高ぶった心の恥ぢ知らずの高慢ちきのコンコンチキだとわたしは評してはばかりません。

 このゴータマの肩を持つ場合には よほどの説明が必要でしょう。それもなければ その人は 正真正銘のイカレポンチでしょう。

お礼日時:2014/04/03 17:56

普通だったら、私は出家の身ですので、、、という断り方でしょうね。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 成仏得道について たとえば次のように説明されます。

 ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6


 § 3 生涯
 § 3.3 成道

 そこで(* 《難行苦行を捨てた》のち) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。

 ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。

 すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。
 壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け悟りを開く。
 これを「降魔成道」という。・・・

 7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。
 8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。

 22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。

 その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち その中身が何であるかはともかく ゴータマは 《さとりを得たし 解脱を得たし その内容としての法を説けるほどには 知っている》ということが あったと捉えられます。

 そしてそのあとです。いろんな説法もおこなわれましたし この質問では バラモンとのやり取りをもしている。ということです。バラモンのマーガンディヤの問いかけとそれに対する答えも然ることながら ここでは 求婚をことわるゴータマのせりふを問題にしています。


 つまりは 《さとりを得た》と言っているそのあと ここで取り上げたような求婚に対する断わり方をしている。これをめぐる受け留め方が 論点です。


 ★ 普通だったら、私は出家の身ですので、、、という断り方でしょうね。
 ☆ つまり 何故ゴータマは 《ふつう》ではないのでしょう? という問いです。さとりを得たと言っているその発言をめぐって考えるに この男は ペテン師だからではありませんか?

 
 まぁ コーヒーでも飲みながらなのですが。

お礼日時:2014/04/03 16:28

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!