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NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場する、官兵衛の主君である小寺政職は、ドラマにあるような優柔不断で決断力の無い殿様だったのでしょうか?

後年、小寺氏は織田方を裏切り毛利方に味方したことで流浪の身となり、政職の子息である氏職は黒田氏の家来になったとのことですが、世が世なら殿様である氏職を家来に取り立てた官兵衛は、氏職をどのように扱ったのでしょうか?双方共に気を遣ったのではないかと想像しますが。

A 回答 (2件)

わたしもNO1さんと同意で、あの時代に浪人を派手に取り立て城持ち家老にするとなると譜代以上の他の大名家でもなかなか類を見ないような厚遇をしてるわけで、それだけの決断力のある人間の描き方にしてはあまりにドラマの描き方がひどいと思っていました。



小寺氏職の取り立てですが、この手の取り立ては黒田家傘下に入った旧小寺一族・家臣の懐柔と傘下に入らなかった旧臣の取り込みが主な目的です。となるとこれらの勢力が連合して叛旗を翻さないように警戒しつつ彼らが納得するように厚遇したと思われます。
なんともめんどくさい話ですが、それで反発しそうな勢力に反乱を起こさせずに懐柔できるならば安いものだったのでしょう。

戦になったら農民でもなんでも駆り集めて戦力にするのが得意な武将です。
こういった懐柔策をあちこちで常にとり、いつでも人手をかき集められる準備に日ごろから余念がなかった武将だと推測しております。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

小寺政職役の役者さんのメークや話し方など、NHKにしては思い切った演出をしているなぁと思います。また小寺氏の御子孫からクレームが出ないのかと余計な心配もします。

黒田氏としては内紛を避けたいところでしょうから、若くして隠居状態にある、かつての主君の子息を家来に取り立てることによって旧小寺氏側の不満を逸らすことが出来ますね。しかし、かつては上座にあった者が下座に就くというのは辛いものがあると思います。

お礼日時:2014/04/12 17:42

小説など見ると、大永元年赤松義村が浦上村宗に殺害されると、赤松義村の遺児・赤松政村(晴政)と共に細川晴元を頼って落ち延び。

享禄4年に村宗と細川高国を討って赤松氏の再興に尽力したし、その後は小競り合いを制し、播州平野を中心に独立勢力として割拠した。この間多くの家臣を登用し、牢人であった黒田重隆・職隆親子の能力を認めてめ、天文14年に家老職に引き上げ姫路城代を任せるなど、ドラマのように優柔不断で決断力の無い殿様だったとは思えません。
(一時的に判断を誤ったのは他の家老・側近・我が子可愛さによるもででしょう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA% …

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

体制が固まった天下泰平の世であればともかく、時代は動乱期の下克上の時代ですからね・・・。ドラマのままの殿様なら、家来も見限って他家へ奉公先を変えるかもしれませんね。

お礼日時:2014/04/12 17:32

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