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豊臣秀吉は往年、千利休や関白豊臣秀次など高名な人たちを事実上始末しています。
秀次については淀君(茶々)の間に生まれた秀頼との抗争を避けるため等々、色んなことを調べるとそう書いてます。とにかく大事で大事で仕方ない秀頼なのは解るんですが、おそらく秀次を外す頃には5大老の筆頭家老である家康とは過去、小牧・長久手の戦いなど複雑に絡み合って悶着しながら付かず離れず実際にはある程度距離を置いてます。

5大老の長、ということもあり絶大な信用もしていたのでしょうが、秀吉自身、徳川家康が着実に力をつけてるのは大阪から容易に知れ、危惧してたと思います。

そこでお聞きしたいのですが秀吉はなぜ、自身の老体も顧みず(歳が歳なのでそのうち死ぬだろうと予期できたはず)安易に秀次を処分してしまったのでしょうか?
幼い秀頼では心許ない、と旧友である前田利家なんかにも相談してますよね。だったらせめて格好だけでも豊臣性である秀次を残しておかなかったのか疑問です。そして逆に言えば、東国の家康を全く驚異に感じていなかったのでしょうか?
更に秀次が生きていたら(秀吉がうまいこと操って担ぎあげてたら)大阪の陣は起きていたでしょうか?また起きていたなら豊臣勢が有利に展開できたでしょうか?ifの質問ですが個人意見として参考になればと思いました。

質問が複数になり申し訳ありません。
なんだか矛盾を感じたもので教えて頂ければありがたいです!

A 回答 (6件)

秀吉の秀頼への偏愛ぶりは多分あなたが想像しているいるよりも凄いものです


とにかく晩年の秀吉は秀頼しか見えていない状態でした

豊臣の正当な後継者は秀頼であり それ以外の一族はいずれ秀頼に仇なす と考えていたようです


秀次よりも先に死んだ 秀吉の弟の秀長…
彼の死が豊臣の運命を決めたと言っても過言ではありません

豊臣秀長は千利休の最大の庇護者であり諸大名からも信頼の厚い人物でした
家康は「太閤様(秀吉)ではなく大和殿(秀長のこと)が天下様であったら 自分とて天下取りの野心は芽生えなかった」と
手紙で家臣に書き送っています


秀吉は家康を最も認めていたし信頼もしていた まさか裏切るとは考えてなかったでしょう
右腕の前田利家も居たし…
しかし秀吉の不運は利家がすぐ死んだことです
他にも 世継ぎ候補の羽柴秀勝は朝鮮で戦死 弟秀長は早世…
と 秀吉の周りではなぜか身内が次々死んでいます
これも豊臣政権の脆弱さを物語っています

家康が多くの子を残したのは この豊臣家を見てきたからです
子供が多ければ多いほど 家は安泰ですからね


秀次には秀保という弟が居まして 彼は秀長の養子になってます
現在羽柴家が残ってますが それはこの秀保さんの子孫でもありますね


秀頼が生まれなければ 天下は秀次のものであり 豊臣家は滅びなかった
いやもしかすると逆にもっと早く滅びた可能性もあります
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この回答へのお礼

なるほど。丁寧で解りやすい回答ありがとうございました!今回こちらをベスアンにさせて頂きます!
秀吉の周り、確かに呪いのようバンバン血族しにまくってますね(>_<)
秀長のサブストーリーまで頂き大変勉強になりました。あの家康のことですからたとえ秀長が天下を継いでてもうまいこと天下を横取りした気もしますが(笑

お礼日時:2014/04/14 14:25

秀吉は、信長の後継者との大義に捕らわれすぎたために浅井長政と信長の妹・お市の方との3人娘の茶々(淀君)との間の子供を追求しすぎたために子宝になかなか恵まれなかったのではないか?


秀吉の子が正統な後継者とされるためにこだわってる。

信長の遺児と柴田勝家の連合を差し置いて、ただ光秀を討っただけでもはや天下人同然だった信長父子の所領と軍勢を継承したのも疑問。

弟の大納言・秀長に子がいたら女兄弟が生んだ甥の秀次を担がなくてよかったわけで、軍功のない秀次では豊臣での治世は出来ず世継ぎがいなくて翻弄されたのが気の毒な。

信長の遺児を立て織豊政権として生きる術はなかったのか、天皇の皇子を養子としていたので鎌倉幕府のように親王将軍にしてでも。
家康はどんな気持ちで将軍に任じられ幕府を開いたのか、戦国武将の悲哀ですね。
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この回答へのお礼

正当な後継者、直系といえば確かに秀頼だけですもんね。それにこだわり過ぎたということも災いしてるような気もします。秀吉は確かに棚ボタ感満載武将である意味そうとう運も味方してたのでしょう。
織豊政権・・・歴史的にはそういった可能性もあったわけですね。面白かったです。ありがとうございました!!

お礼日時:2014/04/14 14:37

秀次を処分した時は、秀吉さん自分の寿命を考えてませんね。


秀頼の嫁に家康の孫娘千姫を希望したとき、家康も自分同様に孫は可愛いだろうから、その孫のために秀頼をしっかりサポートすると考えてたのでしょう。

秀次の処分は、秀次の評判の悪い噂がひろまってたことから、天下人としての必然的な決断だったと思います。
 秀次処分の時点では、豊臣政権の崩壊は予想できなかったでしょう。
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この回答へのお礼

晩年の秀吉さんは本当にどこかおかしい感じがします。秀次は悪い噂あるようですねー。でもそれは捏造されたものなのか現代の我々には分からないような気もします。ありがとうございました!!

お礼日時:2014/04/14 14:31

その後の歴史を知っている現代の我々から見ると、この時期の秀吉&三成は、なんと愚かなことをやっていたのだろう?と思わずにおれません。


しかしながら、秀吉&三成も、必死に考えて最善策と信じて、そうして来たのに違い有りません。

判断が誤った原因が何かと言うと、家康の実力を、実態より軽く見たからが主因でしょう。

では、なぜ家康の実力を軽く見たか、というと、駿河を中心とした本領から、関東に転封させたことにより安全が確保された、と考えていたからでしょう。
それまで関東を収めていた北条氏を圧倒的に滅ぼしたのですから、イザとなれば、また同じように滅ぼし得ると考えていたのではないでしょうか。

その危うさが見えなかった原因は、弟秀長と、竹中半兵衛の2人が亡くなったからでしょう。
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この回答へのお礼

やはり家康の実力を軽くみていたのでしょうか。そして右腕のように仕えていた2人の死。なるほどな回答ありがとうございます!

お礼日時:2014/04/14 14:27

tenpuruo-m さん、こんばんわ。



秀次を残しておいたら、豊臣家の内紛が起きるということを考えたのだと思います。自分の直系である秀頼の行く末を考えると秀次を生かしておいたら危険だと思ったのです。特に家康に操られる可能性もありますからね。
秀吉の死後、家康と秀次連合軍による大阪城攻めがあると思われますから、それから大坂の陣はもしかしたら、もっと早く行われていたと思います。
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この回答へのお礼

家督を巡る遺恨。やはりその線が最も真実に近いでしょうし実際そうだったのでしょうが徳川家に乗っ取られるよりマシな気がします。やはりまさかそうなるとはこの時点で思ってなかったんでしょう。
秀次を操る・・・そうゆう展開もあったんでしょうか。ifな質問にお答え頂きありがとうございました!

お礼日時:2014/04/14 14:46

>だったらせめて格好だけでも豊臣性である秀次を残しておかなかったのか疑問です。



身内というのは他人よりも始末が悪い場合も多い

傀儡として担がれる可能性も高い
実際にそういう事例も多い

ならば、臣下と主君との関係を明確にし官僚機構を強固に構築して自らの血脈のみを残した方が安心と考えたかも知れない

実際には、戦国の気風が残り官僚機構の構築が間に合わずに、臣下同士の勢力争い(文治派と武闘派)を巧みに利用した
徳川さんに果実を持って行かれてしまったが・・・・

あそこまで家康が長生きしなければ、後の歴史はもっと違ったモノになった可能性はある
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この回答へのお礼

ありがとうさまです。実に興味深い回答でした!

お礼日時:2014/04/14 14:17

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