僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。
そもそも、
(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?
(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?
(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?
No.2
- 回答日時:
私も素人ですが、
(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?
迂回奇襲をしたと読みました。今川義元の居場所をつきとめてそこを襲いました。恐らく団子になった陣地ではなく細長かったのでしょう。細長く広がった陣地を横から攻められればいくら大軍でも不利になります。
(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?
二万五千の大軍ですから負けるとは思わなかった。負ける筈のない戦いですからここは勇猛果敢の将であることを顕示しておきたかったのでしょう。
(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?
二千五百対二万五千といっても戦いの限られた現場ではむしろ不意を突いた織田軍のほうが優勢だったわけで義元は神輿にのって逃げ回っていたそうです。そういう状態であれば褒美をほしい足軽が神輿を狙うのは当然です。
義元の居所を正確につかみ奇襲が成功したわけですからやはり情報提供者が一番の功労者でしょう。ただ、義元を討ったという名誉は毛利新助が得ました。毛利新助は有名になりましたが情報提供者の名前は私は初めて聞きました。
毛利新助は二番目の褒美をたっぷりもらったでしょうから二番目の地位には多少不満でも十分うれしかっただろうと推測します。
No.3
- 回答日時:
この質問は、Wikipediaの「桶狭間の戦い」を読んでの疑問ですよね。
私も、この件については、WIkipediaを上回る情報も見解も持っていないのですが、
ただ、このWikipediaの記事を読んで、得られることは、以下です。
結局、桶狭間の合戦については、何が真実なのかは分かっていないし、今後分かる見込みも無い。
我々は、多くの歴史小説やNHK大河で繰り返し描かれる共通点を、歴史の真実と受け止めがちなのですが、
真実はそうでないことや、少なくとも何が歴史の真実なのか分からないことは、多々有ります。
そのように受け止めるしかないのではないでしょうか。
No.4
- 回答日時:
1.
結論は出ていませんが、近年の研究では正面強襲説が有力となっています。迂回奇襲説の根拠となったのは、旧日本陸軍の研究に基づくもので、公けの機関の、しかも戦争を仕事としている陸軍が研究してそういう結論に至ったのだから町の歴史家のいい加減な研究ではないというのはあります。当時の軍人としては、正面強襲説をとるとなると軍事的には「禁忌の手ばかりを打って戦争に勝った」というメチャクチャな結論に至るので、「これで買ったなら常識的に考えれば迂回奇襲が正しいだろう」となったのです。
でも、実際の信長が打った手は非常識に非常識を重ねるようなとんでもない手でした。でも結果から考えると「それが最も合理的だった」という凄まじい手でもあったのです。戦術的には非常識極まりなくても、戦略的には合理的だったんです。これこそが信長は戦国時代随一の戦略家だと私は思っているのですけれどもね。
2.
おそらくですが、大高城に向かっていたのではないかと思うのですよ。大高城に入れば、そこが勢力圏で安全な前線基地になりますからね。
それに義元本隊がいたあの場所は必ずしも最前線ではありません。仮にあの場所に信長がのこのこ出てくれば、それこそ今川軍の思う壺で包囲殲滅されてしまいます。だから、常識的に考えればそんなことをするはずがないし、もししてきたらしてきたで「飛んで火にいる夏の虫」だったんです。
なぜかというと、もし信長が出陣したらその知らせが今川軍のどこかに知れていずれその行動が明らかになりますからね。だけどあの辺りについてはホームで地理も知り尽くしていた信長はいってみれば最短の裏道を使って出陣したので「信長本人が出陣した」という情報を今川方もなかなか掴めなかったんだと思います。
3.
良勝(新助)さんはその功績で黒母衣衆という信長の親衛隊に入ったようです。ただし、この黒母衣衆は何も戦場の親衛隊という役割だけではなくて、秘書として直属の部下になるという文官としての役割があったんですね。どうも良勝さんはこっち方面に才能があったらしく、「依頼ありました件は、信長さまに伝えてよろしく取り計らうように命じられていますので、安心してください」というような手紙が残っています。
トヨタの期間工が豊田社長直属の秘書になったようなものですから、破格の大出世といっていいと思います。義元の首をとらなかったら一生足軽に毛が生えたような武士で終わっていたかもしれません。
No.5
- 回答日時:
1、迂回奇襲説は江戸の「軍記物」という小説「甫庵信長記」によります。
エエ加減な書物なんですが、娯楽性は高く、ある意味、傑作なので大ヒットして、奇襲説も広まりました。正面攻撃説は、信長の近臣の太田牛一による調査研究書「信長公記」によります。この書物は信頼度が高く評価されています。
2,「信長公記」によると、義元本陣は、桶狭間山の「前軍」の後方にありました。ですから、「最前線」というよりは「前線」です。おそらく、この「前軍」を頼りにしていたのでしょう。この「前軍」がなぜかあっさりと崩壊してしまいましたが。ちなみに、「信長公記」によると、信長はこの「前軍」を、攻撃部隊と見誤っています。
3,梁田の話も「甫庵信長記」の作り話です。「信長公記」では、攻撃部隊と思って間違って攻撃した「前軍」が、あっさり崩壊して、直後に義元本陣が発見されています。信長は義元の位置を知らなかったのです。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?
物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。
> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?
今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら300を短時間で一蹴し終っていた。 目的は半ば達成できた。 義元は戦果に満足し、同時に織田軍を甘く見ていたのかも知れない。
そこへ昼過ぎから急に豪雨に見舞われ、急遽休憩に入る。 二万五千と言われる部隊も休憩であり、いくつかに分かれて休憩に入り、本体は五千人だった。 しかも、総大将義元の休憩場所を織田軍の梁田政綱に知られてしまう。 この情報を元に信長は作戦を義元の首に絞る。 篠突く雨に乗じて義元本陣に急接近、雨の上がった瞬間正面から撃って出た。
信長の武将としての先進性を示すもので、近代戦を戦う武将としての高い資質が伺われます。
> 毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?
従来の戦であれば、敵の対象の首が最高の論功行賞とされた。 しかし、ここに信長の卓越した人間観察と近代武将としての資質の高さが見て取れる。 情報を齎した梁田を最高に評価。 しかし毛利にも応分の褒章は与えています。 彼も信長の類い稀な指導性に信頼しており、評価に不満はなかったと思います。
貴重な情報こそ最高の富である。 これは21世紀の我々にも妥当する超近代的な考え方です。 伝来したばかりの鉄砲採用への先進性と言い、彼の資質の高さには目を見張ります。 まさに天才としか思えません。
No.7
- 回答日時:
今川軍25000人説は、明治の陸軍が、間違って割り出した数字です。
太閤検地では駿河・遠江・三河で69万石なんですが、陸軍はなぜか、100万石に太閤検地での平均的な出兵数「1万石で250人」をかけたのです。信長公記でも4万5千以上というトンデモ数字になっています。そもそも、きっちりと検地をしていない時代の出兵数なんて、大名本人も知りようがありません。出兵数の確定のために検地を進めるのですから。
まあ、太閤検地のデータから類推して1万数千人ってとこでしょう。
織田軍に関しては、一応、数の根拠のある、「三河物語・ベテラン兵士石川による山上からの目撃談・織田軍5000人」があります。
今川軍1万数千人の一部(前軍+本陣)に対して、織田軍の5000人(本陣+主力部隊)なら、合理的な勝機はあります。もちろん、信長の強運は言うまでもないですが。
No.9
- 回答日時:
梁田政綱の件
信長の近臣(弓衆)の太田牛一は、若い頃から信長について調べたことを書きためていて、これを老後に編集したのが「信長公記」。この公記には梁田氏の件は書かれていません。それどころか、「信長が義元の位置を知らないで発した発言」が書かれています。「あの疲れた部隊を攻撃しろ」と信長は命令しました。もし、信長が義元の位置を知っていたなら、「あの後ろに義元がいる」と命令して、作戦目的を明確にし、味方の士気を上げているはずです。
この太田牛一を「愚直でおもしろみが無い。」と批評した小瀬甫庵が、おもしろおかしく信長公記を書き換えたのが「信長記」(まぎらわしいので甫庵信長記と呼ばれる)。
この梁田の件は桶狭間の戦いの後、50年以上経って初めて甫庵信長記に書かれました。おもしろおかしく書き換えた本にです。
そして、同時代人の大久保彦左衛門に甫庵信長記は「偽り多し」と評されています。
☆現代の研究では、
信長公記・・・・単独で論拠となり得る、余裕で一級史料。
三河物語・・・・彦左衛門の主観が多いが、一応一級史料。
甫庵信長記・・・・小説
という扱いであります。
No.10
- 回答日時:
情報収集の差でしょう
信長は今川の動きを れこそリアルタイムに察知していた
GPSもケータイも無い時代に それこそ今と変わらないぐらいにです
1 信長は「桶狭間山」の山頂に居た今川の本体を強襲しています
桶狭間はその名前から谷間のように思われていますが実際は山なのです
信長はその山を登って正面から襲い掛かりました
2 これは完全な油断でしょう
まさか信長が来るとは思わず 自ら先頭を進軍していたようです
今川義元は戦でも度々先頭を歩くことがあったようです
3 信長はこの戦いに勝てたのは情報が大きかったことを評価しています
なので的確な情報をもたらした梁田氏を加増 毛利新助もちゃんと2000石の加増を受けています
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