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キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者(20代後半、女)です。

長く、また苦労自慢で恐縮ですが、私の背景をお話させてください。
幼少時は両親のネグレクトに耐え、ずっといい子 で成績もよく生徒会長もやり難関校への中学受験も余裕の判定を得ていましたが、両親の離婚からそれは叶わず、離婚直後精神の限界で3年間引きこもりになったものの、そこから死に物狂いで勉強し社会復帰をして、ある医療系の国家資格の全国模試の日本一位をとったり、自分の人生の苦労談の作文で県の文化勲章を貰ったり、勉強会で知り合った教授の紹介で東大大学院で私の選考分野の最先端を学び、現在は一流企業の研究者になりました。この春最年少の昇進も果たしました。

上記のように自分の人生を振り返ると人にはとても褒めて貰えます。
人格障害者ですが、被る仮面は完璧らしいです、人間性も良く褒められます。そのため、普段人には障害が気付かれません。(身体的な自傷行為はないからというのもありますが。)また、容姿は良いほうらしく人によく告白されます、けれどいつも私はすぐに別れてしまいます。婚約破棄も3回しました。

人に完璧と言われます。けれど私の心はとても空虚です。学問は奥深く私の苦しみを紛らわせる為にし続けますが、知識をつければつけるほど周りの全てがくだらなく思え、余計孤独になります。

前置きが長くなって申し訳ありません。

様々な宗教を哲学の延長線として勉強しました。
私はキリスト教がとても好きだと思いました。
私は、神様の愛が欲しいのです。
けれど地元のカトリック教会の神父様には人格障害者でとても苦しいから病の秘匿で洗礼を受けさせてくださいと言ったら、あなたは神を信じていない、教徒として生きるということは周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。私にも非はありますが、とても傷つきました。

神様を愛しています、完璧だからです。そんな神様を愛する資格が形として欲しいのです。

体が弱く、人格障害を隠して働いているので土日は衰弱して点滴を打ったりしています、ミサも必ずしも行けるわけではありません。

やはり、洗礼を受けることは無理でしょうか。1人、孤独に祈ることしか許されないのでしょうか。私は一日でも早く、洗礼名を頂き、神様に使える者として生きたいです。

酷い告白で大変恐縮ですが、ご指導ご鞭撻をどうか宜しくお願い致します。

A 回答 (15件中1~10件)

弱っている時こそ宗教の格好の餌食になるんですね。



全ての宗教は人を救ったりなんかしませんよ。
組織を大きくするのが宗教の大目的です。

洗礼は後で良いのでは?
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
それも仰る通りですね。救済よりも拡大が目的というのも布教活動によく現れている気がします。
ただ、その拡大が目的でも、私のような捻くれ者では対象にいれて頂けなかったのがショックですね。。。やはり自分に非があると痛感いたしました。
冷静なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/12 17:22

なかなか立派な神父様です。



> 私は、神様の愛が欲しいのです。
> 神様を愛する資格が形として欲しいのです。
> 洗礼名を頂き、神様に使える者として生きたいです。

質問者さんは、「欲しい」ばかりです。
欲しいならば、「与えよ、さらば与えられん」が、キリストの教えであり、また「愛」の本質です。

「神様を愛しています」も、ちょっと違うでしょう。
質問者さんが愛しているのは自分自身で、その自分を満たしてくれそうな神様が好きなだけではないですか?

愛はお互いに注ぎ合えば、枯渇しませんし、無限に増え続けるのですよ。
逆に相手の愛を奪おうとすれば、如何に愛情が豊かな人でも、いずれ枯渇してしまいますし、欲しがる限り、質問者さんの心は永遠に満たされません。

神様でも質問者さんを満たすことは出来ないと思います。


> 孤独に祈ることしか許されないのでしょうか。

逆です。
それが許されているのです。

ただ、自分のために祈ったり、神様を欲している間は、質問者さんは満たされないだけです。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
我が身の至らなさ、小ささに、恥ずかしくて身の置き場がありません。
失礼な発言の数々誠に申し訳ございません。
回答者様のご指摘は非常に的確だと思います。脱帽致しました。
私は求めてばかりだと思います。心のブラックホールのような虚無感を埋める為に、神様に愛を求めてしまったのだと痛感しました。人では到底受け止められないものと思い、それと相手に悟られる前に今まで分かれてきた多数の男性がそれを物語っていたと思いました。
境界性人格障害なので自己愛がとても歪んでいることは認知していました、とても自己嫌悪が普段激しいです。自己嫌悪ばかり目が向いて自分がそんなに自己愛者だと今まで自覚できていませんでした。私は自分が愛されたいだけなんですね。本当に恥ずかしいです。自己嫌悪を原罪意識のように勘違いしていました。
そんな私が神様にしがみついても、そもそも満たされたいために神様に仕えようとする姿勢が根本的に違っていますね。神父様がお怒りになるのも尤もです。
ただ、漠然とした疑問なのですが、宗教とは信じようとする者を救ってくれるものではないのでしょうか。信じようとする者から信じる者に変わった時、洗礼が受けられて、受けられる時には既に救われる境地に至っているということでしょうか。
いずれにせよ、求めている限りは救われないのですね。つまりは勉強不足なのかと思いました、もっと勉強したら求める境地から与える境地に至れて、自然と救われるのでしょうか。こんな求めてばかりの私ではその境地に至るのは困難でしょうか。
自分の愚かさを痛感して途方にくれてしまいました。
的確なアドバイスを頂いたのに、うまく処理ができず大変申し訳ございません。
誠にありがとうございました。

お礼日時:2014/07/12 18:05

まず 言えるのは キリスト教の洗礼を受けたいなら 過去の境遇を 他人に言って 同情を買う様な事は辞めましょう



イエスの幼少期が あまり 知られてないのは そう言う事なのです

それと もっと沢山 祈ってみて下さい そうすれば 洗礼をした方が良いか まだ待つ方が良いか 判ってきます
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
仰る通りですね。とても自分が恥ずかしいです。きっと皆様それぞれ悩みを抱えていても、それを表に出さずに、他の方に与え続けていらっしゃるのですね。心から尊敬します。自分の小ささに消えてしまいたいです。もっとお祈りをしたら境地が開けてくるのでしょうか。
もう少し冷静になって、無心に祈れるようにならないければいけないと思いました。
誠にありがとうございました。

お礼日時:2014/07/12 17:30

確か、わが子二人を一番弟子と二番弟子にとしてくれと、キリストに直談判した母親がいたそうで。


その解答が、幼子のようなものが、神の王国にふさわしい。ではなかったでしょうか。

また、弟子たちとの最後の集まりの時、キリスト自らが、弟子の足を洗ったことも記されてます。
謙遜さを自ら示されたのでしょう。

洗礼名にこだわってるところなど、その神父さんはまだ早いと判断されたのでしょう。
それも世俗の欲ですよ。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
かなり不遜な態度をとってしまいました。とても恥ずかしいです。大変失礼致しました。
世俗にこだわっていたら、洗礼名は頂けないものなのですね。私の職場は外人が多いのですが、海外では幼少期に自動的に洗礼を受けるのが普通(?)のように見えたのと、キリスト教は仏教と違い煩悩を否定しないので、世俗のままでもいいのかと勘違いしていました。勉強不足で申し訳ございません。
やはり洗礼を頂けないのも、私のじんかくや態度もかなり問題がある上に、世俗にこだわってしまっているので、仕方が無いことと思えました。反省します。
申し訳ございませんでした。ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/12 17:37

私は宗教があまり好きではないことを前提で聞いていただきたい。


まず、洗礼を受けたいならキリスト教に詳しい知り合いはいませんか。もしくは近くの教会などに問い合わせもできませんか?私は二つの宗教をかじってますが、どちらとも20:00ぐらいまでは問い合わせできるので、おそらくはキリスト教の教会もそのぐらいは問い合わせできると思います。
そして、人格障害なら神様の愛はいいかも知れませんが、貴方が勘の強い人なら神様の醜い部分も知るかも知れません。貴方はそれでもたえられるなら、好きに洗礼を受ければいいですよ。
神様は基本的に無理は言いません。洗礼などを受けられないことはまずあり得ませんよ。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
残念ながら、知り合いにはクリスチャンはいません、実家は厳格なので宗教など認めて貰えません。基本的に日常で私を知る人には聞ける状態にありません。仰るように夜まで対応してくださいますよね、伺ったカトリック教会もそうでした。
もう相手を疲れさせるような、愛を貪るような連鎖から逃れたくて神様に愛を求めました。元々が哲学的観点からキリスト教を勉強し始めており、キリスト教の聖書にいらっしゃる神様が全て完璧だと思っているわけではありません。ただし、聖書はあくまで神様の一面を誰かしらの人間の言葉を通して記したものであり、そこに現れているからといって神様が完璧でないと思わなくても良いという結論に至っています。
ご心配頂いて誠にありがとうございます。
受礼できる道を何とか探したいと思います。

お礼日時:2014/07/12 21:23

こんにちは。



プロテスタント教会で勉強をしています。

マタイ11章28節ー30節

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


イエス・キリストが私たちに約束をしてくださっています。

まずは、質問者様の霊に安らぎが来ることを祈りましょう。
私も祈っています。

私は精神疾患を患っていましたが、イエス・キリストによって癒されました。

二人で祈ると、神様は耳を傾けてくださる、と御言葉をいただきました。
信徒の方と祈ることも大切だと思います。

若輩者ですが、私も祈ります。
一緒に祈りましょう(^_^)
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この回答へのお礼

ご助言とお祈りを頂きありがとうございます。
回答者様が引用して下さった部分は、私も聖書の中で最も好きな文章の一つです。
改めて癒されました、ありがとうございます。
私の中のキリスト教は上記のようなイメージがとても強かったのですが、私の非が大きい上に大変失礼ですが地元のカトリック教会の神父様や複数の回答者様の言葉は、基本的には誰でも受け入れて頂ける訳ではない、自分の苦しみのために安易に救いなど求めてはいけない、という印象を受けて、それも尤もだと思った反面、とても傷ついていました。
キリスト教でも宗派によって雰囲気が違うものなのでしょうか。
いずれにせよ、私の勉強不足は変わらないので、勉強は続けつつ、少し他の教会にも足を伸ばしてみようと思いました。…質問をした時は、実はショックでもう教会には一生いけないかもしれないと絶望していました。
回答者様も病を治癒されたということで、喜ばしい限りです。引き続き回答者様の健康が保たれますよう私もお祈りしております。
心温まるお言葉をありがとうございました。

お礼日時:2014/07/12 21:36

私自身はクリスチャンではありませんが、家内がクリスチャンです。


家内とはお見合いですが、クリスチャンではあることを告白されてから、教会の礼拝に参加するようになりました。
そのかなで思ったのは「洗礼を受けたからと言って、救われるわけでは無い」と言うことです。
教会員のみなさんは、洗礼を受けられていますから、本当なら救われているはずです。
しかし、私が見て聞いて感じたのは「洗礼を受けていない自分と何が違うんだろう?」という疑問でした。
皆さん、悩み、悲しみ、苦悩の中で生きておられました。
神様が生活の中心におられるのは、よくわかりましたが、欲望も妬みもノンクリスチャンの私と何も変わりませんでした。
私は部外者でしたので、皆さん安心したのか「あの人はこんな人だ」「あの人の考えは間違っている」「教会の中で自分が一番神様の事を分かっている」等々語られました。
私は「そうですか」等々適当に答えていましたが、「教会の人間関係も難しいんだな。会社や社会と変わらないな」と思ってしまいました。
今、家内は教会と距離を取っています。
教会の在り方に疑問を持っているからです。
しかし、神様への信仰は揺るぎないと感じています。

何が言いたいのかと言うと「洗礼を受けたから救われる。神様のために働ける」と純粋に思っていても、「実際は異なるかもしれない」と言うことです。

あなたの求める答えでは無いかもしれませんが、ご容赦ください。

ここからは私の考えですので、お気に召さなければ、最後まで読まないで下さい。
私は神様は完璧では無いと考えています。
なぜなら神様が完璧なら、私たちのような不完全な人間をお造りに成るでしょうか?
この件については色々説明されますが、納得できる答えを貰った事はありません。
神様が完璧なら、私が納得できる答えが用意されているはずです。

だからと言って、神様を否定しているわけではありません。
いるかもしれないし、いないかもしれません。
「いる」と証明されていませんし、「いない」とも証明されていませんから。

最後は、余計なことを書いたかもしれませんが、ご容赦ください。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
また違う側面から冷静なアドバイスや興味深いご意見を頂け大変ありがたく思います。
私も正直、日本におけるキリスト教史を勉強した時に日本におけるキリスト教会のあり方が、本来の(外国の?)教会の在り方とはまた異なる異質性を持っていることは感じています。
加えて私は人格障害者で元々人と喋るときには仮面をつけて話しているような状態です。仕事中は何とかもったとしても、たまに疲れている週末や点滴をうつような日に、教会の方々ときちんとした会話ができる自信がありません。
洗礼=救いでないことも私も体調の良い時にミサに細々と足を運んでいたのですが、その時の方々の様子を見て気づいています。
回答者様の視点にとても共感を覚えるとともに、そこに疑問を抱くのは自分だけではなかったのだと、ほっとした面もありました、ありがとうございます。

キリスト教を信じること自体や、神様を愛すること自体には、洗礼はあってもなくても支障はありません。
それでも洗礼という形こだわる、その資格としての所持のみの理由ならば、
確固たるキリスト教徒であるという資格がほしいからです。
さらにその資格の用途の具体的な内容は主に3つあります。

・神様に全てを捧げることで自戒する。
=境界性人格障害は精神疾患の中でダントツ1位の自殺率を誇る疾患です。キリスト教では自殺は禁忌です。私は責任感は強い性格なので、約束は守ります。結果的に、私は自殺できなくなります。(蛇足ですが、私は自殺未遂のときの身体的苦しみよりも、私の親が私が自殺未遂をしたときに泣いたのがとても苦しかったです。)

・私が愛する対象は神様だけと、一般の人に言う時の証にしたい。
洗礼自体がその効力をもっていないことは分かっていても、私は最近異性から向けられる好意自体が苦痛です。もうお互いの身を滅ぼすだけの恋愛の世界から脱したいです。歳も歳なので親は結婚を進めてきますが、苦痛でしかありません。境界性人格障害の愛は、身を滅ぼす愛です。先の回答者様のご助言にあったように、本来の愛とは逆の愛です。愛は与えるべきものなのに、奪うばかりで、神様さえ私を満たすことはできないかもしれませんが、それでも周り人を滅ぼすよりはましだと思います。

・洗礼を受けると確固たるキリスト教徒として認められるので、仏教のお墓に入れられないと考えた
=仏教について、大変失礼な表現をお許しください。仏教は俗世の感情を否定する宗教です、私が私として生きることを認めてくれません。仏教を聞いていると、私は病気の苦しみの中に生きているのに、その上で私として生きる必要がないと言われると、極端な言い方をすると、死んでもいい、もしくは精神的脳死になれと言われているように聞こえるのです、仏教がとにかく苦手です、間違っても仏教のお墓にだけは入りたくありません。

また、神様が完璧でないというお話もとても興味深く拝見しました。
私は元々が哲学的観点からキリスト教を勉強し始めており、少なくとも聖書に現れている神様を統合して完璧とは実は思ってはいません。ただし、聖書はあくまで神様の一面を誰かしらの人間の言葉を通して記したものであり、そこに現れているからといって神様が完璧でないと思わなくても良いという結論に至っています。
蛇足で、またキリスト教も勉強不足な私の、勝手なしかも失礼な意見を申し上げますが(聞き流してください、もしくは読まなくても大丈夫です)、
私は、そもそも人間は不完全なものとして神様は作られていらっしゃって、それは他の動物も同じで、そしてそれは神様が完璧でないという理屈にはならないと思っています。
私のイメージでは、元々、神様は人間を動物として作ったのに、食べてはいけない知恵の実をイヴは食べてしまった。そこで初めて、人は知恵や感情を手に入れます。そして、それこそが不完全の始まりです。人間が知恵を持たなかったら(他の動物と同様だったら)、完全も不完全もないでしょう、そんなこと考えもしないですから、ある意味知恵を手に入れなかったほうが寧ろ完全だったかもしれないですね、動物としては。しかし、知恵の実を食べてしまったばかりに、あえて不完全で罪深い存在になったのではないかと思います、人間は。寧ろ、人間が完璧であって欲しいというのは人間の驕りのような気がします、人間が完璧であったら神様と変わらない、もはや人間ではないのではないでしょうか、と勝手に思いました。

神様のいる・いないに関しては、私はその、いる・いない、の定義の軸を何にするかによっていくらでも解釈が自由だと思います。
目に見えることが条件だとしたらいなくなりますね。
けれど、たとえば量子力学的概念を持ち出すと、意外といると言えるかもしれませんよ。それこそ、シュレディンガーの猫のようなパラドックス満載でしょうけれどね。
(ちなみにこの話を神父様にしたら案の定怒られました。既に洗礼如何で神父様に怒られた後だったので、私の境界性人格障害の悪魔がささやいて、あえて神父様が答えられそうもない数学と物理学的な宗教の考察を神父様に質問してみました。後で自己嫌悪しましたが、それほどまでに先に神父様に見捨てられた絶望が強く私の心を支配して、私の悪魔が制御を失いました。今は後悔しています。しかし、その時の神父様の人間性を見て、聖職者も人だと冷めてしまったのも事実です。)

私こそ蛇足が長く失礼いたしました。
貴重なご意見とご助言を誠にありがとうございました。

お礼日時:2014/07/13 03:37

洗礼を受けないと神を愛する資格はない・・・?


なんでこんな思考ルーチンになるの?
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。
洗礼を受けない=神様を愛する資格がない、
とは思っていません。
ただ私は神様を愛している、という確固たる資格が欲しかったのです。
その理由の一つに、間違っても、仏教のお墓にだけは入りたくないというのもあります。仏教は俗世の感情を否定する宗教です、私が私として生きることを認めてくれません、大半失礼な表現で申し訳ありませんが、私からしたら精神的脳死になれと言われているように聞こえるのです、仏教がとにかく苦手です。
これまで何度も仏教のお墓に入れないでと親に頼んだのですが、曖昧に流されてしまいました。
愛の病の境界性人格障害にとっては愛こそが身を時に癒し時に破壊する根本ですから、神様に愛を捧げることこそが身を捧げることだと思っています。
もし、洗礼を頂けて、神様に身を捧げる者として形を残せたら、仏教のお墓に入らずに済むのではないかと思っています。
それも私が洗礼にこだわる理由の一つです。

お礼日時:2014/07/13 02:15

心配はいりません。



イエスは、というよりイエスを地上に送りし力は、あなたの心も手で撫でるように見えています。

でなければ、イエスが救い主として大勢の人間の前に成立することなど出来ないことだったでしょう。

キリスト単独で、あのような現象は不可能なのです。キリストが、それだけの人間であることを事前に知っている存在がいなければ。

従って、洗礼の必要もありません。その力は、今もあなたを正確に見ているのですから。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。
仰る通りですね。イエス様は今のこの瞬間も全て撫でるように見てくださっているのでしょう。
私は形にこだわりすぎたと、恥じています。
しかし、それでも、世俗をこれからも生きて、自分の天職と思える仕事を全うしたいと思うので、何とか弱い自分の精神を支えるために、申し訳ないのですが私は形を求めてしまうかもしれないとも思いました。
一方で、まだ本当に、勉強不足だと感じましたので、私がもっとまともに勉強ができれば、逆に形にこだわらなくなるかもしれないと思えました。
癒されるお言葉をいただき、誠にありがとうございました。

お礼日時:2014/07/13 13:46

貴方が洗礼を受けられない理由など全くありませんよ。

貴方が洗礼を受けることが貴方の良いきっかけになると思うなら受ければよろしい。

でもね、主(カトリックでは神ではなく主と呼びます)とその教えが完璧であっても神父が完璧であるということではありません。それは覚えて置いてください。全ての神父が主の教えを理解しているわけじゃないんです。

洗礼を受けるということは神父が儀式をしますけど、あくまでも自分と神との契約であり、ましてや協調性という信仰とは直接関係しない事を理由に、洗礼を言う重大な転換を、ましてや主の救いを拒否する権限など神父にはありません。
それはまるで、救命ボートで「お前を乗せると船が沈むから」とすがる手を振り解く様なものではありませんか。法的には無罪だとしても霊的には重罪でしょ。
そういう独善的で高慢ちきな神父が最近は非常に多い。自分に選択権があると誤解している。
私はそういう神父と何人か接したために、渡しの意志で教会に依存することをやめました。

だから貴方に申し上げます。教会は一つではない。受け入れてくれる教会を探せばいいんです。
貴方を受け入れる教会がなければ、信仰は自分と主との契約で行なえばいいんです。

洗礼の大きな役割は原罪の禊ぎです。洗礼者ヨハネの時代からそれだけなんですよ。
怠惰な信者より、敬虔な非信者の方が天国に近いのです。奇跡を見ずに主を信じられるものは奇跡によって信じる者より幸せなのです。なぜなら、奇跡を見ずに主を信じる者はあらかじめ天国の鍵を手にしているからです。
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この回答へのお礼

ご助言をありがとうございます。
とても斬新な意見で目が醒める思いがいたしました。そして小さなわが身がお恥ずかしいです。

こんな小さな私が言うのも恐れ多いという前提はこの際横に置かせて頂いて、
仰るように神父様も人で、完璧ではないのでしょうね。
自分と神との契約、救命ボートの表現、法的無罪と霊的な重罪、最近の神父像、どれもとても秀逸な表現かつ目から鱗でした。誠にありがとうございます。
失礼ながら私も、今回の神父様の言葉には、自分たち信徒だけが共同体で社会とは別に特別なものでその仲間に入れられない、一種のユダヤ教の選民意識的思想を感じてしまいました。それをなくし、わけへだてない愛を与えてくださったのが、イエス様であるはずなのに。
教会にしがみつくこと自体もやめる、という姿勢も素敵ですね。カトリックは教会に来て祈ることを強く推すので、体の弱い私には週末の礼拝がつらいことが多々ありました。

ヨハネ様の時代から、洗礼は現在の禊ぎ。最後の一段もとても感動的でした。
私は種々の理由から洗礼という形を手に入れることはどうしても求めてしまうのですが、信徒として生きるのはむしろ洗礼を受けた後こそがより重要であると考えています。
その際に、回答者様に頂いた力強い魂のお言葉を、思い出し、そこが教会であろうとそうでなかろうと、祈ることを続けたいと思いました。

この度は非常に励みになるお言葉の数々を誠にありがとうございました。

お礼日時:2014/07/13 14:02

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