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論功行賞ってどのように行われていたのでしょうか?

どういう基準でどれほどの褒美が与えられていたのかを詳しく知りたいです。
褒美の与え方は明文化されていて常に一定だったのでしょうか?

A 回答 (9件)

論功行賞という言葉の意味が非常に広いことから、なかなか難しいご質問です。


組織に何らかの貢献をした人に対する組織として報い方の一つというように範囲を広げますと、いわゆる組織内での昇格という行為もこれに含まれてきてしまいます。
功績に応じて官位に就ける、というのも論功行賞の一つであることになってしまいます。
功績に応じて、という考え方を延長しますと、入学試験も論功行賞に含まれてしまいます。
実は江戸時代の制度が現在の大学入試の原型です。

歴史分野での一般通念としての論功行賞と呼ばれるものが始まったのは、いわゆる武家階級の御恩と奉公と呼ばれるものがその原点だと考えてもさしつかえがないかと思います。
(官位の昇格ということであれば、源義家や平家一門の昇殿(いわゆる雲上人への昇格)許可があります。)

源平合戦に勝利した頼朝は、後白河法皇から与えられた平家没官領500余か所の地頭職に御家人を任じました。
次に、永久の乱後に後鳥羽上皇方の所領3000か所に新補地頭を設置しました。
詳しくは下記のサイトをご覧下さい

公文書館だより 第7号 - 神奈川県ホームページ
www.pref.kanagawa.jp/cnt/f100108/p10446.html

これ以降、武家の論功行賞には土地を与える、即ち、領主権を与えるということが一般化しました。
この制度が最初に破綻したのが、元寇の後の論功行賞でした。
元軍を撃退したものの、国土が拡大した訳ではありませんでしたので、鎌倉幕府は参戦した武士に褒賞として与える土地がありませんでした。これに対する遺恨が北条氏滅亡の遠因となったとされています。

戦国時代に入りますと、頼朝と同じように、占領地を分配するということがごく普通のこととして行われました。
最終的な関ヶ原の結果は下記をご参照ください。

関ヶ原の戦い論功行賞 - Hi-HO
www.cam.hi-ho.ne.jp/y-t-ueno/newpage15.htm

江戸時代に入りますと、戦乱が途絶えた結果戦国時代のような形での貢献ということが途絶えましたので、広い意味での昇格に相当する意味にかわりました。(石高の加増と呼ばれました)
江戸時代の石高というのは領主権を認められた土地の総収穫高に相当していましたので、簡単に増やすことが難しくなりました。
一方で役職への就任条件として役職毎に石高が決められていました。
〇〇という役職であれば△△△石以上の石高の人間であること、ということが必要条件とされていました。
その時点での石高というのは、幕府開闢時の論功行賞で決められて、それが継承されたものでした。
時代が経ち、子孫がその石高に応じた貢献をし得るだけの能力を保有しているという保証はありません。
この状態を打破するために考え出されたのが足高(たしだか)という制度です。
1723(享保8)年6月にときの将軍であった吉宗が定めたとされています。
(実際は幕閣と協議の上で決めたのでしょう)
手持ちの石高が低くても有能な者を抜擢する際に、基準の石高との差を埋め合わせる制度です。
現在でいえば、サラリーマンの役職手当に相当します。
この制度が江戸時代が終了するまで続けられました。

一方で戦乱の途絶えた武家社会では、格式というものが極端に重要視されるようになりました。
さらにこの格式に応じたあらゆる様式が習慣法の形で決まっていきました。
〇〇格であれば、着るものはこれこれ、座る場所はこれこれ、と恐ろしく細かく決められていきました。
この格を決める基準に石高の他に、朝廷の官位が加えられました。
一位とか四位下とか言われるものです。
この官位は朝廷から下賜されるものですが、朝廷への申請手続きは幕府が一手に独占していました。
これが論功行賞の褒賞に使われるようになりました。
お前はよく働いたから朝廷から上位の官位を貰ってやろう、ということです。
役職手当、官位(肩書き)、これはどうみても現代のサラリーマンと変わりがありません。

個々の業績に対する表彰に相当するものは御褒美という形で存在しました。
この御褒美は、武家だけではなく一般庶民も対象とされていました。
御褒美願いというものもありました。
いわば、御褒美の推薦状です、
長生き、親孝行も御褒美がもらえました。
まぁ~ここまできますと論功行賞の一般通念とは離れてしまいますので、説明は止めます。

このように、一口で論功行賞といいましても時代時代で変わってきていますので、基準もさまざまです。
明文化されたものは寡聞にして知りません
結果として、このようは褒賞を得たと言う記録は山のようにあります。
その時代ごとの統計をとれば、ある程度は基準らしきものは分かるかとは思います。
いかなる価値観に基づいて基準を決めていたのか、ということになると、その時代の価値観は何かという問題になってしまいます。
結果として、おそろしく曖昧なものになってしまうのではないのかと思います。

この基準に対する、論功行賞をする側とされる側の価値観のズレが、論功行賞終了後にたびたび起きています。
先に説明した元寇後の論功行賞に対するゴタゴタもこれの一つです。
明治初期の西南の役、佐賀の乱、竹橋事件など、大概の騒動の原因はこのズレが引き起こしています。

もし江戸時代の御褒美の概略をお知りになられたいのであれば、別途補足を頂戴できれば、説明させて頂きます。
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この回答へのお礼

ichikawseijiさん、回答ありがとうございます。

やっぱり論功行賞は与える側と受け取る側の価値観のズレは問題になっていたのですね。
公平に与えていても相手はそうは思っていないこともしょっちゅうあったのではないかと想像しています。

江戸時代のご褒美の概略教えてもらいたいです。

江戸時代は戦さは無かったから基本的に事務仕事の出来で決まってたんですかね?

いつも回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/09/01 08:42

No.5です


わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。
お礼の中にご希望がございましたので、追加で説明させて頂きます
(江戸時代のご褒美の概略教えてもらいたいです。)

論功行賞と御褒美の言葉の定義をしますと恐ろしく分かり難くなりますので、独断と偏見で
論功行賞は身分や階級及び年収に変化をもたらす褒賞
御褒美はその場限りの褒賞
と勝手に解釈させていただきます。
ただし、お殿様が「愛い奴!」と言って出した御褒美については省かせていただきます。
この手の中には、切腹覚悟で「アンタのやり方考え方はおかしい」と言った家臣に対して「あいつのお蔭でオレは間違わずに済んだ」といって御褒美を出した殿様もいました。
当節のサラリーマン上司でもこれだけのことができる人は希少価値でしょう。

武家への御褒美は大概「時服」と呼ばれる綿入れの着物と白銀でした。
この時服というのは平安時代から朝廷で使われていた褒賞といいますか支給制度です。
当時は布そのものが貴重品だったことによるものでしょう。

制度としての御褒美は嘱託銀(しょくたくぎん、そくたくぎん)と呼ばれるいわば訴人報償制というのがありました。
最も金額が大きくて明治以降まで続いたのがキリスト教禁止に基づいた褒賞です
「ばてれん」(伴天連=司祭)を訴えた者には銀500枚、
「いるまん」(伊留満=修道士)を訴えた者には銀300枚、
いったん仏教に改宗した者で再 びキリシタンになった者を訴えた者にも銀300枚、
キリシタン並びにそれを匿っ た者を訴えた者には銀100枚をそれぞれ与える。
という趣旨のものです。
ここで銀〇枚というのは慶弔ように作られていた白銀と呼ばれる銀製の板です。
重さが約43匁ありました。
小判1両が銀60匁~65匁で交換されていましたから、当時の金額にして1両には少し足りない程度の金額です。
銀500枚というのは凡そ350両程度になります。
江戸の裏町長屋で10両あれば人並みの暮らしができましたから、それ相当の額だったと思います。
この他に
盗賊などを通報した場合、火事場泥棒を通報した場合などがありました。
大名領などの場合には、強訴や一揆の相談をしている集団を通報した場合にも設けられていました。
又これらの行為に加担しなかったといってその村の名主に褒美白銀10枚宛、永代苗字免許を許したというケースもあります。
詳しくは下記サイトをご参照ください

1 - 江戸と座敷鷹
sito.ehoh.net/edomachinoseido1.html
ページ上段の江戸の庶民制度12345・・とある2以降のページに掲載されています。

町人の場合には相場として青緡五貫文(あおざしごかんもん)という褒賞がありました。
これは、特に目立つ親孝行者や忠義者に与えられました。
この町人の忠義というのは、自分が雇われている大店などの主人一家や店の存続への尽力などを言います。
御褒美願いという形での町年寄りの推薦状が提出されました。
注:青緡五貫文(あおざしごかんもん)というのは青く染めた麻ひもに1文銭を5000枚通して一束としたものです。
1両が約5000文~6000文でした。
小判一枚ではなく銭にしたのは、庶民は日常的には小判のような高額通貨を使っていなかったとことによります。
長生きも褒賞の対象でした尾張藩では90歳を超えると出されました。
その他には、大名領などでは河川の堤防などの修理に精勤したことに対する褒賞や決壊を未然に防いだことに対する褒賞などがありました。
二宮尊徳などが有名です。
後はおそろしく政治的な思惑が絡んだものもあります。
元禄10年の大地震で崩れた江戸城の石垣の補修を外様大名の大洲加藤家に命じた際に補修工事を見事に完成させたことに対する褒賞を幕府から工事責任の家臣に対して出されています。
殿様の頭越しです。
世が世ならば、かつて義経が朝廷から官位を受けたことに激怒した頼朝がついに衣川で殺害したように一大事になります。
しかし、平和なお江戸の時代にはお殿様も家臣も名誉なことだと喜んだようです。

幕府の勘定方には『恩賜例』という帳簿が残されています。
誰に何時、何を幾らと几帳面に記録されています。
これをセッセと見ては褒賞額や内容を決めていました。

>江戸時代は戦さは無かったから基本的に事務仕事の出来で決まってたんですかね?
それ以外に評価のしようがありませんよね~
ただし、現在のサラリーマンの出世競争のようなことが大掛かりにやられていた時代ですから、論功行賞なのか反対給付なのかが定かでないのが沢山あります。
現在は賄賂でも当時は社交儀礼の必要経費だった時代ですからね~
お奉行様の御褒美の方がよっぽど分かり易いです。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん、いつも詳しい回答ありがとうございます。書くの大変でしょう

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/09/09 08:07

>でもそれだと儲かる時だけ戦って、儲からないない時は戦わなくなってしまわないのでしょうか?



れっきとした大名の家臣として家中の中にいるものなら戦わないわけにいかないでしょう。
サボタージュなどしたら所領を没収されてしまいます。

これが盟主とそれに従属する独立した小領主の関係の場合、サボタージュや時には敵方につくこともよくあります。
ただこれもまた後々禍根を残したら将来どんな扱いを受けるかわからないので厄介ですね。
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この回答へのお礼

jkpawapuroさん、いつも回答ありがとうございます

なるほど、餌が無い時は鞭というわけですね

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/09/09 08:03

不公平が仇にならないようにしなければいけないとのご指摘ですが、結局相手の立場(出奔や寝返りが可能かどうか)を考えながら個別に状況を斟酌していくしかないように思いますが。



論功行賞って戦果の分配ですから、戦功に応じて事前に定めるってことは事実上不可能ですよね?
個々の働きが少なくても戦果が大きければ多くの恩賞を与えることができるわけですし(中には家康みたいなケチもいますが)、個々がいかに獅子奮迅の働きをしても戦果がなければごく一部のものに大名が身銭を切る適度がせいいっぱいですし。
そういう意味では戦果を戦功をあげたものの人数・働きで割ればおのずと個々の戦については結果論的にどの程度の恩賞をあたえるべきかはじき出されるような気はしますが、事前の明文化は無理に思えます。
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この回答へのお礼

jkpawapuroさん、返答ありがとうございます

なるほど戦果の分配って発想なんですね。
勘違いしてました。
戦果の分配って発想なら明文化は無理ですよね。
でもそれだと儲かる時だけ戦って、儲からないない時は戦わなくなってしまわないのでしょうか?

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/09/01 08:55

お礼ありがとうございます



何故茶碗などに?
とのことですが
今の時代にも言える「流行」でしょう
みんながスマホを持ってるので自分も持ちたい と言うそれです
だから大名たちはこぞって茶碗や茶道具を集めました

また当時は茶に精通してない武将は教養がない と見られた時代です
そうなると必然的に茶道具に価値が付きます

だから土地よりも茶碗がほしかったのです
大名もそれを論功行賞に利用した ということでしょう
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この回答へのお礼

azuki-7さん、いつも回答ありがとうございます

流行ってるからって土地より茶碗の方がいいもんですかね?ただの食器なのに

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/09/01 08:59

大名級の論考行賞は駆け引きなのでいろんなケースがあるでしょう。

その話は後世にも残っています。
そのことよりも、一般の武士がどのように働いたことを調べる論考行賞が重要なのです。腰に首をぶら下げて戦っている武士の絵が残されています。その妻はその首を洗い髪に油を付けて結い直し、化粧までした首を箱に入れ、城上する夫に持たせました。夫の手柄を大きく見せるためです。ゴキブリを怖がる現在の妻とは比べ物になりません。
戦場ても名乗りを上げたり、手柄を上げると名乗りを上げるのもそのだめです。先駆けなどは一番の功名です。戦場で死亡してもその働きがあっぱれであれば残された家族に加増されます。
戦争後に事務方が詳細なヒヤリングを行い、戦場ても監視役の武士もいるのです。今風で言えは憲兵やMPです。それらを纏めて加増の要否を上司に報告するのです。おそらく採点基準があったであろうと思います。サラリーマンのボーナスを決める勤務評定と同じだと思います。
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この回答へのお礼

titelistさん、回答ありがとうございます

よくわかりました。分かり易かったです

また回答お願いします

お礼日時:2014/09/01 08:33

信長が信忠に


「相手が驚くような褒美を出せ」
と、諭していますので、明文化されているわけがない。
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この回答へのお礼

tanuki4uさん、いつも回答ありがとうございます

でも明文化しとかないと、恩賞が公平にならなくて不満や恨みを抱かせることになってしまうと思うのですが。そこらへんは大名たちはどう対策したのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/08/26 23:16

うーん秀吉の領地の与え方や家康の関ヶ原後の論功行賞を見ると、あまり一貫した基準はなさそうですよね。


例えば山内一豊などは関ヶ原で東軍へ味方するよう工作したのと家康が進軍するときの掛川城の明け渡しで土佐一国与えられてますが、こういった戦働き以外の面での働きなど判断する人のさじ加減でどうにもなりそうですし。
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この回答へのお礼

jikawapuroさん、いつも回答ありがとうございます。

そうなんですけど恩賞が公平でないと恩賞をあげたことが仇になってしまうのではないかと思ったのです。
あいつも俺も一人殺したのにあいつの方が恩賞が多いとかになったら主君に恨みを抱きかねないと思って

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/26 23:19

戦国時代にに限っての回答にします




主に戦のあとに行われるのが普通です
基準はその大名家によって違う
最初のころは戦で得た領土が与えられました
これを「加増」と言います 石高が増える事です(当時は国ごとに石高がありそれが割り当てられました ちなみに1石は米俵約100俵と考えて良いでしょう)
また他国へ領地替えになる事を「転封」または「移封」といいました
そして失態などで領地が召し上げられたり石高を減らされたりすることを「減封」と呼びます

この加増・転封・減封はすべて論功行賞によって決められました



しかし戦国も末期になり与えられる土地が限られてくると
今度は次第に土地から茶碗へと褒美が変わりました
戦国武将は土地をもらうよりも千利休などせの高名な茶人が作った茶道具を貰う事に価値を見出し始めます
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この回答へのお礼

azuki-7さん、いつも回答ありがとうございます。

戦国武将はなんで土地より茶碗なんて下らないもの欲しがるようになったのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします。

なるほど

お礼日時:2014/08/26 23:22

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