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私の質問に嫌悪感を抱いた方はすみません。


最近、死への恐怖より、好奇心のほうが強くなってきました。
部活のOBが事故で亡くなったのですが、その話を聞いたとき死ぬことはどういうことなのか、死ぬ直前はどんなだろう。死んだあとはどうなるんだろうとそんなことばかりを考えていました。

写真で笑っている先輩はもういない。そのことを考えていると、不謹慎ですが好奇心がわいてきました。どのような事故だったのか知らないので、事故の現場を想像しながら、即死だったのか、ゆっくり息絶えていったのか、事故が起きる瞬間は怖かったのか、意識が遠のいていくのかふっと消えるのか、死んだあとどうなるのか、先輩はどこへいったのか。

一番気になるのは死んだあとのことです。死んだあとはどうなってしまうのか気になって仕方がありません。

私はこんなことを考えるのをやめたいです。それなりに仲のいい友達がいます。
死んだら悲しんでしまうのでそれだけは絶対に嫌です。
嫌だと思っているのに、死んでみたいなんて思っています。一度死んだら生き返るなんてできないことはわかっています。わかっているのに死ぬことばかり考えてしまいます。
こんなこと考えるのやめたいのにやめられません。気づいたら考えてしまいます。
何かいい方法はないでしょうか。気を紛らわす方法でも何でも構いません。お願いします。

A 回答 (8件)

死というものを考えすぎてしまうのは、


あなたが「死後に何かが起こるのではないか?」という期待をどこかに持っているからではないでしょうか。

私も昔、同じようなことを考える時期がありました。
そして一度だけですが、死後というものを実感したことがあります。(体験ではありません)
そのときのきっかけとして頭に浮かんだ言葉は

『テレビの番組表を気にする必要もなくなる』 です。

頭ではこうして覚えているのですが、
なんでこんな言葉で実感したのかは今ではさっぱりわかりません。
当時はネットが普及し始めた頃、まだテレビの番組チェックに忙しかった時代なので、
私のライフサイクルとしてまぁわからなくもないのですが・・(笑

私は死とは完全な無だと考えています。
体なんて地球上に存在する物質が寄り集まっただけですからね。
それだけに、この体は凄い奇跡なのだと感動します。

あなたはこう言いました
『死んだら悲しんでしまうのでそれだけは絶対に嫌です。』

例えば人が亡くなったとして、死んだ後のことを気にする必要があるでしょうか?
というより、気にすることそのものが出来ません。
私はそれがとても怖いことだと思います。

私が死んだことも気にせずに世の中はまわっていて、それを見ることもできない。
避けられないことですが、とても寂しいですね。

こうして書くととても陳腐ですが、このくらいの実感は残っています。
死後の世界に期待するのもよいかもしれませんが、
私は逆にそんなものはないのだから、生きているときを楽しもうと思えています。

あなたも死というものを一度じっくりと考えて、
今を生きている時間がどれだけ貴重かということを見出してみるのも良いのではないでしょうか。

当たり前ですが、死んでしまうのは以ての外ですよ。
思考停止、答えは出ません。
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単純に「死の恐怖より好奇心のほうが強い」のであれば研究者向きだと思います。


好奇心の対象を死から命に向けられませんか?

医療の研究に携われば命に対する好奇心を満たせ、給料を貰え、世間から評価もされます。
犯罪者の心理を研究しても命に対する好奇心を満たせると思います。
今のままではだたの危ない人で終わってしまいます。
好奇心を満たすために勉強し研究者を目指すもの悪くないのではないでしょうか。
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仏教信徒の者です。

「臨終」という言葉をご存知ですか?「死に直面する場」です。仏法では、特に私の宗派はこの「臨終」を重要視します。なぜなら「臨終」とは。その人の人生行路の総決算、また未来世への第一歩であるからです。その「臨終の姿」がそれまで積んできた一切の悪業、善業、死後と来世の状態を如実に顕すのであります。私たちの宗派の教えでは、人生は臨終が最も大事である。仏教典と実際に諸人の死ぬ時の姿を比較してみても、まさしく臨終の姿をもって、善人か悪人か幸福か不幸か地獄に堕ちたか成仏したかが、事実をもって証明されると言われています。もっとも地獄といい成仏といっても、この世界の他に別な世界があって、地獄の鬼に責められたり、極楽の蓮の上に暮らすことを説いているのではありません。地獄というも成仏というも私達の生命の実感をいうのです。人が眠っている場合、実際は布団の中で寝ているのに夢の中ではジャングルで猛獣に追い回されたりして、汗をかくほどうなされる事があります。それと同時に地獄や極楽などという世界が実在するわけではありませんが、死後の生命はそれまで集積された業報によって、厳然と苦楽を感じ続けていくのです。そして、その死後の生命が、まるで燃え盛る溶岩の中で身が焼き尽くされるような苦しみを感じていれば地獄であり、歓喜に満ちた楽しみの中に安息していれば成仏というのであります。私達の宗派は「仏法を習う前に臨終を習え」と言われるくらい死を学ぶ事は重要な事です。部活のOBの方が亡くなってその方の事を偲び思う事はご友人として当たり前と思いますが、時折々にその方の菩提寺に出向き供養して上げる事、その中で死を学んでいく、「仏教は今生きている者のためにある」これは私の持論ですが、生きている我々が務めを果たして行きましょう。
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死に興味があろうが無かろうが、



「親より先に死んではいけない」

これだけです。
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人生 何事も経験・・



したいならすれば良い・・

洗面器に顔を突っ込んで苦しくなっても顔を上げない

そうすれば そんな気は 吹っ飛びます・・
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身近な人、親族の死をあまり見たことがないと好奇心がわきます。


宗教というと恐いと思うかもしれませんが
家の宗教でいいのでその方面でいろいろ本を読んでみるといいと思います。
仏教だとお経についての本、般若心経とかあります。
ただ好奇心にかられて新興宗教にはまると逃げられないので注意してください。
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貴方は、中学~高校生の年齢でしょうか。


その位の年齢の時期は、死を美化してみたり、経験したいと思ってしまったり、どんな方法で死んだら楽だろうなど、死の事をしょっちゅう考えてしまうものです。
以前、「死んだらどうなるのか知りたいので、死んでみます。」と遺書を残し、自殺をした子がいました。
同じ考えの青少年もいましたが、理性でおし止まった様でした。
死んでみた子は、死んでみてどう思っただろう?死ぬんじゃなかった!と後悔していないだろうか、などと真剣に考えたものです。
死んだ後の事を、死んでみた子は知ったかもしれませんが、知った後、どうなるか分かったから、じゃあ戻ろうかと思っても、二度とは戻って来れません。
そんな事に気づいた時、死んでみた子は後悔しただろうな、と思いました。
「死」は、人間皆に訪れます。
いずれは必ず「死」が来ます。
今、死にチャレンジをしなくても、死ぬべき時期が来た時に経験をすれば良いのではないかと思います。
その時まで、今、この生きてる世界で経験できる事を経験し、時期を待てばと思います。
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あなたは学生さんでしょうか。

もし出来るのであれば葬儀社にアルバイトでも

イイので働いてみてください。毎日死者の顔を見ることになるのであなたの

願望を紛らわせてくれるかもしれませんし、逆にもっと興味を持つことに

なるかもしれませんが、遺族の方たちの表情を見ていたら感情がなくなって

来るのではないかな。
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