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 先月、義理の弟を突然死というやつで30代半ばで亡くしました。
私ととても話が合い、私の子供にもとてもよくしてくれて、皆からの人気者でした。
 特に病気もなく、健康そのものという感じだっただけに・・・。何とも無念というか言葉にならないくらい、今でもショックを受けています。
 今思えば、「もし○○していたら・・・」とか「自分に特殊な素質でもあって、予知できていたら○○できたのに・・・」など、しょうもないことを考えてしまいます。
 よく、「運命」というのは生まれたときから決まっていて、これは寿命だと言う人もいます。しかし、本当にそうなのでしょうか?
 私は、単なる偶然にしか過ぎず、偶然心臓が止まってしまっただけなのではないかと考えています。言うなれば、すべては運命などなく、1秒1秒が偶然の出来事で成り立っているのではないかと思っています。
 これまで、こんな事を考えたことはなかったのですが、よく考えると「あの人は運がいい」とか言ったりしています。「運=運命」とは個人的には思っていないのですが、運をツキと歌詞などでは訳すこともあります。
 ツキというのは勝手に解釈すれば、ラッキーかアンラッキーかというギャンブルにも似た印象も受けるために、やっぱり運命などなく、偶然の連続を生きているのではないかと考えています。
 皆さんはどう思われますでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

こんにちは



運命というのは、決まっているものと感じます。
"死"について考えてみると、私の場合はそうです。
具体例をひとつだけ。
以前、二日酔いで誤って、赤信号の歩道を徒歩で渡ろうとした時、突然、金縛りにあい身体が、硬直。その瞬間、猛スピードで身体すれすれに乗用車が、通過。命びろいしました。この瞬間、「あっ、私は生かされているのだと」感じました。
ちょうどその時、挫折で"死にたい"という気持ちが、出てた時だったので、なおさら。

あと幸福、不幸という意味ので運命、これもそうですね。
人間はカルマの制約によって、いま生きている環境で縛られていると哲学では言われてます。わかりやすくいうと、徳が、ある、ない、という表現が、わかりやすいとは思いますが。
ただ、これも逆に徳を積むことによって、又は修行によって、そのカルマから開放され、自由になることも可能なものと。
"義理の弟を突然死"は悲しいことですね、おくやみを申しあげます(__)
でも、哲学的に言い方を変えると、死の直前の意識状態が、来世を決定すると・・言われています。
もし苦しみ、苦痛なく、笑顔、幸福の状態で、死んだ(__)としたら、もしかしたら、人間よりも高い世界に生まれ変わったのかも、しれません。
仏教では、来世、天界に生まれ変われるとしたら、それは死は"喜び"であって、恐怖、悲しみの対象ではないとも、言われているのですよ。

微妙な質問のため、回答の表現に不愉快が、あったらお詫びします。
以上
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この回答へのお礼

>死の直前の意識状態が、来世を決定すると・・言われています。
そうなのですか。確かに義理の弟は眠ったままの状態で、亡くなっていたそうです。近々結婚することも決まっていて、亡くなる日の前の晩は、フィアンセのお父さんと一緒にお酒を飲んでいたそうです。
ryo_manさんのおっしゃることが、本当であるなら、とても気が楽になります。もしかしたら、本当に人間よりも高い世界に生まれ変わったのかも知れませんね。

>死は"喜び"であって、恐怖、悲しみの対象ではないとも、言われて・・・
とても深いお言葉です。そのような境地にたてるのは、どれほどの徳があるお方なのかと、考えさせられました。

とても参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/04 21:12

過ぎてしまった時点から振り返って、「あれは必然だった」と言う人がいたとして、その見解を否定することは誰にもできないでしょうね。


ただ、過ぎたことは結果ですから、それは結果論的な見方ということになります。
(誰にでも言えるし、誰にも否定はできない)
どんな場合でも「過去は必然」というのは簡単です。
しかし、「未来は必然」ではあり得ません。
「未来は偶然」というのが真実でしょう。
なぜなら、未来は現時点における個人の選択によって決定されていくものだからです。
おっしゃるように、
「>やっぱり運命などなく、偶然の連続を生きているのではないか」と考えるのが自然な結論だと思います。
自らの手による自我の実現が託されていますし、それが生きるということでしょう。

運命論者の方は、その選択自体がそもそも運命付けられているのだ、と言うかもしれません。
しかし、これは自己実現の放棄と言えるような気もします。
こういう方は得てして、人間を金魚鉢の中の金魚に譬えて
「目に見えぬ動かしがたい大きな力の掌中でしか生きられないのに、無駄なあがきをしている無知な生き物」などと揶揄する向きもあるようです。
ただ、金魚鉢の中から抜け出せないことでは誰もみな一致しているわけで、金魚鉢が存在しているかどうかはあくまで二義的な問題でしょう。
つまり、仮に運命というものがあったとして、それがどうなのか、ということです。
「それがどうなのか」とは、
「それが人間の生き様に何か影響を及ぼすべき要素を持っているのだろうか」
という意味です。
心底からの運命論者というのは、何らかの理由で自我の弱まった方だろうと私は推測します。
バランスの取れた精神の持ち主は、
「なるほど、後から振り返ってみればあれが運命だったのか、と感じるようなことは確かにある。
しかし、だからといってこれからの自分の人生を『あるかもしれない運命』というものに託すことによって、自らの責任を逃れることができるのかもしれない。」
などというケチな無意識は持たないでしょう。

ただ、本当に弱っている人にとっては「自我の放棄」というカンフル剤が必要なこともあります。
その意味では、声高に運命の存在を否定する気にはなれません。
確かに、人間のできることには限界があるでしょう。
しかし、一瞬一瞬の累積とそこから受けるあらゆる影響への対処法ひとつで人生の意味が全く違うものになることもまた事実であろうと思います。
その能動的選択をした時点で、すでに運命はあるものではなく、作られるものだと解釈すべきだろうと私は思います。
 
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この回答へのお礼

末尾にある文章は、とてもわかりやすくて納得させられます。
私が今PCに向かって書いているこの文章は、書いているのは一瞬の判断ですが、すでに運命を作っているのですね。
すごくよくわかります。ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/07 00:21

[やっぱり運命などなく、偶然の連続を生きているのではないかと考えています。

]
生まれた子供は必ずいつか死にます。この運命は誰も変えようがないのですね。いつ死ぬかは誰もわかりませんが若くして死ぬか青年で死ぬか壮年で死ぬか老年で死ぬかだけですね。生老病死は誰も逃れられないんですね。そういう意味で必ず終わりはあるのですが、生まれて死ぬまでは自身が主役ですからどういう俳優になるかは自由ですね。自由に自身の運命を決める時期もあるわけですね。だから完全に決まっているわけではないといっていいでしょう。私も少年期から今まで多くの身内を失い、友人を失ってきました、予期せぬこともたくさんありましたが、これが運命だとは考えたことはありませんね。それぞれ寿命はあるでしょうが、その中では個人個人は自由ですね。自身が決めた現在と未来しかないように思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
たくさんの方のご意見を聞いていますと、自分自身のことを考えさせられます。
元々は義弟の死についての悲しみのあまり、感情的になっていたのですが、今では不思議と運命であるとか、死であるとかを考えています。
mmkyさんのご意見を伺っていると、不思議と義弟の死についても、自分が決めたことであると考えると、少し気が楽になったように感じます。

お礼日時:2007/04/07 00:29

私は無神論者ですが、ある書がとても好きです。


調べていくと、なんと宗教の本に入っていた。
無神論者の私としては避けたかったことですが、その書は聖典に入れるかどうか物議をかもし出した異端の書だったそうです。
そう聞いて納得。


http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/wisdom/chap7.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto …

長編ですが、上のリンクの要点がまとめてあります。


【何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
  生まれる時、死ぬ時、 泣く時、笑う時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。】


私の知り合いが、子供を待ち望んでいたのに流産したんですね。
かなり悲しんだそうですが、その時彼女を救ってくれたのが、この書だったそうです。

   全てのものには定められた時がある。

それまでああすればよかった もう少し気をつけていればよかった など後悔づくしだったそうです。
その後悔が彼女を苦しめていた根源ですが、定められた時 つまり 運命というものの存在を受け入れたとき、苦しみは去ったそうです。


【人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり/鳥が罠にかかったりするように/人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。】

人間は未来を知ることができません。
良い人が殺されるし、悪人が生き延びている。 これも現実です。

人はこれらに煩わされることで苦を感じ、人生が空しいものだとしてしまう。
神ではないので、時を操ることはできない。
懸命に積み重ねたものが、一瞬にして消滅して、全て無にひっさらわれてしまうこともある。

では、生まれたことは不幸なのか。
生まれなければよかったのか。
生まれてすぐ死んだ方が幸福なのか。

筆者は全ては空しいと苦を感じます。


この異端の書がユダヤ書の聖典に入った理由は、

【すべてに耳を傾けて得た結論。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」、これこそ、人間のすべて。】

という文句があったかららしいですが、私は無神論者なので、そこには魅力を感じませんでした。


【見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。】

この部分に惚れました。


同じくユダヤ書にあるヨブ記ですが、常に良い行いをしていた男ヨブが、病気に苦しめられます。
ヨブの友人は彼を見舞ってなぐめようとします。
因果応報 だとか神の計画だとか。

友人たちの慰めは空でなぐさめにならず、ヨブは直接神に抗議します。

ヨブはここで原罪のようなものを知ることになる。
すなわち、善悪の判断は神しかできないのに、ヨブや友人たちはやってしまっていたということ。

「私がこの世を作ったとき、お前はどこにいた。」

これほどの能力に違いがあるのに、小さき者であるヨブは善悪を決定し、悪と判断し神抗議してしまったんですね。

人間は絶対的な善悪の判断ができない。
その小さきものができることは、自分がやった労苦に満足すること。
これが唯一人間に与えられた許されたもの。
これをもって幸福を得られる というもの。

人がどんなに慰めても、ヨブ自身が知ることが無ければ、不可能なんですよね。

神との問答で気づいたという風になっていますが、この作者の自問自答の結果生まれた気づきだと思います。


主題から反れてしまいましたが、「悪に手向かうな」と新約聖書でなっている部分。
これは誤訳で「悪にわずらわされるな」らしいです。
意味は悪いことが起こって、「それに心を煩わされ思い悩むな、悪をなすものに心を煩わされるな」という意味らしいです。


これは私にとって非常に難しいですが、難しいことだからこそ賢者は真理として唱えたのだと思います。

悪だと思い、それにイライラするのをとめることは私には難しい。
自分が悪とするものを征服し支配することは不可能に近い。
では、やらないでイライラし続けるだけか。

煩わされる自分を見つめ、それに四苦八苦する自分を見つめ、もがいてもがいて、そして「やるだけやった」と自分の労苦を認める。



運命はあるか?
わかりません。

コヘレトの言葉には、金持ちの方が煩わされ不幸になると書いてあるんですね。
これもまた真理。


「義人すぎるな 悪人すぎるな」も真理。


ユニークな書ですよ。
運命についても書いてあり、人間にとって幸福とはなんぞや って考察がのっている。

ある事が起こってどうそれに対応するか。
運命に逆らうか、運命を呪うか、運命を変えようとするか、運命と諦めるか。
どれとも違うようですよ。
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この回答へのお礼

人は昔から同じような事に悩み苦しんでいたんですね。
私など、のほほんとこれまで暮らしていたので、正直これほどまでに皆さんから回答を受けることができるとは思っていませんでした。
ご紹介していただいたものは、とても難しそうな内容ですが、後でしっかり読ませていただきたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/07 00:10

こんにちは。



「運命」:元から定められている巡り合わせ 宿命

うむうむ、個人的にはあまり好きな言葉ではありません。

運命という言葉には「未来が確定されている。」という
ニュアンスがありますよね。
それでは人の可能性というものを根本的に否定しまいますし、
自分の頭で物事を選んだ責任を
「運命のせいだよ。」とできます。
非常に逃げ道になる言葉だと思います。
たとえ、選択肢の少ない中を生きるとしても
やはり自分の意思で自分の人生を選択し、
経験してきたと考えることが大事だと思います。

社会性のある人間が都合よく生きていくのなら
成功も失敗も運命のおかげではなく、自分の能力と判断を
振り返るべきであると思います。


しかしながら、科学的には別の見方もできると考えます。
「偶然」という言葉が出てきましたが、
これは「必然」の対義語ですよね。
世界はすべて偶然か必然か・・・これはまた非常に深いテーマです。

科学的事象はすべて原因があります。
原因が存在せずに結果が生まれることは絶対にありえません。
いまpenchan819さんが、お茶を飲んだのも、髪をかきあげたのも
必ず、何らかの原因が伴っているはずなのです。
庭先で木の葉が舞い散るのも、その絶妙な円運動も、葉脈の色具合も
着地した面が裏側になるのも・・・
原因があり結果が生まれ、
それが原因となり次の結果を生み出していく・・・
神なんてものが存在するのなら、その手さばきたるや見事なものです。

この原因があって結果が生まれるという世界の縮図を考えるなら、
最初の原因が生まれたときから、(この世界の始まりから)
未来は確定していると考えられるかもしれません。
しかし、どんなに賢いコンピューターを使っても
この世界のすべての事象を予測することは不可能でしょう。
予測できない未来が確定されていても、あまり意味がないようにも
思えます。
ならば自分の手で未来を紡ぎだしていると
ぜひ捉えてくださいね。

あなたの努力がすばらしい未来につながりますように!!
ご参考程度にどうぞ。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2137696.html
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この回答へのお礼

とても読みやすいご意見でした。
mogurayamaさんのご意見に私も似たような考え方を持っています。
自分がこれまで、たくさんの失敗を繰り返してきた中で、多くの収穫を得てきました。
一見、大失敗や後悔をしてきたようなことが、それを糧に今の自分を作り、平凡ながらも人並みの生活をすることができています。
これまでの自分を「運命のせいだ」と仮に考えてみても、結局、自分自身が上手に変わってきたのかな?と思っています。
大変参考になるご意見ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/06 23:46

未来1は現在では決まっていません。


未来1を越えた未来で決まっています。
現在は未来視点では決まっています。
現在は現在視点では決まっていません。
過去は現在視点で決まっています。
過去は過去視点では決まっていません。
よって自分が存在している時点以降は決まっていません。
自分が存在している時点以前は決まっています。
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この回答へのお礼

ご返答が遅くなってしまいました。
最初拝見したときは・・・?みたいな印象でしたが、何度も読み返してみると、すごくわかるような気がします。
私も共感できるご意見でした。
明日、いや1秒後は自分で作ってゆこうと今では思っています。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/06 23:38

言語学、論理学的な解決方法で回答します。



>運命って・・。本当に決まっていると思いますか?

「運命」という考え方(この考え方が正しいかどうかはともかく)では、全ては本当に決まっています。それゆえ、運命という言葉を持ち出す以上、それが本当に決まっているという前提で話が通されることになります。
しかし、もし「運命」という考え方が間違っているとするならば、本当に決まっていることなどないということになります。それならば「偶然」という、運命とは別の発想の出番となるのです。
それだけのことで、「運命」論が正しいとも「偶然」論が正しいとも言いかねます。

私はどう考えているかというと、すべては可能性・確率だとしか考えていません。
「こうだったらいいのに」という願望と、「実際はこうなのか」という現実とは、しばしば乖離しているものです。
願望は現実を否定し、目を背けたがりますが、現実というのは容赦ありません。この世界では、起こりうることは起こってもおかしくないのです。義弟さんの死も、最初から起こりうることでした。人が死ぬのは当たり前と言っては薄情かもしれませんが、いつ起こってもおかしくないことなのです。
起こりうることを願望は「起こりえない」と思い込ませるのです。それで実際にことが起こった時にショックを受け、後悔などするわけです。
ならば現実に即して生き、最初から願望しなければよい、ということになります。「こうであってほしい」という思いが強ければ強いほど、その期待が裏切られるですから。起こりうることは起こってもおかしくない。どんな悲惨なことが起ころうとも現実を受け止めるぞ、という気持ちを持てば、何もショックを受けなくなるはずです。そして私はそれを実践しているつもりです。

話が本題から逸れてしまいました。起こりうることが起こるのは不思議ではありません。でも、起こりうることだからといって必ずしも起こるとは限らないのです。起こらないこともあります。この起こりうることが起こるか起こらないかのギリギリのところについては、私は偶然ともちょっと違うような気はしますが、運命よりは偶然に近い捉え方をしています。
「運命」という考え方は、出来事が起こってから「これは運命だった」と後から説明してなだめるための方便に思えます。それよりは「偶然こうなっただけだ。そうならないこともありえたが、今回はこういうことになった」と捉える方が、現実により即していると思います。
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この回答へのお礼

すばらしい回答です。
確かに言語学の観点から言えばそうなりますね。
nabayoshさんと同じように考えることができれば、どんなに今回も楽かと思いましたが、私にはもう少し時間が必要なんだと思います。
とてもわかりやすいご説明ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/04 23:39

もしも全てが偶然ならば、誰が死のうと、


生きようと、この世が終わろうと、何が起ころうとも、
それらに何の意味があるでしょうか。

私はこの世界が偶然の産物であるなどとは
到底思えません。運命があるかないか
私にはまだ分かりませんが、
あると思っています。
私には世界が機械だとは思えないからです。
精神の永遠性を信じているからです。
死んだら終わりだとか、全てが無意味だとか、
そういう恐怖感というのもあるのでしょうけれど、
それだけでもないのです。

もちろん、全てが前もって決められているとも
思っていませんけれども。
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この回答へのお礼

私も人の一生がすべて偶然の連続なのだとは、完全には自信がありません。運命というものを完全に否定しているわけでもありません。
本当は、よくわからないんです。
まだまだ修行が足りないのですかね。
ただ、今知りたいのは人の運命は、どういった事が決まっているなのかなと漠然と考えています。
人生の節目だけなのか、それとも1秒1秒が予め決められているのか?
そんなことを考えているところです。
私と、逆のお考えのように思われますが、大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/04 21:28

> 運命って・・。

本当に決まっていると思いますか?
「運命」っていう言葉は呪縛力を感じる、というか
ちょっと言葉が強すぎて冷静に考えにくいので
●人生は先天的につくられているものか、それとも後天的につくらていくものか?
と、ご質問を読み替えてみたいのですが宜しいでしょうか。

先天的か/後天的か?という問題に非常に近いものとして
●人の心は「生まれか/育ちか」どちらが決めるのか?
というのが20世紀には頻繁に議論されましたね。
道徳的、感情的、あるいは政治的な要素を考慮して
人文・社会科学系においては
●人は生まれながらに平等→育ちが心を形成していく
とするのが公式だったと学びました。
(所謂「ブランク・スレート」という考え方です。)

それに対し、現代心理学は
●遺伝と環境のどちらもが心の形成に関与する。
と主張しています(EX.スティーブン・ピンカー)。

これ(遺伝と環境のどちらもが心の形成に関与する)って
私のような凡庸な人間が聞くと「そんなの当然じゃん」って思うのですが
どうですか?

生きていくことも、先天的要素と後天的要素の両方が
からまりあっていくと思うのですね。
●人は必ず死ぬ
これは少なくとも現在においては必然です。でも
●何歳で死ぬか?
は、先天的な要素と後天的な要素が交じり合いますよね。
それを「全て運命」「全て偶然」のどちらか一方に還元してしまうと
現実の姿を捉えられないと考えます。

浄土真宗などは「絶対他力」ですから
ANo.3さんが仰るように「生きている」ではなく「生かされている」と考えます。
(仏教においてはかなり異端です。)
ただ、それは「既存の仏教で救済されなかった人のために生まれた方法論」です。
修行を重ねても自己解決できなければ、もう「仏さまを信じて
全てを委ねて(おまかせして)みませんか?」ということです。
それで救済される人がいる限り有効だと思うのです。

> 偶然の連続を生きているのではないかと考えています。
それが自分にとって有効か否か?が大事だと思うのです。
それが活力につながるなら「良し」
それが呪縛や慢心につながるなら「生かされている」と考えるのが「良し」
ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

CUE009さん。ありがとうございました。
なるほど・・・と感心しつつ、読ませていただきました。
私が「偶然の連続を生きている」と感じているのは、何も知らなかったし、勉強もしなかったがため、無理矢理のこじつけなのかもしれません。
確かにそれを活力につながるよう+の考え方を上手に取り入れていこうと考えさせられました。
これを機に、たくさん勉強して、たくさんのことを吸収したいと思っています。

お礼日時:2007/04/04 21:19

まずは、義弟さんのご冥福をお祈りいたします。


心中、お察しいたします。
わたしも、2年前、母をなくしました。ガンで余命宣告されていました。
まるで漫画のように、自分に超能力があったらとか考えましたね。
なんで自分には何もできないんだろうか・・・とか。
もし、毎日20キロ走れば、その分病気が回復するのなら、普段運動なんかしない自分ですが、血反吐吐きながらでも走ってやるのに・・・とか思い続けていました。
運命・・・あるんでしょうかね。
わたしもあなたと同じような考えです。偶然の連続・・・わたしはもっと謙虚?に「幸運」連続だと考えています。もちろん、日々常に思い続けているわけでもありませんが、時折、自分を戒めるために思い返します。
たとえば、今夜これから眠る。あした起きる。なんでもないことですが、これはすごく幸運なことなんだ。大地震で屋根が崩れて埋もれて死んでるかもしれない。強盗に押し入られて殺されてるかもしれない。ベッドから落ちて打ち所が悪くて死んでるかもしれない。そんな不幸な事が起こらなかった、幸運なんだ・・・
たとえば、車で一時間程度の買い物・・・行って来るよと出かける。普通に何か買って帰ってくる。誰もなにも感じない。でも、事故にあわなかった。お店で誰かと喧嘩して刺されなかった。道で転んで怪我してない。すごい幸運の連続じゃないか・・・
まるで宗教のようですね(笑
でも、時折、そう考えて生きています。
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この回答へのお礼

>「幸運」連続だと考えています・・・。
確かにとてもおもしろい考え方ですね。
下の方もおっしゃっていたように、我々は「生かされている」のかも知れませんね。
私と同じような考えの方がいらっしゃったなんて、ちょっと嬉しいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/04 21:03

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