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頭で生きると正しい間違っているということで無機質ですよね。

考えって変わりますし、複数することもありますよね。

正しさを追及してつらい日々だったらしょうがないし、やはり人間性阻害な感じになるんでしょうか?

考えてばっかりで変わりまくっているのと、記憶に残ったことを何か一貫してやっていて楽しく感動を持ちながらしたことのほうがいいようにも思えまして。

人々って正しいことを知りたいというよりも、人が問うているのは幸せな感覚であったり、楽しい日々であるようにもおもえるんですけど。

みんな正しくても不幸な感覚だったら、それも意味がないようにも思えますし。

考えの質があがっても、推論が変わればまたかわってしまいますし。

A 回答 (5件)

……ごめん、ちょっと日本語が不自然で理解できない……。



でも、多分こういうことでしょうか?
「正しさを追求するよりも、幸福を追求する方がよいのではないか」

たしかにその通り。しかし、人間が人間性を保つためには、正しさは必須だと思います。
今の人たちは時にないがしろにしがちですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。正しさはおっしゃるとおり、推論の域内や科学の文脈の中や知っている範囲という制約の中でもないと人間社会がなりたたないですね。

>「正しさを追求するよりも、幸福を追求する方がよいのではないか」
さらにいうと、最高の感動や喜びなどをもとめると考えた結果の結論とは違うものがでてくるんではと思いまして。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/07 17:16

100年前に国費でイギリスに留学して精神を病んで愛媛で過ごした夏目漱石が『草枕』に書いているとおり。



夏目漱石 草枕 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_1 …

『:
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
:』

理屈で知恵をふりかざすと、なんだこいつ、と仲間内でギスギスする。
同情でなんとかしてやろうと関わると、厄介ごとのなかに引きずり込まれる。
自分の意見をひっこめられなくて意地になっても、理屈がとおらず味方はつかない。

そういうバランスの中で、人間というあいまいな生物は生きているんだ、という漱石本人のうんざり感からの達観がここに凝縮されていると思いますよ。
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 人の中で生きるしかない人間という存在である以上、


 まずはそういう中での是非を外すわけにはいかない。
 頭の中で考えたものの一つとして是非というものがまずは存在する。
 その上で翻って人生の醍醐味ということを考えると、
 是非も含めて頭の中で考えた「想定の範囲」を超えることとの遭遇ということになる。
 人生を楽しむためにはそういう遭遇へのきっかけをつかむための行動が大事になる。
 その行動のベースとなる生活を維持するために
 価値を為して対価をもらう必要がある。

 こんな感じの理解のしかたはどうでしょう。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りで。

理性とか経験からくる思考の範囲でしかなく、想定外、超えるということは心の仏としかいいようがない範囲かと思います。

本当にそのとおりかと。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/09 21:06

ひとそれぞれなんですね。


正義感にあふれたひとは、多少つらい人生を送ってでも自己の考えを通しまくって生きることに生きがいを感じるわけです。
そんな人はまともに結婚もできないし、生活も苦しい。でもそれが苦にならない。それは自分の究極の目標に近づいていくという喜びがその苦しさを紛らせてくれるからです。
そんな人の中に、まれに歴史的に偉業を成し遂げて英雄になる人が居るし、ノーベル賞を得て時の寵児になるひとも出ます。

要はひとそれぞれです。ほとんどの人は自分の身近な幸せを追い求め、社会に妥協してものわかりのいいおじさんになって、可愛い孫を愛し、長生きし、ぼけて死にます。私もそうです。

貴方のように真剣に人生を考えている人は少数派でしょう。

悪いことでは絶対ありません。病気にならない範囲で一生懸命考えて、わたしたち凡人にその結果を教えてください。待っています。
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この回答へのお礼

ストイックや厳しさを美学にすると目標がたのしくなってしまう。

わかる気がします。

幸せは仏教ではないですけど、ストイックからでもなく、快楽でもないように思えます。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/09 21:08

#2です。


少し理解出来るようになったので、書いておきます。
「頭で生きる」
私は頭で生きてきました、研究者だから仕方が無い。
他の方法では生きられない、つまり誰も雇ってくれない。

元々幼少時からもう頭で生きてきました。と言うより頭で生きる事は
遺伝子に書いてありました。
三歳になってもひと言もしゃべらない、だが家庭医は母に
「しゃべり出したら止まらなくなるから今のうちに静寂を楽しみなさい
この巨大な脳は完全に天才だ、水頭症などの異常ではない、莫大な能力がある」
と言いましたが母は心配し続けたが私には「理解出来ていた」
なぜしゃべらなかったか自分でも分からない。
初日「既に乳児語では無いが、舌が回らない」二日目「完全な日本語を話し始めた」
二週間目日本経済新聞を一面から読み、銀行の監査役だった祖父と日銀の公定歩合
について「激論し始めた」巨大な天才だった祖父は「全く驚かず、難解な議論をしてくれた」
他の大人は「狂ってしまった」ただ、全てに噛み付くから迷惑千万だ、そして脳が疲れて
昼寝する、起きると議論する。
有り難いことに幼稚園では「異能児」担当の先生を付けてくれた、
世界について知る限りの議論をした、あとは「神童」コースで、東大を出て理博、
頭が良すぎて社会の裏側が見えるから、非常に嫌がられた。
学会でさえ「疫病神」発表者より「深読み出来る」から発表者は壁に張り付いてしまう。
だが恩師は「それで良い」とおっしゃった、立派な方だった、巨大な知識を持って居たが
院生には何も押し付けなかった、だから院生は苦労する、ゼロから学位論文を築かねばならない
だが七十そこそこで亡くなられた。

母の腹の中で既に頭が暴走している子供に「頭で生きるのを止めろ」と言ったら死ぬしか無い。
私には他の世界は無いのだ。
こういう生き方があるだろう、論理的にはあるだろうが、頭脳が直ちに否定する、
高校までは一応反論したが、大学へ入ったらもう誰も言わない、頭だけで生きる人なんて
東大には山ほど居るのだ、ギャアギャア議論する、読書量が足りないと普通は負ける
だが、私はそのレベルを超えていた、ニーチェでは無いが「善悪の彼岸」の立場で議論する
だから、過去の天才の議論を「潰す」ことさえ出来る、著書を「裏まで、あるいは行間を
読んで居ないと議論に隙間が出来る、そこを突かれると全てが崩れてしまう」
頭だけで生きるのはつらいが、選択肢は無い。
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この回答へのお礼

世の中いろんな人がいますし、職業も多岐にわたります。私も左脳をよく使う方です。ホランド理論はご存知でしょうか?

多分、研究的だと思います。ですので、反対の企業的は苦手ということなのかもしれないです。私の最近の傾向がどちらかいえば、研究的によって弱い性格になっている気がします。

考えるがゆえに未来(自分や科学技術)のどこへいくかが登場するんだと思います。

でも、論理での詐欺にも弱い感じもします。

回答者さんのおっしゃるとおり、未来のないのは死んだのも同然です。

ですので、あたりまえかと。貴重な感想を教えていただいて、貴重なことに気づかせていただきました。大変ありがとうございます。

「伝統無しでは、芸術は羊飼いの居ない羊の群れ。革新無しでは、それは死体」

ってチャーチルはおっしゃったそうです。何かを多分えがいているんでしょうね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/08 17:14

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