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源平の合戦に勝った源頼朝が、朝廷より征夷大将軍に任じられて、鎌倉に幕府を開いた。これより明治維新まで武士の政治の時代が始まる……
ここまでは小中学生でも知っている歴史的事実かと思うのですが
最近このプロセスに疑問を感じまして、質問させていただきました。

武家政権に政治の実権を取られても、京に天皇や朝廷は存続し、形式的には天皇が武家よりも上位でしたよね。この上下関係が残ったからこそ、朝廷が位を武士に「授けて」いましたし、また武士のトップも朝廷の承認を受けてから幕府を開いていました。
そこで質問です。

・なぜ朝廷は、武士に実権を握られてからも、まるで「お飾り」としてでも存続でき、それどころか形式的には上位の存在であり続けられたのでしょうか?

現代を生きる私の感覚からしてみれば、戦に勝って実権を握ってしまえば、朝廷や天皇を無視しても(もしくは西洋の革命のように処刑しても)かまわないような気がしてならないのです。しかしそうはならず、「武士のトップが天皇や朝廷の承認をいただいて政治を行う」というプロセスが鎌倉、室町、江戸時代と律儀に守られ続けました。
きっと当時の人たちにとっては、そうでなければならない理由があったのではと思います。
(武士にとっては朝廷の承認が無いと、権威の正当性を主張できず、また民衆にとっても、それが無いと権力者として認められない事情や心情があったのかと思います。)

当方歴史の勉学については中等教育レベルで止まっている者です。ご指導のほどをよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

・なぜ朝廷は、武士に実権を握られてからも、まるで「お飾り」としてでも存続でき、それどころか形式的には上位の存在であり続けられたのでしょうか?





偶然

偶然の一つ
源氏の直系が三代30年ちょっとで途絶えた

1185年 頼朝で関東武士がまとまる
1219年 実朝暗殺される

1985年 ゴルバチョフ、ソ連共産党書記長に就任
2015年 本年
2020年 東京オリンピック

30年やそこらで権威が生まれるわけではない。
なんせ、実権を握る前を知っている人間がいっぱいいますから。

海外でも フランク王国では

639年 ピピン1世(大宰相) 死去
687年 カロリング朝 実権を握る ピピン2世
732年 ツールポワチエの戦いでフランク王国の宮宰 カール・マルテル ウマイヤ朝を撃退
751年 カール・マルテルの子供 ピピン三世 メロヴィング朝を廃してカロリング朝を開く
800年 カール 皇帝に即位

フランク王国の宰相一族として有力者になってから150年以上たってます。実権を握ってからも60年以上。


中国史でも
司馬氏が普を建国するまで三代かかっている

司馬懿が曹操死去後、有力者になったのが
220年
対抗者を最終的に排除したのが
251年
孫の司馬炎が皇帝になるのが
265年


戦に勝って実権を握ってしまえば、朝廷や天皇を無視しても(もしくは西洋の革命のように処刑しても)かまわないような気がしてならないのです。


鎌倉の一派も足利の一派も、それほど強くない。ほんとうに強いのは徳川家から。
幕府という呼称が江戸時代に発明され、源氏が偉いというのが逆算されます

「現在の源氏を名乗っていて征夷大将軍になっている徳川家は偉い」

だから、鎌倉の頼朝も偉い、足利家も偉い

徳川の強さは本物です。
なんせ、200年以上、反乱で潰される奴がいないほど強かった。
鎌倉将軍も室町将軍も、公然と将軍が暗殺されていますが、江戸将軍は公然と暗殺されていません。
※ 公然と暗殺というのも変だが。

強い徳川が、源氏将軍や室町将軍の後継者であると名乗れば名乗るほど、天皇を無くすことができなくなる。
前例にないことだから
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
また、お礼遅くなり申し訳ありません。

なるほど、偶然という解釈もありますか……
たしかに、必ず理由があるともかぎりませんよね

お礼日時:2015/01/18 16:46

武家も公家も両方とも日本人だからです。



西洋の支配というのは、原則的には異民族支配です。異民族とは言えない場合でも、ある民族と別の民族が融合したりして王朝を建てるのが一般的です。

そうすると、王朝は支配王朝民族であり、支配されるほうは被支配民族ということになっていきます。中国では漢人の王朝はほとんどありませんし、イギリスの現王朝もフランス人が戦争に勝って支配民族として入ってきたものです。

異民族の支配がはじまるときに、ふるい勢力を残しておくと武装蜂起の火種になりますから、徹底的につぶしておくのがふつうなのです。

しかし、日本の場合、天皇家というは古来からヤマト王権として日本列島を統一し、諸制度を整えてきた、日本の元祖王朝なのです。

応仁の乱の前までは、ヤマト王権が発展していく時代から天皇家に協力し、一致協力して日本を文明国にしてきた、と自負する豪族・貴族・初期武家もたくさんいたのです。奈良の東大寺や平安京などは、彼らにとっては、唐や隋に負けまいと一致協力して国つくりを行ってきてわけであり、天皇家はそのリーダーであったのです。

ですから、大和朝廷として成立して以来、だんだんに執権政治などで天皇そのものに権威はあっても権力はない、という流れができつつも、だれも「王朝をとってかわろう」とは思わないし、変わったとしても「あんな奴にだれが突いていくか」となるのが落ちだったわけです。

そのため、鎌倉幕府はその前の平家と違って、関東に幕府を開きます。関東は源氏が開墾した土地であり、古くから天皇家とのつながりをもつ西国豪族や貴族と争わないようにするためです。

しかし、鎌倉幕府は「実際の政府運営権がほしかった」ので、天皇から征夷大将軍の勅許をもらい、今でいう軍事臨時政府を作ったのです。沖縄を米軍が軍事統治したのと同じ方法であったといってもいいぐらいです。

これにより、その後の日本の権力の在り方が決まりました。
・天皇家と朝廷は、日本統一という実績のある家系だから権威を認めよう。
・天皇家を籠絡して「天下統一」の勅許をもらえば、俺が日本の大将になれる。
ということです。

しかし、鎌倉幕府が倒れてできた足利幕府は、東国と西国の融和や朝廷と武家の融和を図ろうとかなり苦労した上で、応仁の乱が起きて倒れてしまいます。当時の足利将軍は政治を嫌ったといわれていますが、そりゃ、天皇家を盛り返そうとする西国と武家政権を発展させようとする東国では、話はまとまらないわけで、しかし元寇などがあった以上「日本がばらばらになる」というのだけは、なんとか避けたかったわけです。

まあ、応仁の乱になっちゃいましたけどね。。

結局、戦国時代というのは、誰が天下を取るか、ということになってしまうのですが、みんな天皇を廃止して自分がその席に座る、という考え方はもっていないわけです。もしかしたら、織田信長だけはもっていたかもしれない、と言われていますが、石田三成に弑されてしまいました。

で、結局、関白秀吉が1代で倒れた後、徳川家は300年も続くわけです。
その、徳川家康、やはり頭がよかったのですね。朝廷から将軍の勅許をもらうと、天皇周辺から実力者を排除して、徹底的に天皇の権力を弱めていきます。他の武士が天皇を籠絡してまた戦国時代に戻ることを避けたかったからです。
そのため、300年間、自分の跡継ぎが変わるときだけ天皇から勅許をもらうようにして、やってこれたのですが、幕末ペリーなどが来航することになって「日本の主権者は誰?」という命題がいきなり出てきます。

当然ながら将軍の勅許も出せる天皇がそうなのですが、徳川家は最初の日米和親条約を天皇を無視してペリーと結んでしまいます。これにより「天皇をないがしろにするな」という意見が岩倉具視ら公家側から出て、「尊王」というのが、攘夷と並んでテーマになっていきます。

その後におきる明治維新は、天皇家の権力というテーマからすれば大化の改新に匹敵する、一大イベントだったといえます。

他の方も書いておられますが、世界的に見ても権力と権威を一つにもっている国家体制は案外もろく、権力と権威を分けたほうがうまくいく、といえます。

世界帝国を作った、古代ローマは皇帝制でありながら、元老院などの民主勢力の権威は保持させましたし、中世ヨーッロパは教皇という権威と、各国王という権力との間でバランスを取っています。

日本人の知恵にも、権力と権威を分けるほうがいい、という発想があったのでしょう。そのため、権威は天皇に、権力は将軍が持つ用意したんだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
また、お礼遅くなり申し訳ありません。

多くの事例を挙げていただいたのでとてもわかりやすかったです

お礼日時:2015/01/18 16:45

ご指摘の通り、武家政権が朝廷を上位としたのは、権威づけとして利用していただけです。



そもそも朝廷というのは平安時代以降自身の武力組織すなわち現代でいう軍隊を所有していませんでした。
検非違使という役職がありましたが、精々ガードマン程度の能力で、もっぱら儀式の際の儀仗兵の役割を務めていました。
武家の発祥とされる源平も、源氏は藤原氏の兵士は上皇の私兵でした。
朝廷から下賜された征夷大将軍とか○○将軍という称号も令外官という朝廷の組織の上では臨時職扱いでした。
日常的に出仕する義務も権利も無く建物の中へも入れませんでした。
征夷大将軍という称号が絶大な権威となったのは江戸時代以降です。

侍という呼称も「さぶろうもの」すなわち宮殿の庭先の土間にいる使用人という意味でした。
北面の武士というのも「君子南面す」という言葉に対する用語で、南を向いている偉い人に向かい会う、すなわち北を向いて指示命令を受ける輩ということです。
平清盛一門が財力にものを言わせて官位を手に入れて、初めて建物の中に入ることができました。
殿上人と呼ばれる公家の仲間に入れてもらいました。

天皇以下朝廷の官人すなわち公家は、京都に住んでいるだけで自分の領地へは足を踏み入れず、治安維持や統治を現地任せにしていたために、腕力の強い連中が跳梁跋扈するようになってしまいました。
自然発生的に自警団のような武装集団が生まれ、この集団が統治するようになりました。
この集団を守護地頭などという名称を付けて公的に認めさせたのが頼朝です。
つまり先祖家柄など定かではない連中です。
この連中がやがて政治権力を手に入れたのが武家です。

信長も家康も当初は藤原氏の末裔と自称していましたが、後で信長は平氏の末裔、家康は源氏の末裔と言い換えています。
史実としては、信長は織田という神主の末裔です。家康は三河地方の松平という一族の末裔です。
秀吉は初めから氏素性を名乗るのを放棄して、武力にものを言わせて朝廷の最高の官位である関白を手に入れました。
このように元来氏素性のあやふやな人間が政治の頂点に立ってその立場を維持するためには、最高の権威者として認められていた天皇から何らかのお墨付きをもらう必要がありました。
現在でも、成功すれば革命軍ですが、軍事行動の期間中はテロリスト、反逆者として扱われます。
正当な政権担当者であることは諸外国から認めてもらう必要があります。
国家というのは国民が承認しただけでは独立国としての外交はできません。
イスラム国が国家を名乗っていますが、未だにテロ集団扱いです。
日本の歴史では、現代の諸外国の役割を天皇が担っていました。

天皇の承認を得ずに、他の人間が認可を手に入れれば即刻単なる反逆者となって征伐の対象にされてしまいます。
この手法は幕末に薩長の下級武士集団が用いて、当時の正式な政権保持者であった徳川氏を朝敵として政権の座から追い出してしまいました。
このように武家にとっては天皇というのは充分に利用価値がありました。

利用価値が低かった室町時代には、だれも生活費の面倒をみなかったために、御所の塀が崩れて中で天皇が食事をしている光景を市井の人々が道端から覗いていました。

現在でも総理大臣以下各大臣は皇居で認証官任命式を天皇の前でおこない天皇からお言葉を頂いています。
武力、財力、法律、制度だけでは収まらないのが政治です。
アメリカ大統領も聖書に手をおいて就任宣言をします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
また、お礼遅くなり申し訳ありません。

実力と権威はやはり別なのですね……

お礼日時:2015/01/18 16:41

 前の回答者様に2つほど補足させていただきます。



(1) 西欧の王や皇帝に対する人々の関係と日本の天皇の対するそれは微妙に異なります。
西欧の権力者(王や皇帝・貴族)はアジアのそれと比べ相対的に力が弱く
人々の心情も決して畏れ多い物ではなかったようです。グリム童話など
でみられる中世の荘園領主(貴族や王)と領民、国王と貴族はまるで友人
同士のようです。絶対王政の時代(日本では江戸時代あたり)でも王権神
授説と言って王の権力は神が授けたものだから絶対でだれも逆らっては
いけないとする考え方がわざわざ作られて王は君臨しました。

 ふりかえって日本の天皇ですがアジアはどこでもそうであるように
実際の権力は別にして精神的に人々の上に君臨しました。古代より
天皇は「神」の一人なのです。もちろん、古代の豪族達は天皇(大王)
よりも強い力をもつ者は多くおり時には天皇をさしかえて自分がと思う
人もいましたが人間界の中での唯一の神である天皇の権威は利用しない
手はなく天皇と一族の娘とを婚姻させることで力を及ぼそうとするのが
日本では常套手段になりました。天皇をバックで操る形の権力です。

(2) 西欧では政治的権力(国王)と宗教的権威(ローマ教皇)は早くから
 分離し国王は長く教皇の権威に服していました。同じく天皇は神道
の親分として武家政権の上に存在したと考えられます。日本の近代化を
めざした織田信長が初めて天皇をないがしろにしたことや比叡山の焼き討ち
で人々は本気で神罰や仏罰に怯えたようです。

 なお初の武士政権は源頼朝の鎌倉幕府より前の平清盛政権と考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
また、お礼遅くなり申し訳ありません。

たしかに、国王と教皇は分離していましたね、そう言われるととてもイメージしやすいです。

お礼日時:2015/01/18 16:37

朝廷のトップは誰ですか?


そう「天皇」です
いくら天下をとった武士の棟梁と言えど 天皇をないがしろには出来ないのです
皇統は神話の時代から脈々と受け継がれてきた血脈です 日本人は当時から朝廷や天皇を重んじていたので
武士と言えど形式的には朝廷を上に立てていたのです

それに 武士の棟梁たる源氏とて元は天皇の出です(頼朝の血脈は清和源氏と言い清和天皇の血脈です)
それに武士は朝廷を立てる事で その権力を使って他の武士を従える事が出来ました
朝廷のお墨付きをもらって それをかざして「朝廷に従わないならお前は逆賊(謀反人)だ」と
その代表が豊臣秀吉ですよね 彼は関白となって天皇の代わりに天下を治める事を託されたわけです

当時の武士や当時の日本人にとって 天皇や朝廷は今の感覚よりもはるかに神聖な存在でした
それをないがしろにすれば たとえ天下人でも周りは誰も従わなくなります
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
また、お礼遅くなり申し訳ありません

当時と今では感覚が違いすぎるのでしょうね……

お礼日時:2015/01/18 16:36

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