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幕府と朝廷の関係について。例えば徳川幕府ができた家康はあくまでも天皇から征夷大将軍その他の官位をいただいて幕府を開くという基本的な統治基盤を築き、自ら天皇を廃して、名実ともに日本の君主になるということはしなかったと思うのですが、それでは家康が権力も軍事力もない朝廷を無害なものと考えて天皇を放っておいたかと言えば、めちゃくちゃ朝廷を監視統制して天皇の儀式にも首を突っ込んだりと、ある種調停に対するなんらかのコンプレックスというか一種の恐怖心があるようにも思えます。この朝廷と幕府の奇妙な関係の正体とは一体なんなのでしょうか?長年の疑問です

A 回答 (9件)

> 長年の疑問です



長年の間には、何かの考えが浮かびませんでしたか。

> ある種朝廷に対するなんらかのコンプレックスというか一種の恐怖心があるようにも思えます

徳川末、19世紀頃になると、朝廷に危険要因を感じていたと思いますが、徳川政権初期、中期には、朝廷にコンプレックスや恐怖心を(政権の安定)という面で感じることなどなかっただろうと思います。

> 天皇から征夷大将軍その他の官位をいただいて幕府を開くという基本的な統治基盤を築き、自ら天皇を廃して、名実ともに日本の君主になるということはしなかったと思うのです

私も、そして多くの方も、そのように考えるでしょう。
倭では、卑弥呼が卜術を行うシャーマンで、政治実務・政権の担当は弟という政治体制だったと、言われ、私も、そんなものだろうと思っています。
大和王権も、王権・政権の実体の他に、神というか宗教的権威を別に持ってそこを祀り、神に王権の権威付け機能を果たさせていました。
頼朝の政権の実態は、あくまで武家階層・武家・武士団に対する支配権や警察軍事に関するトップであって、荘園や農民庶民、公家、僧などに対する支配権は朝廷がもっているというスタンスだったようです。 で、家康は、この頼朝の政治方式を手本にしたということだそうです。 もちろん、北宗家が実権を振るった時代、足利幕府の時代と戦国期を経験した17世紀では、全く社会事情が頼朝のときとは違うので、頼朝政権のスタイルを踏襲するなどの時代錯誤を家康がすることはないでしょう。 信長が朝廷の権威を信長権力体制に利用するという方式を、「あれだ!」と家康は思ったのだと私は思います。
もしも、朝廷がなくなったり、権威付けにも利用出来ない程度の状態になったら、足利家も、織田家も、もっと苦労したでしょう。 全てを武力だけ、自分の力と部下の力だけでやるよりも、天皇・朝廷というものを利用した方が、明らかに都合がいいです。 しかし、天皇・上皇や朝廷が、その構想から逸脱したことをする危険は排除しなければならないから、法度をだし、朝廷への財源もこちらで握るということもセットにしたのでしょう。

受験生向けの説明でも、そんなことを書いています。
https://www.juku.st/info/entry/1344
この下の方は、ちょっと思い違いをしていると私は思うのですが、国民性のことが原因などでもなく、「天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができない」などではなく、充分に政権を維持出来るが、天皇や朝廷を使った方がメリットが多く、コストも少ない、リスク対策は出来るということです。 
https://toyokeizai.net/articles/-/255911?page=3
仮に、天皇家が18世紀に断絶していても、19世紀には、徳川政権はそのまま続けて行くことは出来なかったでしょう。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/B_00270 …

半年、1年、2年と、同じテーマについて、疑問をもったままであるときには、思考の枠組み自体を自分で一旦破棄して、別観点で考えると、自分なりの、「あれは、コッチから考えた方が、、、」と新視点が浮かぶと思います。
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将軍は天皇が任命するもの。



天皇が一番偉い。
あくまで将軍はその下にいる。

今もおなじです。

国会で決めた物は全部天皇が御名御璽して発動。
異議は唱えずとも
これは変わっていない。
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人間の集団というのは厄介なもので「なんでお前にしたがわないといけないんだ!」という争いが常に起きます。


 中国の歴史の中で三国志なんかはまさに「絶対にお前に頭を下げたくないから、天下三分の計でそれぞれトップになって国を治めよう」という形をとっています。逆に始皇帝は中国全土のそういう抵抗を徹底的に排除して「俺の言うことを聞け!」とやったので最初の皇帝になれたわけです。

日本の場合、卑弥呼の時代はまだ豪族たちが群雄割拠する時代で、大きな戦争もあったようです。

それが5世紀までの間に整理され、天皇家(この頃は大王)を中心としたヤマト王権に変わります。ヤマト王権とは「各地の豪族が参加する連合国家」で、さらにこれが大和朝廷に変わるのですが、その際に豪族たちも貴族(公家)という形に変化しています。

つまり幕藩体制に似て各豪族が自国内では自由に統治ができたものが、天皇を中心とした朝廷になり貴族(公家)という形で日本を支え、日本国全土に律令制が施行されたのです。

この時大切なのは「日本の各地の実力者は天皇を日本の君主と認め、天皇に従うことを約束した」ということです。

なぜこのような約束が成立したのかは資料が少なく分からないところもおおいのですが、天皇がこの地位に付けたのは単に武力や政治力だけではなく、宗教力によって「日本の各地の人々(豪族から貴族になった実力者)の支持を得ることに成功した」からです。
 
たぶんですが、今でも天皇が新嘗祭や大嘗祭を行うのは「天皇は日本の宗教的権威で、天皇だけが日本の神々(元は各豪族たちのそれぞれの神様たち)全体に祈りをささげることができる、という力を認められたからだと考えています。

この「天皇が日本の君主であり、日本の神々に祈りをささげる存在」という約束は現在も生きていて、だから践祚するときに大嘗祭を行うわけです。つまり「日本の神々に《天皇が代替わりしました》という報告と許可を得る」儀式なのです。

もちろん最初は天皇が政治を行っていましたが、そのうち「天皇が依頼した人物が国を運営する」という方向に変わっていきました。
 その最初は藤原氏の摂関政治であり、次に平家、そして「武士」という明確な身分で征夷大将軍になった源頼朝から徳川慶喜まで武家政権が続きます。

さらにいえば、徳川慶喜は明治天皇に「大政奉還」したので、政治権力を返された天皇は明治の親政を行った後に大日本帝国憲法を発布して、民主選挙で選ばれた内閣総理大臣に政治運営を任す、というやり方にしたわけです。

この点でいえば、藤原家も平家も武家政権も民主政権もみな「人が変わればその都度、必ず天皇の許可をもらいに行く」という点で全く同じ、つまり日本の政治というのは「天皇が政治運営を任せた人が政治を行うのが正統な権力の証明」なのです。

で、これを踏まえて
>めちゃくちゃ朝廷を監視統制して天皇の儀式にも首を突っ込んだりと、ある種調停に対するなんらかのコンプレックスというか一種の恐怖心があるようにも思えます。

に回答すると「そりゃ、天皇の権力をそのままにしておくと日本国中が大混乱になるから」です。

鎌倉幕府はあくまでも「東国武士のための政権」で、当時平泉政権があったことから「京都から分離独立して自分たちの政治をする」という認識でした。
だから朝廷と西国はほぼ手付かずで放置されたのです。

だから後醍醐天皇による建武の親政が起こります。つまり公家も武家も古代からの豪族の一族の末裔である西国の実力者たちからみれば「昔は草しか生えていなかった、東国の田舎者が何を言っているんだ」という意識があったからです。

だから後醍醐天皇に味方して、鎌倉幕府をつぶす行動にでて、その結果朝廷自体が南北朝に分かれてしまうことになります。

これだと、鎌倉幕府も「正しい天皇から正しく統治のお墨付きをもらう」ことが怪しくなるので、非常に困ったわけです。

で、応仁の乱も室町幕府の権威が失墜し「誰が天皇の許可をもらうのか?それとも天皇自身が親政を行うのか?」という権力の不安定さを招き、それが解決できなかったので結局戦国時代になるわけです。

戦国時代のゴールは「天下取り」でこれは「天皇の許可をもらって幕府を開く」ということであったわけですが、ここに「天皇の親政」という選択肢があると、いつまでたっても内乱が終わらない、つまり「征夷大将軍に任じられても、それが気に入らない勢力が天皇をそそのかして、親政のための乱を起こしかねない」ということになったわけです。

だから徳川家康は征夷大将軍になると徹底的に天皇の権力を管理しようとします。
 一番重要だったのは「官位」でいままで天皇が自由に与えていたものが「武家の棟梁は徳川なので、武家には徳川の管理下で官位を与えていただきたい」と朝廷を縛ったわけです。

だって「君、右大臣にならないかい?徳川を倒したら、親政を始めるから、ぜひ徳川を打ち取って右大臣になってくれたまえ」と言われたら、関ヶ原で敗れた豊臣方の大名なんかはその気になってしまう可能性があったわけで、そうなったらまた戦乱の世に戻ってしまうわけです。

なので徳川家康は「天皇の権威」は自分の政治に利用するためにうまく取り計らいつつ「天皇の実権」は取り除く必要があったわけです。

なので「天皇」本人は自由にして「徳川はんは良いお人」と言わせつつ、公家などの「幕府に不満を持つ人たち」を徹底的に弾圧したわけで、それが緩んだ幕末には、やっぱり岩倉具視のような「天皇が日本の頂点であるべきだろ!」という人がでてきて、戦国時代に逆戻りする可能性があったのです。
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有事に臨時に設けられたのが、征夷代将軍で、鎮守府将軍の上位で、


軍事面の最高権力者です。
源氏の嫡流として血筋は良いのですが、自前の軍隊を持たない源頼朝は、
臨時職だが軍事面の最高権力者である事利用して、軍事を越えて、
土地の管理まで行ったので、坂東武者達は喜んで従いました。
朝廷は黙って観ていたのですが、御存じの通りに、我慢しきれず承久の乱
を起こしました。
上皇の院宣を受け、集まった西国の武士団も管理を任されていただけの
領地が自分の支配領地に成る事を知ったので、勝負有りです。
征夷代将軍は武家の棟梁としての地位を築きました。

徳川家康は、踏襲して征夷代将軍になりましたが、承久の乱や後醍醐天皇
の造反などを防止するために、監視の為に京都奉行を作りました。
承久の乱の時に、後鳥羽上皇は隠岐の島に流罪としましたが、天皇への
処罰をしなかったので、鎌倉幕府の支配体制がスムース完了にしました。
室町幕府は制度をそのまま踏襲して、徳川幕府も続いて踏襲したので
外国に見られるような、王族皆殺しの景色は日本では、見られません
でした。
北条政子が天皇の一族を殺さなかったのは、大正解だと思ってます。
歴史と文化継承の朝廷と軍事の幕府の二つが有ったので、独裁者が
日本では出なかったのでは、と思ってます。
足利義満は天皇に取って代れた機会は有りましたが、正倉院の香木を
ちょん切って、威光を示し、我慢したのでは?・・・
(織田信長も真似しましたね)
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鎌倉幕府は自力で全国を統治する能力が無かったので、朝廷に依存した。

それが良くも悪くも武家政権の「あるべき姿」と後世から評されるようになったから。
また、南北朝時代以降、朝廷は武家政権に寄生しないと存続することすら難しくなり、強者にこびへつらうことで施しを受ける、天下人に飼育される愛玩動物と化したから。
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政権を握るものは、常にその「正統性」を求めます。

単なる「成り上がりもの」「権力の強奪者」ではない、正真正銘の「支配者」であることを万人が認めることを要求します。

日本ではそれを「天皇に委譲された」ことで「正統性」を権威づけるのです。
ある意味で「天皇の権威を利用する」ということです。
ヨーロッパでは「ローマ教皇に戴冠される」ことで(つまり「王権神授」)、近代国家では「公正な選挙によって多数の支持を得た」ことによって、それが「正統」だとしているのです。

中国などの共産国には「選挙」というものがないので、共産党のトップはその「正統性」を示すためにあらゆる手段を講じます。「メディア規制」や反権力に対する「人民の敵」「外国の代理人」のレッテル貼り、「粛清」などを最大限発動します。
アメやムチで世論を操作して「大衆」(その中の最大勢力、民族)に支持されるようにしむけるのです。
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天皇って、言っちゃえば形式的なものですから、天皇を殺しても第二第三の天皇が出てくるだけなのです。

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家康の時、他の大名たちに対して、徳川家が一番偉いという形にするために、朝廷の存在が便利だった。


朝廷の存在がなければ、徳川さえ倒せば、代わってトップの権力者になれると考えるものが出る可能性が大きくなる。徳川が武家全体のトップという権威付けのために朝廷を利用してきました。
あくまでも、徳川のための朝廷ということで、諸法度で縛るようになりました。
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平安時代から貴族の土地を守ってきたガードマンにすぎません。


学問も貴族の優雅さも持つ合わせない
や〇ざやさんと変わりませんから
いくら強くてお金があっても平安の町中には住めないので娘を貴族の養女にしたのち傍女として嫁がせて子供を産ませてやっと町の中にはいれた家柄
徳川三代将軍から、自分は将軍の子供だから天皇から詔はいらないと京都に行かなくなっただけの話だと解釈しています。
今まで何をするにも天皇にこんなことしますいいですね
と聞いてはいはいすきにしていいよ代わりに金払ってね
と言っていたから好き放題
幕末の天皇が嫌だと言って徳川さんが大慌てして天皇さんに支配を返した
優しいお母さんが突然すねたのと同じ
末っ子はビビるよね
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