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征夷大将軍について質問です。
鎌倉、室町、江戸幕府の征夷大将軍を誰にするのかは誰が決め、任命するのでしょうか。
天皇が任命するというのが私の認識なのですが、合っていますでしょうか。
またその場合、私の中では朝廷と幕府は仲が悪いイメージがあるため、朝廷側の天皇がわざわざ幕府の将軍を決めるという行為が腑に落ちないのです、、、

今までちゃんと歴史を勉強してこず、最近興味を持ち勉強し始めたため、的外れなことをいっているかもしれないですが、ご回答お願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

天皇であり、朝廷です。


なぜなら、朝廷での、官位だからです。

幕府ではなく、朝廷での階級だから、
天皇が与えます。

他にも、「越前の守」もそうです。
大岡「越前の守」忠相、とか言うでしょ。
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この回答へのお礼

皆さまご回答ありがとうございました!
全て分かりやすく、学びになりましたので、一番最初にお答えいただいた方をベストアンサーにさせていただきます!

お礼日時:2022/08/26 17:29

鎌倉、室町、江戸幕府の征夷大将軍を誰にするのかは


誰が決め、任命するのでしょうか。
 ↑
決めるのは自分です。
自分で決めて、朝廷に認めろ、と
要請するわけです。
そして、天皇が任命します。



天皇が任命するというのが私の認識なのですが、
合っていますでしょうか。
 ↑
合っています。



またその場合、私の中では朝廷と幕府は仲が悪いイメージがあるため、
朝廷側の天皇がわざわざ幕府の将軍を
決めるという行為が腑に落ちないのです、、、
  ↑
幕府にとっては天皇のお墨付きがあれば
皆が納得してくれます。

天皇としても、実力が朝廷を上回るい
幕府を正面から敵に回すのはお得では
ありません。

双方、妥協の産物です。



西洋では、王権神授説てのがありました。

王様はどうして威張っていられるの。
あの権限は誰からもらったの?
どうして、おいらは従わねばならないの?

神様からもらったんだよ。

そうか、神様じゃしょうがない。
従うしかないな。


これと同じです。

天皇は神と人間を媒介する存在です。
だから、天皇が任命する、てことは神が
任命するのと同じなのです。

そうやって、世俗の権力に正統性を
持たせ、人々を納得させるのです。


現代でも、総理大臣や最高裁長官の任命は
天皇が行うのも、そうした沿革に基づいて
います。
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室町時代や江戸時代では朝廷側に決定権はなく, 幕府からの指名に従って任命した. 鎌倉時代でも源氏が征夷大将軍を世襲していたときはそうだけど, その後は朝廷と幕府との折衝で「誰を征夷大将軍にするのか」が決まってる. 実際, 鎌倉幕府の 4代将軍はもともと皇子を戴くつもりが朝廷側に断わられて結局摂関家の 1つである九条家から入ってきている (その後 6代将軍からは皇族から迎えることになる).



朝廷と幕府との仲については時代によって, 例えば後鳥羽上皇や後醍醐天皇との仲はあんまりよくなかったけどそれ以外は (ぶっちゃけていえば「勝てない」ので) 朝廷も幕府によりそう態度をとってるよ.

なお #1 の「○○守」は実際に朝廷から与えられたものと別に「勝手に名乗った」ものがある. 有名なのは織田信長の「上総介」で, 実は間違って「上総守」としていた時代があったらしい. この辺については「武家官位」などをどうぞ.
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徳川は、武家側から根回しをして、形式的には天皇の名で任命。


豊臣秀吉の時は、朝廷が拒否しています。
室町の時は、南朝北朝でもめてましたから、足利尊氏がかなりの圧力をかけたでしょうね。
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>鎌倉、室町、江戸幕府の征夷大将軍を誰にするのかは誰が決め、任命するのでしょうか。



各幕府の最初の将軍は「実力で勝ち取った人」です。

源頼朝は法皇の依頼で平家を滅ぼしたのですが「将軍にしてくれ」という頼朝の要望を法皇は撥ねつけ、結果的に法皇の死後、天皇が征夷大将軍に任命します。なんで法皇が死んだあとに天皇が任命したかというと「法皇のほうが権力が上だったけど、法皇が死んだら頼朝よりも実力で勝る人は日本には誰もいなかったから」です。

室町幕府も足利尊氏が楠木正成を破り、南朝の後醍醐天皇を幽閉し、北朝の天皇に「(鎌倉)幕府と戦って、天皇をお守りします」といい、幕府軍を破って天皇から「将軍に任命する」と許可をもらって室町幕府を作りました。

信長は、最初室町幕府15代将軍・義昭の下で各地の武将たちをまとめたり、戦ったりしていたのですが、そのうち将軍を見限り、京都から追放して安土城で政権運営に乗り出しますが、本能寺の変で弑されます。
(弑す=自分の上司を殺すこと)

なので、実力で後を継ぐことになった秀吉が「天皇をお守りします」と許可をもらって、関白になりました。
 秀吉だけ関白だったのは諸説ありますが、個人的には「明国平定には、国内職の将軍ではなく、天皇の全権代理になれる関白である必要があった」という説を取ります。

で、秀吉が死去した後、息子の秀頼が関白になる前に、関ケ原とか大坂の陣で家康は勝ち、天皇に「私がお守りするのがいちばん安全です」と言って、征夷大将軍に任命してもらいました。

どの将軍(関白)も、実力で地位を脅かす者が現れない限り、息子に権力を継承したのですが、息子の代替わりには、都度都度天皇から許可をもらっています。

>私の中では朝廷と幕府は仲が悪いイメージがあるため、朝廷側の天皇がわざわざ幕府の将軍を決めるという行為が腑に落ちないのです、、、

平安時代には天皇の権力がどんどん落ちていました。藤原執権時代でも、事実上天皇本人に権力はほとんどなく、平家全盛の時代も天皇には権力がほとんどなく、あるのは「権威」だけでした。

だから武士が台頭し鎌倉に「東国武士の独自の政府を作りたい」という源頼朝の依頼を「天皇の地位はそのままで、法皇とか平家みたいなやつらが天皇の権力を犯さないようにしてくれるなら(つまり天皇の地位を守ってくれるなら)将軍に任命します」ということになったのです。

ほかの国の歴史を見ると「王を殺して、自分が新しい王になる」という王朝交代がたくさんありますが、日本でそうならなかった理由は二つあって
①鎌倉幕府は「東国中心」だったので、西国は天皇の支配下のままにすることで、幕府は無駄な武力闘争を避けたから
②天皇は日本の司祭権を持っている「その国の統率者を任命する権限を持っていたから」
です。

①の鎌倉幕府は東国中心、西国まで武力統一する力が無かったことが、結局後醍醐天皇による南朝支配を許すことになり、その後も西国を支配しきれない鎌倉幕府は結局滅亡し、室町幕府は京都に幕府を置くことで、西国と東国の利害関係を調整しようとしますが、これも失敗して「よし、じゃあこの日本を支配するの誰がふさわしいか決めようじゃないか!」という戦国時代になるわけです。

②については、戦国時代でも「天皇に《守ってあげる》と約束して、将軍になったものが勝ち」というルールで、これを「天下一」と呼んだわけです。

つまり「天下一強い武士が、天皇を守るから、天皇はその武士を将軍に任命する」というバーターです。

天皇の方は「地位と権威を守ってもらえる」という点が利点で、武士のほうが「天皇が《この人が今日から将軍、よろしくね》というと、それに歯向かうのは逆賊・国賊で恥ずかしい、天皇の命令で他の武士がこぞって殺しに来るから歯向かえない」という利点がありました。

家康が秀吉の死後、秀頼の関白就任前に政権を奪ったのは「国賊になりたくなかった」からです。

ということで、ほかの国である「王冠をかぶせる神父」の役目を天皇が果たすようになったのが、鎌倉幕府以降の日本のやり方です。

蛇足ですが、天皇がエンペラーなのは「国の政治権力・軍事指揮権・司祭権」のすべてを一人で持っているからで、ローマ皇帝も中国皇帝もその他の皇帝も、これらを一人で持っているから「エンペラー」です。

天皇は、政治権力と軍事指揮権を将軍や、内閣総理大臣に移譲していますが、司祭権だけはずっと持っていて、今でも毎年「新嘗祭」で《日本のすべての神々に祈りをささげる》という儀式を行います。

この「神々」の中には、かつての日本の豪族たちの氏神たちがたくさん入っていて、だからみんな「天皇は俺たちの神さまをずっと奉ってくれるのだから、俺たちも天皇のいう事は聞こう」という形になっています。

これが古代の約束で、それが守らていたから「天皇の意思に歯向かうと国賊」になり、武士は恥を恐れるので、これほどの恥はなかったから、天皇の任命に従ったのです。
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幕府が指名、天皇が任命。


総理大臣も国会が指名、天皇が任命。

意義は唱えぬが、これで天皇が日本で一番偉い人という認識か。
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こちらのサイトが分かりやすく解説されています。



https://hugkum.sho.jp/260823

天皇は神様の子孫とされていますから、完全に滅ぼすとなるとその後国民を纏めるのが大変です。
現代より昔の方が神仏に対する信仰心はあったでしょうしね。


何歳になってからでも歴史に興味に持つのは素敵ですね!
プライベートで学ぶ歴史は教科書に習うのではなく、自分の好きなところから学習できるのが楽しいです(*^-^*)
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形式上は天皇の任命です。


頼朝以前と以後では征夷大将軍の意味合いは全く異なります。
頼朝以降は「頼朝の正統な後継者」という意味合いです。
で、「征夷大将軍を誰にするのかは誰が決め」となると、これは「幕府」からの申請です。頼朝の死後、幕府が頼家を後継者として頼朝の権利を引き継ぎたいと申請し、朝廷がそれを認めたことから将軍の世襲が始まりました。
鎌倉幕府が滅んだ後、足利尊氏が「将軍になりたい」と申請しましたが、後醍醐天皇は拒絶したので、尊氏は新しい天皇を擁立して将軍に任命してもらいました。
要するに朝廷には拒否権がないのです。申請されたら認めるしかないのです。
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征夷大将軍の職名は朝廷の職名です。


ですので、当然に天皇の名で任命します。

ただ、鎌倉幕府以降は、天皇が勝手に任命するのではなく、武士政権の方から要請した者を任命しています。当然その際にはお礼の品物の贈呈もありました。

なおNo1さんのおっしゃるように「○○の介」というのも朝廷からの辞令です。この「○○の介」を得るために朝廷の有力貴族に財物を送ったりしたのですね。ですので知行している国とは全く関係のない名もたくさんありました。
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征夷大将軍は天皇が任命します。

源頼朝もこの地位を要望したが、後白川法皇の反対にあい、法皇
の死後実現しています。
仲が悪かったためです。
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