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この世に本当の意味での「絶望」はあるのでしょうか。

 「絶望による自殺」「自殺するほどの絶望」
以前質問した内容と重複いたしますが、今回は自殺を文学・哲学的アプローチ、つまり「絶望」をもって考えたいと思います。逆をかえせば、精神的疾患以外で自殺するほどの絶望はありうるか。ということです。
ただ、絶望と自殺は直結するものとも思わないので、質問をあらたに立て直しました。

 ○二つの異なる絶望
精神疾患の中での「絶望」には理性よりも感情が深く関係した湿度のあるものという印象。
私が考える意味での「絶望」という感情は、もっと冷静で乾いたもの。

 例えば、精神的疾患による自殺などの場合は、確実性にかけたり、明らかに自殺であると断定できる手段を選んでしまうのに対し、精神的に安定した人であれば、事故か自殺かわからない方法で家族や友人を優しい嘘で騙し、確実に望みを遂行することもできる。
 もちろん、正常な精神での「絶望」は、逆を返せば、生き続けることも可能。(ただ、生と死の価値がが同列に置かれ続ける為、生に対しての希薄さがある)
反対に鬱や精神疾患の場合は生きていくこと自体にかなりの苦痛を伴い、自分の意思とは関係なく自傷する。
(これが、絶望と自殺が直結でないと考えるに至った根拠です。)

しかし・・もしかしたら、前者も後者も、医学書には病名もちゃんと載っていて、離人症だの乖離性何とかだのと診断されてしまうのかもしれないのですが。。(そえはそれで専門的なご意見は聞きたいです。例えば出される薬とか。)

もちろん心理学だけでなく、哲学・文学的意見待ってます。(参考資料・サイト等も)
最初にも書きましたがメインは「精神的疾患以外における絶望」です。個人的意見は大募集ですが、できるだけ私情のない、客観的な意見でお願い致します。

A 回答 (9件)

人が絶望に至るまでにはいろいろな過程があるとは思いますが、最終的には何かものを見て判断する基準が欠けてしまった状態だと思っています。

わからないということは、そのことについて先の予測できない状態です。予測できないとき、人はそれに関わろうとするとき不安になります。すると、その不安から、その予測できないものについて投げやりになったり、無理にでも関わって新たな自分の基準を再構築しようとします。しかし、あまり失った価値観が大きすぎると混乱により精神的に疲労し、動機を失い、ただ原体験的に見るより他にすることがなくなります。これが絶望と言われるものかと思います。
空を見て、ああ、青いな、と実感します。これもあなたという基準に従っています。クラシックを聴いていいという人と、ハードロックを聴いていいという人がいるのと同じです。いい悪いはでなくても、青いと認識するときには、自分の中に青というイメージが存在し、空の青を見て私の中の青の温もりを覚えるため青を実感できます。うつ病を克服した患者からよく、あの時空を灰色と感じた、とよく聞きます。これは彼の中で何かの基準が失われてることを意味します。それは自分の感覚に関する何かです。あるいは自分の中の世界を本質的に見失った状態とも言えます。出口があるかどうかもわからない真っ暗なトンネルの中に放り込まれたようなものです。もし出口がないのであれば、自分は出口を探しても意味がないのではないか。こんな苦しいだけの世界に自分は生きていて何の意味があるんだろう?と思ってしまいます。これがどのくらい苦しいかと言えば、たとえば、面接で緊張する方なら面接を想像してください。面接で喉から心臓が飛び出そうなくらい緊張する人もいるでしょうが、(重度の)うつ病の患者は、メンタルリズムもありますが、症状が重いときにはそれとは比べ物にならない緊張を恒常的に感じています。
哲学者の場合、哲学者の絶望を具体的に知らないので推測ですが、彼らはより複雑な情報の処理を要求されます。情報の処理は内面的なイメージを柔軟に処理することによりなめらかな思考がうまれるのですが、ひとつの事象に少なからず性質を与えるということは、内的世界に基づいた偏見(悪い意味ではない。逆にこの偏見がないとうつ病になってしまう ^^;)であると言えます。ひとつの偏見についてこだわることができることは、どれほど柔軟な思考であっても、自身がプライドを持っていることを意味しています。それはつまり、何かに対し無意識的に期待をしているということでもあります。その暗黙的な期待に反する認識があるとき、なんとか再解釈し自分の中で構築しようとするのものですが、それができないときにはいろいろな表面的な理由により命を絶つこともあるのではないでしょうか。たとえばそれが自らの死の解釈に基づいたものだったりすると思います。
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この回答へのお礼

まず、回答を先に締め切ったのでお礼に書きこみます。すみません。
皆さんの意見を聞き、私なりに答えをだせました。(一応)
何も本も読まないところから深い命題を選んでしまいましたが、結果知りたい事は分かった気がします。

まず、結果として、

心理的・語学的・哲学的・社会学としては「ある」
しかし純粋な「真の絶望」は存在を確認できなかった。

というところです。(これは無いと回答してくださった#6さんの意見と同じです。)

ただし、私が質問で比較に出した「渇いた絶望」については答えが出ました。これは#1の方の回答にある「ニヒリズム」です。
そして、結果的には精神疾患によって持たれる絶望とほぼ大差ないと考えました。

まず、社会学的な自殺にいたる絶望は、前回#3さんがおっしゃってくれました、自身の性格、借金やいじめなど環境によっての絶望。自殺は死へのメリットが高まった時。

次は、哲学的。
不毛な問いではありますが「自分は何故自分でありうるか」という自己の存在意義。(#4・#8)
そして、必ず来る絶対的な死への恐怖・無力感。(#3・#5)
しかし、この哲学的な自殺も、結局、自分で死期
を操る事で、死への恐怖を紛らわしたり、一矢報いるような心理が働いていると考えられます。
そして、存在意義を考え、「絶望する」ことで擬似的に達観し、自分固有の存在価値を認める行為に繋がります。(つまり、存在意義を求める事で自分が特別な存在であると考えようとする。)
よって、これらの要因による自殺は死にメリットがあるといえます。

そして#1の虚無主義はそれをさらに擬似超越した達観を持つ
(つまり、自己の無力・存在意義の無い事を認め、全てを諦める)ものとして考えられます。
これが私の言いたかった「渇いた絶望」です。(多分)
これは、前に述べた絶望すら達観しています。
「死」にはメリットが無い(そんなことは存在証明にはならず、ただの自己満足にすぎない)ことすら知っている状態なので、
生と死が同価値になるため自殺はあってもおかしくない。かもしれない。

でも、生物学的に異常な心理です。(あっちゃいけない心理だとおもいませんか?)

(以下に続きます)

お礼日時:2004/06/30 02:37

あります。



「絶望」するのは病気ではなく、絶望するから病気になるのか。

私が何気に絶望を感じた瞬間のことを述べて起きます。

「自分は気が付いたら、生まれていて、だから生きなければならない。でも、いつか死ななければならない。このふたつはどうにもできない。何か、勝手な気がする。どこに自分がいるのか。仮に自分が今日死んだとしても、明日に世界は全く変わることのない朝を迎える。仮に自分が今日も懸命に生きたとする。それでも、私以外の存在に本質的に何の関係もないう・・何も及ぼさず、足さず、減らない。幸不幸などは自分の外の世界には何もない。あるのは自分のそういう解釈ばかり。そして、その自分の解釈も環境と遺伝因子に刻印されたもので、「これが自分だ」と思っているものは実体がない。自分にはどうしようもない。その「どうしようもない」ということさえも。」

こういう「存在」に対する無力感が「絶望」の状態だと思う。そして、それでも生きていかなければならない、ということ。人によっては何とかやっていくかも知れないが、それでも死ななければならない。
真剣になればなるほど、その無常に対する無力感・虚脱感は強まる。
だから、ほどほどの真剣味で生きて死ぬのがいいのかも知れませんね・・。
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この回答へのお礼

(つづきです)

でも、突発的な死に直面した人間の感じる絶望(#1)。
心理学的絶望と考えられますが、こちらから考えていくと面白いものが見えてきます。
突発的に事故にあったりした時、よく「視覚がスローになった」とか「離人感・痛み・恐怖が遠のく」とか「やばい死ぬかも。と冷静で客観的に考えた」りした話を聞いたことあります。
これは今読んでいる本の受け売りですが、完全に突発的に「回避不能な死」や事故に対して、動物本来がもつ、「防御」と考えられませんか?
自分を達観する・擬似的に他人のようになることで、恐怖を回避するのです。
これを「心理学的な「絶望」に付随した恐怖回避プログラム」とします。

ここから虚無主義を考えてみると、虚無主義の人が感じる離人感・達観するところなど、類似しています。(他にも類似点があります。)
それから発展して考えると、哲学的絶望で自殺する場合、意識のすり替えのようなことが起こっているのではないか?
と考えました。つまり、
心理学的・死の恐怖回避のため→生と死が同価値になるよう擬似的に離人感や達観(虚無)をあたえる。
哲学的・・達観による生と死が同価値になった時(虚無)→死の恐怖が和らぐ・死への親和性を生み出す。

そして、はじめの質問にあった「精神的疾患による絶望」、これは誤りです。。こんなのないですね。
比較のために出しただけなのですが、意見を聞いて考えをまとめていくと、
精神疾患を「病的要因」としてとらえることはできます。が、結果は結局一緒になります。
#3さんの言うとおり、鬱のときは何も出来ませんから自殺はあまり起こらないでしょう。(前にも言いましたが、自殺という最悪なシナリオを回避する為、起き上がれないほどの無気力を発動したり、自分や周りが気がつく症状がでるので抑止力になる。)
しかし、躁であるときは、視野は狭まったままですが動けます。このとき、まだ問題がのこっていれば、その人はやはり自殺を選ぶかもしれません。

(またつづきます以下)

お礼日時:2004/06/30 02:47

 


>この世に本当の意味での「絶望」はあるのでしょうか。

あるでしょう。あるとかないとか言うのは、「海で溺れたことがあるかないか」という問いに対し、海に入ったことのない人がどう考えても、答えなどないでしょう。海で溺れるには、海に入ったことがなければならないのは自明のことでしょう。

>私が考える意味での「絶望」という感情は、もっと冷静で乾いたもの。

鬱病の「絶望」は、擬似的絶望で、「視野狭窄」から起こって来るものです。実存の空間の狭窄から、絶望の自覚が湧くだけで、「絶望の中身」が実はないとも言えるのです。それは、「冷静な乾いた絶望」と対比されるものではなく、そういう「冷静で乾いた絶望」も、単に想定しているだけのものでしょう。

「自殺」の問題には、何よりも、「生」と「死」をどのように概念了解するか、更に、世界と人生を実存了解するか、という問題があります。自殺を念慮する意識の持つ実存のアスペクトは、「絶望」の実存アスペクトとは別のものです。

生に対する絶望ではなく、生に対する充足と完成の意識・感覚に基づいて、自己の「生死実存」を完成させようという企図もまたありえるのです。生の肯定と充足故に、いまこのときに、永遠なれと、「死を選ぶ」自殺もまたありえるのです。

人の「死の事実性認識」と、「絶望の可能性空間」は独立しているというのが事実です。それらは別のことなのです。……死は、「無(NIHIL)」であるのか、「無限」あるいは「永遠」であるのか、「死の実存了解」は、実存そのものと深さを共交換するものとも言えるのです。

人はときとして、「無である死」の真の深さを了解しないで、自殺という神話行為へと、容易に赴いてしまうのです。……

-------------------------

平易な言葉で言えば、「真に絶望する」には、それなりの才能が必要なのです。「絶望」を絶望として実存了解するには、カール・ユングの言葉で、「個性化の原理」が目指されねばならないのです。

個性化の原理の否定は、文化または制度の神話への個の実存の屈服であり、もっとも平易な自殺は、文化または制度の神話への準拠に該当するため、絶望の実存了解と自殺は、相互に通約しないのです。

(真に絶望を経験した者は、真の死を死ぬでしょう。そして「死」とは何か、実存にとって超越的であるというのが真理です。「人は必ず死ぬ」というのは、まさに自明ではないのです)。
 
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この回答へのお礼

(つづきです)

そしてその時・・・・・
恐怖しながら脅迫的に自分意思でなく死ぬとしたら、
そこまでしなくてはいけない社会学的メリットのある死でしょう。

恐怖が無く、少なくとも自分の意思だと認識しているのであれば、哲学的に虚無主義に達し、「突発的な死のためのプログラム」であるところの「死への達観・悟り」が発動される。
つまり、心理的には何らかの要因で「死」が確定した時、「他人事のように感じる」ことが出来てしまうってことですね。
諸刃の刃のようなプログラムのため、間違った死の確定(自分は死ぬべきだと自身で決めたりする)をしていた場合でも恐怖が少なくなる。よって自殺がおこりうる。
逆に言えば、そういうプログラムがなくちゃ、30階40階のビルから正気のまま落ちることは不可能だと思うからです。

それほどに、生物学的に自殺は行為として異常だといえます。
でも、この推論でいくと、なんとなく自殺という行為が理解できる範囲に手のひらに乗り、
さらに動物的本能に矛盾無く、説明できます。
真偽はともあれです。
★    ★    ★

心理学的要因(突発的死への直面)の絶望
→恐怖回避のための擬似達観プログラム(生と死を同価値にする)=虚無

社会的要因(借金・思想・人間関係・性格)の絶望
→メリットのある死(生<死)

哲学的要因(存在意義・死への恐怖)
→メリットのある死(生<死)
→虚無主義=絶望(生・死が同価値)
 (ここで確定的な死への心理プログラム発動可能)

病的要因(病気により狭まった視野)
→社会的要因→メリットのある死(生<死)
→虚無主義=絶望(生・死が同価値)
 (ここで確定的な死への心理プログラム発動可能)

まとめるとこんな感じです。
文章力ないので、多少の変なところは見逃してください。

回答を誤って理解していたらごめんなさい。
しかも、かなり自分なりの答えなので、独断・偏見や誤りもあると思います。
なにぶん、ド素人・不勉強で・・許してください。
でも、皆さんの意見は本当に全員参考になりました。
(ほんとは全員にポイント差し上げたかったです。。)
まだまだ詰めは甘いですが、この辺でお開きにします。
ありがとうございます。本当に勉強になりました。

(あと、全員に個人あてのお礼できなくてすみません。)

お礼日時:2004/06/30 02:51

個人的意見でスイマセン。


「ない」に1票です。

まず「本当の意味で」ってのがない。

純粋な混じりっけのないものもない。
病名も便利だからあるんだし。

アカの他人には、計画殺人か衝動殺人かってのと同じくらい分らない。

もし、その人の人生を全て正確に記録したデータや、湿度メーターなどがあったとしても判断にはそうとう悩むんじゃないかなぁと思います。
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この回答へのお礼

皆さんのおかげでようやっと自分なりの答えを見つけられました。
#7・8・9のお礼欄に書きましたので、読んでいただけたら幸いです。。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/06/30 02:57

No3の方とほんの少し重なってしまいますが、人間にとって最大の恐怖は「死」であると言います。

しかし、それ故に、自分自身の生をいかに納得できるように生きていくか、と言うことが大切なんだということも言われます。
人がもし、絶望を経験するだけの状況に追いこまれたらどうするでしょうか?それは、ごまかすか、絶望とそして回生によってそれに対処するかのいずれかであると、ドイツの実存哲学者ヤスパースは言います。
また、デンマークの思想家キェルケゴールは言います。絶望しうるのは自由で自覚的な存在としての人間の特権だが、同時にそれは苦悩であり、克服すべき課題でもある。同時に彼は、精神を死に至らしめる病は「絶望」であるとしています。

ここで重要なのは、絶望とは、絶望的状況(おそらくキルケゴールは絶望という言葉の中にこの意味も内在させている)を乗り越えるためのものであるということです。彼らは、自信の主体性を追い求めていた人物ですので、生への衝動が激しく死と言う選択肢を持ち得なかったと思いますがそれでも、この考えは重要だと思います。いづれも、絶望は自分の生をより納得できるようにするための解決法あるいは道具としています。まあ、基本的に、こういうような考え方ができる人は少ないのが現実ですが。

絶望的状況は誰にでも訪れるものであり、そして、この状況下で絶望することも、誰にでもすぐできること。そして、絶望から逃れようと(克服しようと)する。これは誰にでもあれはまることです。ですが、この後が細分化します。要は、そのプロセスと結果です。それによって、今まで通りの生活をする人もいれば、今までと違う生活をする人もいる。極端な例が「死」です。

何だか全く参考になっていないようですが、あしからず。
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この回答へのお礼

皆さんのおかげでようやっと自分なりの答えを見つけられました。
#7・8・9のお礼欄に書きましたので、読んでいただけたら幸いです。。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/06/30 02:58

冷静で乾いた絶望と死。

とても考えさせられました。私にとっても大きな疑問の一つではありますが、私見を申し上げてみます。

「ぼんやりとした不安」を理由に自殺した文豪がおりましたけど、彼がうつ病だったかどうかはわかりませんが、「自分の存在意義」みたいなものをつきつめて考える人にとっては、実際に自殺を実行するかどうかは別としても、必ず行き当たる不安だろうと思います。なぜ生まれた?何のために存在する?死んだらどうなる?真摯にこの疑問に対する答えを探そうとする人は、普通は絶望するしかないでしょう。世間一般に広まっている「科学的知見」によれば、人間はビッグバンから連なる偶然の積み重ねによってなぜか出来上がった物体、ということですからね。(諸外国ではこの意見だけがまかり通っているわけじゃないはずです、あまり詳しくは知らないのですが)偶然によって存在させられるのなら、なんの意図も目的もありません。
こう考えると、哲学には答えがないかもしれません。
こうした回答をお求めではないかもしれませんが、上記の問いに答えられるのは宗教だけなんじゃないかと思います。聖書には「神が意図をもってあなたを創造した」「神はあなたを愛している」ということが明確に記されています。

それと、村上和雄教授の”something great”という概念はちょっと面白いかも知れません。

参考URL:http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=30528 …
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この回答へのお礼

皆さんのおかげでようやっと自分なりの答えを見つけられました。
#7・8・9のお礼欄に書きましたので、読んでいただけたら幸いです。。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/06/30 02:58

>精神的疾患以外で自殺するほどの絶望はありうるか


一般的に言えばやがて来る死への恐怖でしょう。人は必ず死ぬというのはあらかじめ予定されておりどのような方法によっても逃れることができません。尊厳死について考えてみれば医師の幇助によって死ぬということは死による救いであり、絶望による死ではありません。
個人の問題に限れば「自殺するほどの絶望」があると感じ考えることができるならば、ヴィトゲンシュタイン的に総体としてそれは個人にとって「実存」ですから哲学的に存在することになるはずです。しかし絶望というのは何かに対して固執している問題ですから、それを受け入れることができるならば絶望というのはたちまち存在しないものになります。哲学的な考察よりも絶望が何かを現象学する方が大切のように感じます。文学では、坂口安吾は「堕落論」の中で『落ちきった底にこそ救いがある』といっていますね。

絶望と自殺は直結しません。例えば金銭的な問題によって解決の見込みのない絶望的な状況に陥ったとしても、破産により免責がおりて社会的に救われるかもしれません。これは社会的な問題解決の一つの方法です。しかし、夜逃げするという方法もあります。このような社会的に責任をとらない(社会規範上許されない)行動を逸脱といいます。この社会的逸脱行動の一つとして一般に自殺も分類されます。絶望が自殺へと結びつくには「死んだ方がマシ」とか「死ぬことによるメリット」がなくてはいけません。例えば自殺による保険金での借金返済、抗議としての自殺など。
質問の方にかかれている内容では傾向から手段が導き出されていますが、傾向と手段と動機は別のものと考えることができます。ですから誤りと思います。
あえて誤解を招く言い方をすれば、大阪から東京に行くのに飛行機でも車でも新幹線でも目的地である東京に行けることに変わりはありません。

ここのカテゴリが教育>心理学となってるように心理学は認知→学習→発達のように基本的に感情というものを特別に扱わない、どちらかというとシステマチックなものを主題とします。で、臨床心理学、精神医学というのは基礎心理学の応用である現実的な障害と内面的問題解決、生理的・病気の治療です。極端にいえば「これは病気である」とラベリングしなければ病気として認めないといってもいいです。しかも厄介なことに境界例というのも存在します。鬱病による自殺の好発は悪いときよりもむしろ状態がよくなりかけた時です。そのようなことから絶望と自殺を結びつけるのも無理があります。また鬱病の人全員が自殺に対する衝動や傾向を持つわけでもありません。
精神的な病気による自殺の影響があるとするならば、それは傾向と手段と動機以外のその他に気質として分類しておくべきではないかと思います。
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この回答へのお礼

二度もお付き合いしていただいてありがとうございます!!(お願いしちゃってすみません。。)
よくよく見ると本当にいいかげんでいい質問じゃないですね。^^;
かなり自分でも乱暴に書いてしまって。

でも、皆さんのおかげでようやっと自分なりの答えを見つけられました。
補足を読んでいただけたら幸いです。。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/06/29 23:28

補足です。


ニヒリストと化した人物が、どう自殺に至るか、という部分ですが、これは例えば有名な夏目漱石の「こころ」が参考になるのでは・・・と思いました。
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この回答へのお礼

皆さんのおかげでようやっと自分なりの答えを見つけられました。
#7・8・9のお礼欄に書きましたので、読んでいただけたら幸いです。。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/06/30 02:57

とっても難しいお題で、私がここに記入してよいのか分かりませんが、こういう話は好きなので寄らせてもらいました。


私は、上記文を読んで、所謂「nihil」の状態ではなかろうか?と個人的には思いました。ただし「nihilism」の中でも、広義な逃避的な部分のほうで、既存のものを破壊したいとする反抗的な部分は違うのかな、とも思います。
もしくは、自己の想像を絶する状態に対面した時の精神的状態時(決して精神の損失ではなく)に、じわりじわり訪れる恐怖ではなく、ボールのようにドンと投げつけられる衝撃が絶望となるのではないでしょうか?(そこからじわじわと湿った苦しみがくるかもしれませんが)例えば、肉親の死、自国の戦争、犯罪による被害・・・なんといいますか、乾いた、とありましたので、持続的な苦しみはともあれ、ピンポイトで且つ衝撃が大きい他からの接触の、その時、特に、死を考える前の、恐怖を感じる前の絶望の核があるのではないか、と思います。
そこからその人物が疾患者となるか、あるいは衆人と同じ顔をしたニヒリストとなるか。。。
全然参考になりませんね。こちらが考える機会をもらえました。
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この回答へのお礼

この疑問は手探りで、自分で十分熟慮もせずに投げかけてしまい、手に負えないことを聞いてしまったかも・・と思っています(^^;

Kaoru2919さんのおっしゃっている事とても参考になりました。
特にニヒリズムであるという解釈はすっごく面白いと思いました。
ありがとうございました。

あと「こころ」ですが昔読みました。なんとなくしか覚えてませんが・・

お礼日時:2004/06/21 21:50

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