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1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設はなぜすぐには実現に至らなかったのですか?

A 回答 (3件)

1881年といえば日本史では「明治14年の政変」が有名です。

大隈重信とその一派が政府から追放されました。これは、大隈らの主張が「国会即時開設」、伊藤博文らが「開設はするが10年後に」で激しく対立したためと言われます。
ただし、それだけでは理解不足でしょう。両者の対立点は「イギリス型の議院内閣制か、ドイツ型の超然内閣か」にもありました。当時、1870年に普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、71年にプロイセン中心のドイツ帝国が成立して、昇竜の勢いだったのです。伊藤らはこれに幻惑されてドイツのまねを決め込み、大隈らのイギリス型案を排撃しました。
そもそも、議会を開設するのは、1868年の「五箇条の御誓文」第1条で誓われていたことでした(広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ)。また、ドイツの勢いに幻惑されて日本国の方向を決めてしまうことは、第二次世界大戦の前にも繰り返されました。

さて、イギリス型もドイツ型も世襲君主(王や皇帝)がいましたが、イギリス憲法学では King in parliament(または Queen in parliament)という基本概念があります。
ちょっと歴史を振り返ると、17世紀中葉の1649年、イギリスはピューリタン革命で国王を処刑しています。共和政になりましたが、クロムウェル独裁と化した後、また王政に戻りました(1660年)。さらに、国王が議会と対立して追放され、名誉革命が起こります(1688年)。議会は、王の娘夫婦をオランダから呼び寄せて王位に据えました。
その後イギリスでは革命が起こらず、今に至っています(詳しく言うと王朝名は代わったが)。つまり、英国王の正統性は、議会に呼び出されたことにあります。神代の昔から続く血筋なんてものに、かかっているのではありません。議会から「お呼びでない」と言われたら、それまでなのです。
こうして世襲君主と民主主義の両立の道が示され、名誉革命後のイギリスはおおむね安定的に発展していきました。

一方、ドイツ型の超然内閣は、国会の多数党が内閣を組織するというのでなく、議会に基盤があろうがなかろうが、皇帝から大命(たいめい)が降下した有力者が首相になるのです。この方法は、当時の日本の藩閥政府に適合していました。
また、1878年に参謀本部が設置されましたが、これもドイツのまねで政府(および陸軍省)から独立していました。参謀本部長には、政府を通さずに直接天皇に上奏する権限が認められたのです。これを帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)と言います。
天皇の仕事が「よきにはからえ」で済む(上奏されたことにそのまま御名御璽を記す)ためには、政府と軍が互いに調整を付けた上で、上奏しなければならないはずです。ところが、軍機事項・軍令事項については政府は口をはさめず、軍が上奏して最終決定となるという種が、この時まかれてしまいました。
そのあとの1889年に憲法が発布されますが、帷幄上奏権や「統帥権の独立」が組み込まれていました。要するに、五箇条の御誓文にもかかわらず、藩閥政府が国会開設や憲法制定をずるずる引き伸ばしているうちに、非民主的な制度が固まっていったのです。

また、ネットにはびこるネトウヨたちは、現行憲法を卑しめるために明治憲法を持ち上げるという、倒錯的な挙に出ることがあります。しかし、憲法学を勉強すれば、明治憲法が欠陥憲法で、現行憲法のほうが優れていることが分かります。優れていたために、手直ししないまま70年近くも使えてしまって、戦後日本の繁栄を支えてきましたが、さすがに改正も必要だろうとも言われています。

日本における「議院内閣制」のデザイン - 齋藤憲司(政治議会調査室)、国立国会図書館レファレンス、平成22年11月号。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/p …
〔引用開始〕
アメリカは第二次大戦終結の前から日本占領政策の研究を開始していた。
GHQ の1945(昭和20)年12月6日付「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」は、ラウエル民政局法規課長によるものであり、帝国憲法について調査したうえで、憲法改正に関する一応の結論と提案を記したものであった。〔中略〕
1946(昭和21)年1月7日に米国の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)によって承認された「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は、日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示すもので、〔中略〕
このSWNCC228を基に起草するため、GHQ民政局の行政部を中心とするメンバーにより、運営委員会と7つの小委員会が設けられた。小委員会は、国会、行政権などに分かれ、小委員会の責任者の多くは、「法律家、政治及び行政の経験者、占領地の軍政担当者としての知的訓練を受けた専門家であった」。運営委員会は、ケーディス陸軍大佐を委員長に、ハッシー海軍中佐、ラウエル海軍中佐、秘書のルース・エラマンで構成され、
〔引用終り〕

意外に知られていませんが、この憲法の骨子を定めたのは「軍服を着た法律家」たちでした。米国の一流大学のロースクールを出て、法律家としてキャリアを築いていた人たちです。戦時に召集され、戦後東京のGHQに配属されたわけです。
憲法前文を起草したハッシー中佐は、ハーバード大学とバージニア大学で学び、弁護士や裁判官を務めていました。兵役に就いたのは1942年と遅く、中佐と言っても全然職業軍人ではありませんでした。
憲法案の骨子となる「ラウエル文書」を草したラウエル(またはローウェル)中佐は、ハーバード・ロースクールとスタンフォード・ロースクールに学んだ弁護士でした。兵役に就いたのは1943年です。
また、GHQ草案作成を実質的に指揮したケーディス大佐は、ハーバード・ロースクール出の弁護士であり、財務省に勤めていました。兵役に就いたのは第二次大戦が始まってからです。
つまり、ネトウヨが「今の憲法は、法律の素人であるGHQの軍人が9日間で急造した」などと言うのは、ガセにすぎません。
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A:>早期ね国会開設はなぜすぐには実現に至らなかったのですか?



回答もせずに揚げ足を取る気はありませんが、「馬に乗馬する」的な意味で日本語が変です。
(早期国会開設=すぐ実現に至る)

回答A:当時の日本では無理だった。(と政府の他の者達は思っていた)

質問者様の民主主義への認識が不明ですが、
私は、民主主義=(今後も)最良のシステムである とは思っていません。
それが多くの国で採用されている理由は、過去に試みられた他の全ての方法よりはマシであるからに過ぎないと思っています。

民主主義は国民を選びます。(高い民度が要求されます)
愚民に自由と権利を与えても、軍事独裁や警察国家に堕落したり、かえって内戦の原因になるだけです。


当時の日本政府も、以上の事は認識しており、議会と憲法については、明治政府内で↓のような意見の対立がありました。

大隈重信:議会を開いて憲法を定める。(憲法は民意で決めるべきだろ。)

伊藤や井上達:憲法を定めてから議会を開く。
《民主主義が定着していない状態でルール(憲法)も決めずに議会開いてもグダグダになるだけだろ。後で改正するにしても「枠」は必要だっちゅーの。その憲法創るだけでどんだけ大変だと思ってんだ!》

↑の状況下で、大隈氏は1881年に天皇に以下の上奏をしてしまいます。

1:1882年中に憲法を制定
2:議員内閣制の導入
3:二大政党制の導入

↑は、欧米が何十年(百年?)も苦労したボスキャラを、レベル1でいきなりクリアしようとするようなものです。

これらに対して、外国との差をわかっていた他の伊藤博文や井上馨達は、当然「できるわけねーだろ!」と反対しました。
しかし、政府に戻りたい板垣退助や、地主等の富裕層が大隈を支持して、世論が分かれました。

これによって大隈氏は政府内で浮いた立場になり、「北海道官有物払下げ事件」で免官され、伊藤博文達の意見が主流になり、憲法制定→帝国議会開会 となります。

憲法の内容については、当時の欧米と比較しても、国民の権利を尊重されたもので、野党からも大きな不満の出ない先進的なものでした。(その結果、議会は大荒れになったようです)
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>早期ね国会開設


って、何です?
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