【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

よく尾張兵、あるいは上方兵は弱いといわれますが、その出所つまり根拠は何なのでしょうか。
尾張は商業地区だからとか、地域的なことが書かれているものが多いのですが、同じ商業地区でも筑前兵が弱いなんて聞いたこともありません。

A 回答 (6件)

尾張兵の弱さは字の如くです。

尾張は終わり。うははは
うそです。商業で発展した土地ですので自然と商売感覚には優れて、戦いなどに向いていなかったと本でみた記憶があります。信長もその当たりは実感していたので、あらゆる戦略でそのあたりをカバーしていたみたいです。姉川の合戦でも、あまりの自国の兵の弱さに退却寸前までいったらしいですので、信長はこう呟いたと信長公記に書いてます。「尾張の兵は終わりだぎゃ」嘘ですw
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

こういう回答、嫌いではないです。
その名のとおり、「なんやねん」

やっぱ、商業地域だって事なんでしょうかねぇ・・・

お礼日時:2004/06/29 23:00

尾張兵というと織田信長の軍団になりますが、その真髄は「大兵をもって寡兵を破る」つまり敵より多くの兵を集めて集中的に運用する「集団戦法」にあります。


また個々の武将の力よりも武器を集中的に使うことによる均質化、今で言うファーストフードのマニュアル化などをいち早く取り入れております。
その為、個人の武勇としては大したことが無いと考えられていたと思います。
またプロの武士が出現したのも信長の影響で、従来の例えば武田信玄の軍団は農民を徴用して戦に出かけ、恩賞として土地や金を与えます。
それに対して信長の軍団は銭で雇われた専業武士が戦闘にあたり、最大の恩賞は・・・・お茶でした。
つまり軍功のある武士は茶道具を拝領する事が出来、その中でも抜群の働きをすると「茶会」を主催することが出来ますから、武将たちはお茶会を主催する権利を得るために死に物狂いで働き、有名な茶道具は一国に匹敵すると言われております。
これを踏襲したのがナポレオンで、彼の軍団も兵を集中的に運用することで敵を破り、軍功として金ぴかの飾り・・・勲章を贈りました。
これにより有限な土地の支配権を恩賞に与えることなく、名誉(お茶も勲章も同じ)を与えることで兵を掌握する、現代では当たり前ですが、面白い発送ですね。
この時代のユニークな傭兵を紹介しておきます。
「可児才三」--金のために戦場を渡り歩く、将にプロです。

参考URL:http://www.gokuh.jp/ghp/busho/bu_0005.htm
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

衆をもって寡を破る・・・孫子ですね。
確かに信長の戦闘を見ると、かなり孫子の兵法を取り入れています。
恩賞についても、孫子の「無法の賞を施せ」を実践しています。
しかし、この時代の文献などに「尾張兵は弱い」とか、書かれていた形跡が見当たらないのです。
いつ頃、どのようなところから「尾張兵は弱い」といわれるようになったのか、それが謎です。

お礼日時:2004/06/29 16:03

他の方たちと大して変わらないですが、尾張、上方はいわゆるあぶれ者=無頼のもの=無宿者が多かった。

これは、尾張は信長の楽市・楽座で人が集まった。その中には得体のしれない者=豊臣秀吉、滝川一益、明智光秀が集まった。中には特殊な能力を持っていて役に立つ人もいたが多くは無頼者で、これらは専門兵となっていった。従って、金稼ぎが専門なので少々の手柄よりもなるべく長く生きて稼ぐことを目的とした。従って、負け戦での逃げ足はとても速かった。また、同じ理由で他の国の兵隊よりも生存率は極めて高い。戦争は最後は金、物そして数が物をいうので、弱いがゆえに勝ち残っていったのです。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

生き残るために戦う。これは基本ですよね
農民兵は生き残るために必死で戦って、専門兵は生き残るために必死で逃げる・・・

なんとも言えない

お礼日時:2004/06/28 23:29

尾張は洪水が多く、農地が安定してないため、自然投機的な商業に農民も関心を抱く。


よって、商業の発達した地では、利にさとくなり、負けそうになると、ふんばりが効かない。
名古屋の旧日本陸軍第8師団も弱かったそうです(笑)
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

尾張に商業が発展したのは洪水よりも、むしろ津島の湊を抱えていたことによるのではないでしょうか。

お礼日時:2004/06/28 23:18

佐藤大輔氏からの受け売りですが



#1の方と同じでこの時代、貧しい国出身者ほど強兵である。
この時代の兵というのは多くは農民兵である。また、この時代の農業は当然全く機械化されておらず、相当な忍耐力、気力、体力が必要である。
領主に徴兵されて親、子どもを家においてきているため、基本的には戦が終わるまで忍耐強く戦う。
貧しい故、親子どもを養うため死ぬ気で働く。
教育レベルも低いため、強い者に命令されるとあまり疑問を持たずに戦う。

さて、この弱いと言われる尾張兵、上方兵は農民兵もいましたがいわゆる傭兵が多かった。
信長の影響が大きい。特に鉄砲を利用するようになって専門の鉄砲足軽じゃないとまともに統制がとれなくなっていった為という説もある。

傭兵なので領主様よりも自分の命が大事。
負けても死ぬ必要はない、案配が悪くなったら逃げる。
商業地域で教育程度も高い人が多いのでおかしな采配をふるうと反感を持つ。
農民兵にこのような人間が混ざっているので他の農民兵も同調する。
九州地方では傭兵よりも農民兵が主。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

なるほど農民兵と傭兵の違いですか・・・
さらに教養の違い、

ウーンなるほど・・・

お礼日時:2004/06/28 23:03

兵士の強さは、その国の豊かさと反比例関係にあるようです。



例えば、フランスとドイツの戦争では、ナポレオンのような
天才的指揮官が登場する、あるいはイギリスなどをまき込み
多国間戦争に持ち込むなどしない限り、たいていフランス
が負けています。

戦国時代に甲斐の武田軍団と越後の上杉軍団が強かったのも
同様で、武田信玄・上杉謙信といった指揮官が優秀だった
こと以外に、貧乏国ゆえ兵士が強かったという理由もあげ
られます。
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この回答へのお礼

早速の回答有難うございます。

確かに国の経済状況との関係はあるようですね。
でも、何でなのでしょうねぇ・・・

お礼日時:2004/06/28 20:04

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