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どうあるかという事実と、どうあるべきかという理想のどちらを優先させた方が良いかとか、或いは両立させる事が良いなどと言う事がここしばらくこのカテで論じられていましたが、私自身は、どうありたいかと言う観点が未だ語られていなかったようだったので、それについてご意見つのりたいと思いました。

どうありたいかと言う事が、どうあるかという事実を変化させ、或いはどうあるべきかと言う理想から人を解き放ち、地に足のついたものにするのではないかと思っています。

この、どうありたいかと言う事が、人にとっての針路となり、世の流れにあっても、目的地を見失わずにすむのではないかと思うわけです。

どうありたいかと言う人の望みについて、広くみなさんのご意見つのりたいと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

お礼ありがとうございます。



なるほど。

あるべき = 正しさ ではないかと考えています。
正しさは、何故それが正しいとされているのを
自分で守りつつ、自分の答えを出して行くことに
意義があるように思えます。

正しいのは正しくていいのですが、正しさを
闇雲に押し付けられた時に人は歪んで行くというのが
人間の元々持っている「どうあるか」だと感じます。

示されるものを受け取り反芻しながら血肉にするのか
押し付けられ反発するか、あるいは闇雲に信じるに走るか。

自分の、あるいはその人の過程で、いかようにも
変容するものだと思います。

どうありたいか・どうするのかを大切にし、どうあるのかを含めた
三本柱にしているのは、思考と現実の間(はざま)を埋める「過程」を
常に意識しているからですね。

inputとoutputに、強く必要とするからです。
これがあると、現実を抽象化し抽象化されたものを
現実に反映させるのが容易です。

人間がどうあるのは、1秒たりとも消えることはないので
どうあるのかに沿う、人間に寄り添うものが
どうなりたいか・どうするのかになると思うのです。


正しさは正しさでいい。
常日頃から、ゴリゴリ押し付けんなよってのが私の姿勢ですね(笑)

喧嘩も戦争も、たどれば押し付け合いから始まるのですから。
認めあって、そこから考えて行こうって言うのが
この先の時代は、強く必要ですよね。

自分の武器で自分が吹き飛ぶ時代なので、そう考えています。


あほなさん自身の制御装置をもっと理解すると、おそらくは
もっと多くの面白い答えを探せるのではないかと思います。

自分を知ることで、見ている世界はもっと広がります。
それだけは間違いないと、私は知っているに過ぎない。
どんな答えを誰が出してくるかは、いつも楽しみです(^ ^)

今回の話しも、大変有意義でした(^-^)
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この回答へのお礼

こちらこそ、大変ありがとうございました^_^
個人的な考えを晒してしまいましたが、親切に応じていただき、自分でも知らなかった自分の考えを掘り起こす事ができました。
正しさとは、規定ではなく迷いの無いことなのかなと、ふと思いました。とても感覚的なのですが。。

今日はよく晴れていて、近所の寺院の桜がわずかに綻んでいました。なにか、今日のように晴れたこころで、楽に生きていければ良いなと思えました。

お礼日時:2016/03/22 17:19

>正しさとは、規定ではなく迷いの無いこと



なるほど!(ポンと手を打つ)

押し付けられると規定
自らが持てば、迷いのない答え

表(文章にすれば)は一見同じに見えても、内情はまったく違う代物
一言にすると「在り方」って、奴でしょうかね(^ ^)

やはり素晴らしい♪

お陰様で、使い方に磨きをかけられそうです(^-^)
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この回答へのお礼

そう、在り方ってやつです(^ ^)

良いように受け取ってくださるので、磨いていない意見でも遠慮せず出すことが出来ました^_^

ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/23 14:31

「どうあるべきかという理想」とのことですが、理想と鋳物は夢のようなもので



必ずしも理想通りにならなければならないと考えると窮屈になりますね

理想は人々が皆哲学を持ち あることに関しては合意して共通目的を持って

(共通の目的というものがあるので)活き活きと生きていければいのではないでしょうか

理想という言葉をもう一度あこがれの言葉に再生したいものです。

どう在りたいかと言うと 仕事をして健康で真理を追求し 未来に存在を実現し続けたいです。

そして遠い未来に永遠への存在を実現したいです。
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この回答へのお礼

このQAでのやり取りで、あるべきとは理想の事であると思っていたのが、それは一つのルール、生き方の事ではないかと思う様になりました。人は、ルールに縛られるのではなく、ルールに従う事でより自由に振る舞います。
ただ、そのルールが活かされる諸条件、環境などが変化した事によって、そのルールも更新されねばならないのかなと。

ハルさんのおっしゃる共通の目的と言う部分に、共通の生き方、ルールというものを当てはめてみると、うまく解釈が通じるかなと。

健康は常にあるものではない事は、今の私にも身もって理解されることではありますが、以前は、一つの理想がある事によって、健康を維持していたのでは無いかと思いもします。若い頃、青空高く掲げた理想があった故に健康でいられたのではないかと。ニャンポコさんも仰っていますが、それが希望である事によって生き方を見失わないで済んでいたのでは無いかと思います。
年をとれば、それ相応に身を削りながら理想とはかけ離れた現実に身をおいて生きて行くのが殆どだと思います。その様な中で、本当はどうありたいのか、と自問自答する事が、あるべき理想の代わりに機能して、波間に浮かぶ船の様に、沈まない生き方を与えてくれるのでは無いかと。

永遠の存在とは、理想や希望と言った、言葉やイメージによって象られた物質ならざるものの事では無いかと。つまりは、永遠を抱きつつ有限を生きるのでは無いかと思います。

お礼日時:2016/03/22 14:18

お礼ありがとうございます。



確かに、そうですね。

人は型にはめなくとも「真似る=学ぶ」時点で、まずは型を真似る訳で
真似ながら理解して行く。
つまり人間は行動から、内容の理解に繋がるのだと思います。

真似ている時点で、守破離は始まっていますし
守破離も強制しなくとも、矛盾とぶつかり乗り越えて行くとき
自ずとそう言う道をたどることになるでしょう。

結局は身に付けたものを、その成長に合わせ更新する時期は訪れます。
守破離でさえ、人間の持つ自然の摂理だと思えます。

逸脱しなければ後は個性ですから、普通でいさせようなどと
最近の考え方から、はめなくていい枠にはめることで
自分で考えない、社会変化に合う柔軟性を持たない
成長や変化を嫌う固定観念や価値観を獲得していきます。

そう言う固定観念や価値観から、運動会のかけっこで手をつないで
全員が一緒にゴールする、威様な光景が演じられるのだろうと思います。


私が書く内容は、基本日々の検証からピックアップしたものであり
常に行動に起こせる、現実に繋げられるものとして
自分の中に持っています。

検証を丁寧にやっていけば、昔からの概念もどう使うかは
見えてきますし、切り口が違っていても矛盾も無く統一的に
使うことができるようになっています。


ついでですが 地肉=血肉 です(笑)

最近のように、何でもかんでも細かく強要し強要される傾向より
個人的には、内面はもっとおおらかな時に戻した方がいいように感じます。
内面の安定が、明らかに社会的変化に強い人間だと検証から出るからです。
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この回答へのお礼

内面の安定は、どう生きて来たかと言うことによって培われるのかなと思いました。
与えられたあるべき論ではなく、学びや守破離を自然に行って来た過程において、自ら紡ぎ出したあるべき姿というのは、それこそ血肉なっているのかなと。
あるべきというと、確かに凝り固まった印象も持っていますが、経験則と言う側面もあるでしょう。ハコブルさんも仰っていますが、あるべきとは安直に生み出され得るものではなく、経験と検証によって導き出される思考の産物の様な気がします。
太古、まだ人倫も科学も発達していない頃から、自然の定めの中で、人はどうあれば良いのかと思い寄せて、思い至った結論の一つに、あるべき論の原型があったのではないでしょうか。
今日、人間は自ら作り変えた環境の中で過ごしていますが、古から伝わるあるべき論が、何らかの制御装置として機能しているのではないかと思います。今でも、木を切るのに躊躇いを覚えたりするのは何故でしょう、畜養を残酷な事だと思うのは何故でしょう、人を無条件に忌み嫌うことを良しとしないのは何故でしょう、これらの基本的な人間の反応は、古くから培われて来たあるべき姿という像によって引き起こされているのだと思います。

太古と現代とを比べ、生き方のギャップにあるべき論がついて行けなくなった今、新たにあるべき論が創生される時期に来ているのかもしれません。どうありたいか、も、ここら辺に関わってくるのかなと。

お礼日時:2016/03/22 14:00

お礼とご協力を、ありがとうございます。



別の選択肢を、もう一度考えてもらうことに意味があったので
その結果は問いません。


私は、人間の根元的なところを理解しやすいのは
赤ん坊だと考えています。

倫理規範は、生まれてから獲得していくものだと思います。

赤ん坊が立つようになるのは、立つことを強制された訳でなく
話すのは話すのを強制された訳でなく、かと言って誰にも何もされずに
すっくと立てるとかペラペラ話せるようにはなりません。

赤ん坊は放置状態であれば、全くの動物のように育ちます。

つまり、人間が何かを獲得するには、まず見て真似て学ぶのだと思います。
その場合、内容は問わないのです。

暴力をふるわれ続けた子供は、暴力を学びます。
悪口を聞かされ続けた子供は、悪口を学びます。
優しさを受けてきた子供は、優しさを学びます。
適切な倫理規範を見てきた・受けてきた子供は、倫理規範を学びます。

学ぶことは元々が自由であり、そこで獲得したものを
その人がどう使うかは、本人の自由な選択だと言えるでしょう。
それが「人間がどうあるのか」の最初だと考えています。

見せること・それで接することより、強制・強要が終始行われる場合
人間は真逆に進みます。

つまり、倫理規範を押し付け続けられた子供は
倫理規範を守らない人間として、育つ可能性が高くなります。

重篤な犯罪を犯す者の多くは、放置か強制が強いところで
育った割合が高いのです。

倫理規範の他の選択肢は、自らが学ぶ。
必要に応じて、あくまでもその場の必要に応じて他の手段も使われる。
基本は、自らで学ぶこと。

そこに立脚したやり方は、あるいは周りの接し方は
言葉や態度で他者や自分を縛ろうとするより、その人の考えるやり方で
自ら見せることが、一番世の中にいい影響が出ると考えています。

縛るガチガチの倫理規範より、地肉の通った
人を見守ることができる倫理規範が私の好みです(笑)
ですから、私は自らもそうありたいと思い日々に乗せて過ごしています。

やり方は、人それぞれですね。


「どうあるのか」は大切ですが、「どうしているのか」が問題であり
内容が何であれ押し付けた時点で、それそのものが
「どうあるべきか」に変化しているのを多くの人間が
理解することができれば、それだけでも問題はかなり減ると思います。

人間は、できる限り自由で制限の少ない状況が伸びる元で
できる限り周りに制限を押し付けないことが
周りを活かせることではないかと考えています。
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この回答へのお礼

なるほど、カントアイさんらしい回答をいただけたかなと思います。

制限が最小限に修まっている状況が、人間にとっては一番伸びると言ったところなどに、そのらしさを感じます。
それとは少し角度の違う見方で、人間には最初、型が必要であり、制限がある程度適切につけられた状態の方が、後々その人の成長に役立つ、と言うものがあります。守破離というやつですね。型にはめるやり方です。私の気持ちとしては、カントアイさんの考えに一票投じたいですね。
と言うのも、現代は時代の流れが速くて、型にはまったやり方だと適応出来ないのではないかと思うからです。
制限を最小限に留めるやり方は、その都度その都度当人が課題にぶつかり、その都度にその解決を見て、定式化していない自己像や人格を形成して行くのに良いのではないかと。自ら学ぶと仰られる通りですね。
型にはめるやり方は、一見効率が良い様ですが、現代には適さないでしょう。もっと時間がゆっくりと流れていた時代ならともかく。

お礼日時:2016/03/21 02:46

#8です。



>正しい事実認識とは一つの理想であり、「あるべき」に似通ったものではないでしょうか。

ご存知でもありましょうが、カントに言わせると、たしか、人間が「物自体」を正しく認識することはできないのだそうです。
◎正しい事実認識◎
も同様で、視点が異なるわけですから、本当に正しいか否かは、理想の領域に留まる性質のものなのかもしれません。
ただ、そうであるなら、その場合は、「正しい事実かどうかは決定できない」ということ自体が正しい事実認識になると思います。
これが案外難しいのは、人間(だけに限りませんが)は、あくまで自己利益に即するような判断をしてしまいがちな生き物だからなのでしょう。
このように妥協した判断で「どうあるか」が認識された場合、「どうあるべきか もどき」が生まれるのだと思います。
「どうあるか」の見極めは難しいはずなので、「どうあるべきか」が安易に大量生産されることへの留意は必要になるでしょう。
とはいえ、動かしがたい「どうあるか」は存在するはずで、そこから導かれるところの「どうあるべきか」は信頼できるように思われます。

「どうするか(自我)」を決定(選択)する際においては、「どうあるか(事実)」を正しく認識した上で、「どうありたいか(本能)」と「どうあるべきか(超自我)」のバランスを取る。
「どうあるか(事実)」が矛盾を含んでおり正しく特定できない場合なら、矛盾を含んでいること自体を「どうあるか(事実)」として判断することが、
◎正しい認識◎
になる。
とりあえずのところ、このように考えます。
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この回答へのお礼

そうですね^_^
分かりやすくお答えいただけたかなと思います。良くまとめていただけたかなと。

一つ付け加えるなら、どうあるかと言う事実認識は、必ずしも科学的であるとは考えられないと言う点でしょうか。むしろどうあるかと言う事実は、人間の生活実感に多く伴っているのではないかと。例えば自分の有り様はどうあるのかと省みた場合は、別に科学的知識や見方を必要とする訳ではありません。ああ、あの時私には勇気がなかったとか、今の私は怠惰だなとか、或いはあの時よく熟考したから今の良い結果を得られているとか。
そして、こう言った取り立てて科学的では無い見方を、社会についても適用した場合、より身近な形でその状況が把握出来るのではないかなどとも思ったりします。

お礼日時:2016/03/21 02:26

どうあるべきか、どういう自己像を描くにかにもよるのですが、この質問の場合、私は自己像は経験により、もたらせるものではないかと思うのです。


そして、確かに経験主義から脱却を図るために、難しい、もしくはできない場面が生じた場合、できないではなく、待つ意味を加え、事後(後に残しておく)
そしてメインは、自分がどうあるべき姿を描くかどうかなのです。
経験主義から申し上げますと、「経験という概念には理性がない、しかし理性は大事だ」という事です。
全てを分かろうとする必要はないのですが、知れる事も全てを知る事ができないというのです。
ここでいう理性とは考え方、概念の事です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます^_^

ポイントポイントを示していただけたのかなと思います。

例えば虐められたと言う経験があり、しかし自分は虐めないでおこうという結論に至った場合、彼の自己像は正しく形成されたのだと見れます。

逆に、虐められたと言う経験から、これからは虐められない様にしよう、という判断が導かれた場合は、彼は虐めを超えられなかったと言えると思います。

完璧である必要はないのですが、自身を活かす道というのはあるのであり、それを選べるのか、と言う事が問題の焦点になるかなとご回答を読んで思いました。

お礼日時:2016/03/19 16:18

お礼ありがとうございます。



ちょっとしたチャレンジなのですが、よろしければお付き合い願います。

どうあるべきかの倫理規範の、押し付け。
>内的に倫理的なものが生じればよいのですが、、。

これ以外の選択肢は、無いでしょうか?

論理的考察で無ければ、過去・経験から思い描いてみるのは
いかがでしょう?
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この回答へのお礼

経験から倫理的規範を学べるか、と言う事でしょうか?

ふと思いついたのは、子供時代のことです。昆虫などを虐めていた時代から、少し成長すると、その様な事をしては昆虫がかわいそうだという気持ちが芽生えます。
強いて言えばこの様なものが、倫理規範の原型でないかと考えました。

昆虫を虐めたと言う経験が過去になければ、昆虫に対する気持ちの投影は無く、昆虫を虐めてはならないという心のルールも生まれないのかもしれません。

同級生をいじめる事にしても、その様な事は悪であるとする心のルールが何時か形成されるのが普通の発達であり、大人の職場にいじめ問題などが発生する場合は、発達が遅れたり歪んだりしている職員がいると言うのが事実となると思います。なぜその様な未発達になってしまったのかは、生育環境や生来のものがあるかもしれませんが。

しかし、話は変わりますが、植民地を増やしたり、人を捕まえて奴隷にしたり、剰え虐殺したりする事は、人間としての精神が極めて未発達であると見る事もできる訳です。

この様な恥辱の人類史を経て、やっと人類社会が人倫を獲得したと言うのなら、それは遅過ぎると言うものであり、子供にも劣る情けない話であるとも思えます。大昔から如何に生きるべきかと言うのは示され続けても来たのに、人類はそれを理解する事ができなかったと言うのが事実なのでしょう。いや、それによっては自身の本能を御しきれなかったと言った方が良いでしょうか。

今よく言われるブラック企業や社畜の話にしても、生きる為なら何をしても良いと言う誤った価値観が明に暗に認められているからではないかと、ふと思ったりしますね。だから本能の赴くままに社会全体が押し流されてしまう。

お礼日時:2016/03/19 16:08

#8です。


すみません、大事な点について訂正があります。

×
「どうすべきか(自我)」


「どうするか(自我)」

このようにお読みくださるようお願いします。
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この回答へのお礼

了解です^_^

お礼日時:2016/03/19 15:18

たしかに、「どうありたいか」、つまり本能的欲求の部分が抜け落ちていたのかもしれません。


そもそも、「どうあるか(事実)」は事実認識に関することであり、「どうあるべきか」や「どうありたいか」という人間心理と同列に論じようとするとズレが生じてしまうのではないか、という気もしてきます。
今回のご指摘を受けて改めて考えてみたのですが、心理としては、まず、おっしゃるように、「どうありたいか」という本能が最初に兆すだろうと思います。(動物などは、ここに収束する)
それに対して「どうあるべきか」という超自我が目を覚ます。単に本能的欲求のみでは満足しないようにできているわけで、こうした超自我性は人間にアプリオリに備わっているものと言えるでしょう。
このようにして発生する自己内でのせめぎあいを調整するのが自我であり、心理学的には社会に対して自らを表明する役割を背負っているとされています。これは「どうすべきか」と表現して良さそうです。
「どうありたいか(本能)」⇒「どうあるべきか(超自我)」⇒「どうすべきか(自我)」。
こうして人間は、常時(無意識的な場面も含め)あらゆる場面で選択を迫られつつ生きているのでしょう。

「どうありたいか」という本能の段階では、当然ですが「どうあるか」という事実は無視(または軽視)されますから、正しく認識されることもありません。
そして、「どうあるべきか」を検討する段階においても、「どうあるか」を正しく認識しないなら、安易な「どうあるべきか」が導かれてしまう危険性がある。
そうならないためには、(散逸構造などを含めた科学的知見によって)「どうあるか」を正しく認識する必要がある。
およそ、こうした流れになるのではないかと思います。
「どうすべきか(自我)」を選択し続けざるを得ないわたしたち人間にとっては、「どうありたいか(本能)」と「どうあるべきか(超自我)」の間の確執は避けられないもののようです。
「どうあるか」を正しく認識することは、たしかに極めて重要なことです。また、正しく認識できていないために、「どうあるべきか もどき」が氾濫している側面が現在の世界にはあることも事実。
しかし、あくまで「どうあるべきか(超自我)」を探るための手がかりのひとつとして、「どうあるか(事実)」を正しく認識する必要がある、というのが事の本質ではないだろうか、という気はしますね。
因みに、「どうありたいか」を本能としましたが、「自我的本能」という意味も含めています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます^_^

まず、どうあるか、と言うスタンスにおいて、事実を正しく認識することは目標ではあれど、それは極めて難しいものだと思われます。曰く、世界は深く広く、分からないことだらけであり、可能なのは、多様な認識を積み重ねて複合的な世界像を形成する事であり、それは人の世界を広げ、また選択肢を増やし、確度の高い判断を促すものでありえど、正しい事実認識であるとまでは言えないと思われます。正しい事実認識とは一つの理想であり、「あるべき」に似通ったものではないでしょうか。

どうありたいかを、本能的なるものと位置付けた場合、欲求、自我、超自我の関係は仰る様になるかと思います。常にどうするかと言う選択に迫られている自我は、どうありたいかとどうあるべきかを左右に見て、事実認識を鑑みつつその葛藤を超えなければならないという荷を背負っております。私などは、どうありたいかは自我の領分であり、どうするかを決定するファクターと思っていて、本能の領分とは考えていなかったのですが、本能の部分も実は解明すべき謎の宝庫でもあり、そこからどうありたいかが湧出しているとも考えられますね。その本能が、どうあるかという明見の対象である事を考えると、人間とは実に、複雑な多重構造をしている事が想像されます。本能、自我、超自我と言う分類は、明快で分かりやすい一つの人間理解の型として有用であると同時に、人類を理解するその他のモデルが沢山あるはずで、それらを同時にクリエイトして行く必要があると思われます。

ハコブルさんが、どうありたいかを自我的本能でもあると仰る点は、どうありたいかと言う望みの由来として、着目すべき点であるかと思いました。

お礼日時:2016/03/19 15:41

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