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どうあるかという事実と、どうあるべきかという理想のどちらを優先させた方が良いかとか、或いは両立させる事が良いなどと言う事がここしばらくこのカテで論じられていましたが、私自身は、どうありたいかと言う観点が未だ語られていなかったようだったので、それについてご意見つのりたいと思いました。

どうありたいかと言う事が、どうあるかという事実を変化させ、或いはどうあるべきかと言う理想から人を解き放ち、地に足のついたものにするのではないかと思っています。

この、どうありたいかと言う事が、人にとっての針路となり、世の流れにあっても、目的地を見失わずにすむのではないかと思うわけです。

どうありたいかと言う人の望みについて、広くみなさんのご意見つのりたいと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

理想と事実との距離感が近ければいいけど、離れ過ぎだと理想も空想になっちまうから気を付けないとな。

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この回答へのお礼

それはそのとおりですよね。理想が現実離れした飛躍を必要とするものであれば、事実とのギャップに苦しむことになります。
気をつけたいところですね^^

お礼日時:2016/03/17 15:54

私見。



「どうあるかという事実」:現状認識

「どうあるべきかという理想」:観念的理想

「どうありたいか」:妥協的到達点

「理想」は、あくまでも理想ですので、「実現してはいけないもの」です。
(実現したら、それは理想ではなかったと、「証明」してしまう。)

「現状」は、「出発点」(現状把握)で、理想との「距離」を測る上で、重要で、
これが、「全ての始まり」(スタート地点)

「理想」が「到達不可能」を前提とすると、「現実的解決」が必要になるので、
妥協的な到達点としての「どうありたいか」を、「実現可能領域」と設定して、
「努力目標」とする。

EX)
1)理想:「酒を止めよう」
2)現実:「ほぼ毎日、晩酌」
3)努力目標:「1週間に2回の休肝日」

みたいな。
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この回答へのお礼

楽しい例までつけてくださり、よくまとまった回答で分かりやすかったです^^
意外だったのは、理想の位置づけが、実現してはいけないものであるという点です。なるほど、そういう観点もあるのだなと目からうろこでした。
確かに、そのように実現してはいけないものであるという位置づけを理想に施せば、それに固執して躍起になることもないし、理想があっても平常通り過ごせるのかなと思います。

ご回答有り難うございました^^

お礼日時:2016/03/17 15:53

唯一の価値基準は、「自分が喜びを感じるか(精神的充足量の最大化)」


だけだ。
自己認識や環境認識の不完全さ、そこに生じる自己中心性と、それを
修正する社会的他律性によって、自己の喜びと社会的必要は乖離する。
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この回答へのお礼

ふむ。。
ご回答有り難うございます。
なるほど、自己認識や環境認識が進むほど、社会的必要を満たすこととと自己の喜びは一致するということですね^^

お礼日時:2016/03/18 01:25

こんばんは。



どうあるか(現状)
どうありたいか(理想)
どうするか(手段)

今の私には、「どうあるべきか」は持ち合わせが無いようです。
手放してしまったからでしょうか。
無くても困ってないので、大丈夫でしょう。

たとえば
(現状) 太っている
(理想) 健康で活動的
(手段) 生活の見直しからの、自分が自分への全面的サポート

おかげさまで、体調が良くなり自分のペースで
ゆっくりでも着実に前進しています。


「どうあるべきか」は、「自分が」ならまぁいいのですが
「他者がどうあるべきか」を問えば、理想の押し付けになりそうです。

自分の行動を作らずして、他者に求められもせず
「どうあるべきか」を押し出すのは、ちょいと厳しいですよね。
どうあるべきかを自分に押し付けても、厳しいですけどね。

「どうあるべきか」は、本当に必要でしょうか?

現状や様々な情報から割り出したものは、ある程度の目的地として
自分が進む方向性でしょう。

そこに私と関わる他者を巻き込むなら、巻き込むだけの自分になることが
私の目的地の一つとして設定し進むなら、無駄な強要は削げます。

個々の「どうありたいか」が、いい感じに落とし所を見極めることで
環境としてのよき集団形成に繋がると考えています。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます^^
どうあるべきかというのは、倫理規範のようなものだと思っています。大昔より言われている、人を殺してはならない、盗んではならない、などの倫理規範は、しばしば守られず、人類には悲惨な災厄が降り続いてきました。そこで、人間とはそもそもどうあるものなのかという事実を見ることにより、人類がこの簡単な倫理規範すら守るのが難しい存在であることを改めて見て、また、ではどうすれば人類は幸せになれるのかを、その現実を見定めた上から模索することなどが必要なわけです。
ですから、そう言う意味では「どうあるべきか」と言う観点は昔から今より、ずっと必要とされてきたのだと思われます。
現代に至って、価値観の多様化が良しとされ、仰るような個々の「どうありたい」かが、落とし所を得てゆくことで良い社会も生まれるという事の、前提としての、「あるべき」即ち倫理規範というものが存在していると思われるのです。

世界には、この倫理規範がまるで顧みられないケースも多々有り、個々の「どうありたいか」まで漕ぎ着けない事もしばしばです。

従って、どうあるかという事実を見ること、どうあるべきかという倫理規範、つまり精神的な社会基盤を放棄しないこと、そしてどうありたいかという望みによって生きていくこと、このように、どうあるか、どうあるべきか、どうありたいか、は、三者三様に必要とされているのではないかと思う次第です。

お礼日時:2016/03/18 01:42

お礼ありがとうございます。



おっしゃる事は、ごもっともです。

Q 人はどうあるのか?
A 押し付けられたら反発したくなる。

どうあるべきかのやり方では、倫理規範を押し付けている。

そこの解決ではないかって事です。
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この回答へのお礼

ふむ。。
ご回答ありがとう御座います。
押し付けるのではなく、内的に倫理的なものが生じればよいのですが、、。
中々それも難しい様です。

お礼日時:2016/03/18 13:53

理想というものは、そもそも人間に夢と希望を与えることのできる


崇高な存在であると思います。

日本が、戦後の焼け野原から大復興できたもの、夢と希望があった
からといっていいでしょう。また、それがなくなれば、利己主義の
迷路に入り込むことだろうと思います。現代社会の半面は、現実に
エゴの暴走が始まっていると私は思っています。現実社会の様々な
断面、特に若い世代、女性にその傾向が顕著に顕れていると見てい
ます。

また、半面は、民主的な方向へ進んでいることも事実だと思います。
これまでの日本の歴史を俯瞰してみると、権力者が民衆の真摯な心
を利用してきたといって過言ではないでしょう。
時代の流れとして、それが馬鹿々々しいので、もう我々は我々で思
うように生きてゆく、となっているようです。

私は、民主主義の「進歩」であるとみています。

しかしながら、あほなさんが仰る、「どうありたいか」というものを
人々はどれだけ持てているのか?という疑問をもっています。

要するに、民衆の自立が始まりつつあるのだが、民衆自身が、自分た
ちの力で幸せを作ってゆく方法が分かっていなくて、今まで通り、力
を持った人間たちに頼り切っていることに気が付いていない、そうい
うことだろうと思います。

「どうあるべきか」ということを、押し付けられているとしか思えない
のは、そういうことであると思います。

cyototu氏は、さすが本職というべきでしょうか、堂々たる理論ですね。
(まだ全部読んでいないのですが)
しかし、「どうあるのか」という事実から、更に進歩できるかというと
上記の理由から、難しく、「どうあるべきか」を手放すことは、まだ早
いと思います。
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この回答へのお礼

ニャンポコさん、いらっしゃいませ。

私は、理想とは一面、我の望むところに反する場合があると思います。例えば、とても嫌いな奴がいる、死んで欲しいと思う、しかしその様な思いを抱く事は人のあるべき姿ではない。或いはまた、彼奴は良い所に住んでいる、奪ってでもその土地が欲しい、しかしその様な蛮行は人のあるべき姿ではない。
この様に、原始的な欲望を制するものとして、あるべきという指南は機能していると思うのです。

また、ニャンポコさんのおっしゃる様な、崇高なものとして想い描かれる理想というのもあるでしょう。戦後復興のモデルがどの様にして実現したのか私は知らないのですが、緊急的に流布された、日本人を変えるアメリカの戦略的思想と、軍事力の放棄が経済にとっては非常に力になったのだと思います。焼け野原の中で、どの様な夢や希望が生まれたのか、当時の世の中に広がっていた空気と言うものがどんなものであったのか、検証するのも良いと思います。
少なくとも、戦争が終わったという事自体が、多数の国民にとっては安堵と希望であったでしょう。

話は変わって現代、IT環境の進歩により、従来のマスコミによる世の中の空気の操作が機能しなくなり、新たな価値観の創造と共有が今までに無い形で進んでいます。
その様な中で、自分自身の考えと言うものが必要とされてきており、それを育む環境も整ってきたという事では無いでしょうか。若者や女性がその様な新しい潮流に敏感であると言うのは、わかる気がします。それが自分勝手と映るのか、自主性の発露と映るのか、両方あるでしょう。どあるかと言う事実、どうあるべきかと言う理想、どうありたいかと言う望み、すべてを複合した道を模索しながらの、歩みであると思います。

猪突さんの論は説得力がありますね^_^
いつも楽しく勉強させていただいています。人間にはわからない事の方が多いとし、どうあるかと言う事実の蓄積がやがて今ある諸問題を解決する道を湧出する鍵になると言う考えには賛同できます。
どういう事かと言うと、どうあるべきかと言う論は既に精錬されており、十分に発達している考え方であるのに対し、どうあるかと言う事実に関する知見は、まだまだ未発達である故に開拓する余地が大きく、またそれを開拓する事で生じるゲインも大きいだろうという見做しが有力なのです。
私はその様に理解しています。

お礼日時:2016/03/18 14:52

たしかに、「どうありたいか」、つまり本能的欲求の部分が抜け落ちていたのかもしれません。


そもそも、「どうあるか(事実)」は事実認識に関することであり、「どうあるべきか」や「どうありたいか」という人間心理と同列に論じようとするとズレが生じてしまうのではないか、という気もしてきます。
今回のご指摘を受けて改めて考えてみたのですが、心理としては、まず、おっしゃるように、「どうありたいか」という本能が最初に兆すだろうと思います。(動物などは、ここに収束する)
それに対して「どうあるべきか」という超自我が目を覚ます。単に本能的欲求のみでは満足しないようにできているわけで、こうした超自我性は人間にアプリオリに備わっているものと言えるでしょう。
このようにして発生する自己内でのせめぎあいを調整するのが自我であり、心理学的には社会に対して自らを表明する役割を背負っているとされています。これは「どうすべきか」と表現して良さそうです。
「どうありたいか(本能)」⇒「どうあるべきか(超自我)」⇒「どうすべきか(自我)」。
こうして人間は、常時(無意識的な場面も含め)あらゆる場面で選択を迫られつつ生きているのでしょう。

「どうありたいか」という本能の段階では、当然ですが「どうあるか」という事実は無視(または軽視)されますから、正しく認識されることもありません。
そして、「どうあるべきか」を検討する段階においても、「どうあるか」を正しく認識しないなら、安易な「どうあるべきか」が導かれてしまう危険性がある。
そうならないためには、(散逸構造などを含めた科学的知見によって)「どうあるか」を正しく認識する必要がある。
およそ、こうした流れになるのではないかと思います。
「どうすべきか(自我)」を選択し続けざるを得ないわたしたち人間にとっては、「どうありたいか(本能)」と「どうあるべきか(超自我)」の間の確執は避けられないもののようです。
「どうあるか」を正しく認識することは、たしかに極めて重要なことです。また、正しく認識できていないために、「どうあるべきか もどき」が氾濫している側面が現在の世界にはあることも事実。
しかし、あくまで「どうあるべきか(超自我)」を探るための手がかりのひとつとして、「どうあるか(事実)」を正しく認識する必要がある、というのが事の本質ではないだろうか、という気はしますね。
因みに、「どうありたいか」を本能としましたが、「自我的本能」という意味も含めています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます^_^

まず、どうあるか、と言うスタンスにおいて、事実を正しく認識することは目標ではあれど、それは極めて難しいものだと思われます。曰く、世界は深く広く、分からないことだらけであり、可能なのは、多様な認識を積み重ねて複合的な世界像を形成する事であり、それは人の世界を広げ、また選択肢を増やし、確度の高い判断を促すものでありえど、正しい事実認識であるとまでは言えないと思われます。正しい事実認識とは一つの理想であり、「あるべき」に似通ったものではないでしょうか。

どうありたいかを、本能的なるものと位置付けた場合、欲求、自我、超自我の関係は仰る様になるかと思います。常にどうするかと言う選択に迫られている自我は、どうありたいかとどうあるべきかを左右に見て、事実認識を鑑みつつその葛藤を超えなければならないという荷を背負っております。私などは、どうありたいかは自我の領分であり、どうするかを決定するファクターと思っていて、本能の領分とは考えていなかったのですが、本能の部分も実は解明すべき謎の宝庫でもあり、そこからどうありたいかが湧出しているとも考えられますね。その本能が、どうあるかという明見の対象である事を考えると、人間とは実に、複雑な多重構造をしている事が想像されます。本能、自我、超自我と言う分類は、明快で分かりやすい一つの人間理解の型として有用であると同時に、人類を理解するその他のモデルが沢山あるはずで、それらを同時にクリエイトして行く必要があると思われます。

ハコブルさんが、どうありたいかを自我的本能でもあると仰る点は、どうありたいかと言う望みの由来として、着目すべき点であるかと思いました。

お礼日時:2016/03/19 15:41

#8です。


すみません、大事な点について訂正があります。

×
「どうすべきか(自我)」


「どうするか(自我)」

このようにお読みくださるようお願いします。
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この回答へのお礼

了解です^_^

お礼日時:2016/03/19 15:18

お礼ありがとうございます。



ちょっとしたチャレンジなのですが、よろしければお付き合い願います。

どうあるべきかの倫理規範の、押し付け。
>内的に倫理的なものが生じればよいのですが、、。

これ以外の選択肢は、無いでしょうか?

論理的考察で無ければ、過去・経験から思い描いてみるのは
いかがでしょう?
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この回答へのお礼

経験から倫理的規範を学べるか、と言う事でしょうか?

ふと思いついたのは、子供時代のことです。昆虫などを虐めていた時代から、少し成長すると、その様な事をしては昆虫がかわいそうだという気持ちが芽生えます。
強いて言えばこの様なものが、倫理規範の原型でないかと考えました。

昆虫を虐めたと言う経験が過去になければ、昆虫に対する気持ちの投影は無く、昆虫を虐めてはならないという心のルールも生まれないのかもしれません。

同級生をいじめる事にしても、その様な事は悪であるとする心のルールが何時か形成されるのが普通の発達であり、大人の職場にいじめ問題などが発生する場合は、発達が遅れたり歪んだりしている職員がいると言うのが事実となると思います。なぜその様な未発達になってしまったのかは、生育環境や生来のものがあるかもしれませんが。

しかし、話は変わりますが、植民地を増やしたり、人を捕まえて奴隷にしたり、剰え虐殺したりする事は、人間としての精神が極めて未発達であると見る事もできる訳です。

この様な恥辱の人類史を経て、やっと人類社会が人倫を獲得したと言うのなら、それは遅過ぎると言うものであり、子供にも劣る情けない話であるとも思えます。大昔から如何に生きるべきかと言うのは示され続けても来たのに、人類はそれを理解する事ができなかったと言うのが事実なのでしょう。いや、それによっては自身の本能を御しきれなかったと言った方が良いでしょうか。

今よく言われるブラック企業や社畜の話にしても、生きる為なら何をしても良いと言う誤った価値観が明に暗に認められているからではないかと、ふと思ったりしますね。だから本能の赴くままに社会全体が押し流されてしまう。

お礼日時:2016/03/19 16:08

どうあるべきか、どういう自己像を描くにかにもよるのですが、この質問の場合、私は自己像は経験により、もたらせるものではないかと思うのです。


そして、確かに経験主義から脱却を図るために、難しい、もしくはできない場面が生じた場合、できないではなく、待つ意味を加え、事後(後に残しておく)
そしてメインは、自分がどうあるべき姿を描くかどうかなのです。
経験主義から申し上げますと、「経験という概念には理性がない、しかし理性は大事だ」という事です。
全てを分かろうとする必要はないのですが、知れる事も全てを知る事ができないというのです。
ここでいう理性とは考え方、概念の事です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます^_^

ポイントポイントを示していただけたのかなと思います。

例えば虐められたと言う経験があり、しかし自分は虐めないでおこうという結論に至った場合、彼の自己像は正しく形成されたのだと見れます。

逆に、虐められたと言う経験から、これからは虐められない様にしよう、という判断が導かれた場合は、彼は虐めを超えられなかったと言えると思います。

完璧である必要はないのですが、自身を活かす道というのはあるのであり、それを選べるのか、と言う事が問題の焦点になるかなとご回答を読んで思いました。

お礼日時:2016/03/19 16:18

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