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「物理的宇宙とシンボル的宇宙を対置し、前者を実在、後者を幻想と見なす発想には、社会的な事物を実在と認めない偏向が窺えます。」

 やすいゆたか「シンボルを操る動物―カッシーラーの人間観」より

この一文が理解できません。なぜシンボル的宇宙を幻想とみなすと、社会的事物も幻想になるのですか。

                   

A 回答 (3件)

ごく簡単に説明します。



カッシーラーの根本的な考えというのは、人間を「シンボルをあやつる動物」とみなしたことです。

人間の感覚器官は、単にアンテナのように外界からの情報を集めてくるだけのものではなく、「シンボル」としてものごとをとらえ、意味を与えながらその情報を取りこんでいる、というのです。

たとえば道を歩いていて、一本の木ぎれを見つけたとしましょう。
子供なら、それが「剣」の意味を持ち、キャンプをしている人なら、かまどにくべる焚きつけの意味を持ち、木彫りをする人なら、そこから自分が掘り出す像が見えてくるかもしれません。木の研究をしている人なら、その種類に目が向き、もとあった「木」の状態に想像力が及ぶだろうし、道の整備をしている人なら、通行の「障害」として、排除すべき対象とみなすでしょう。

物理的にいうならば、「木ぎれ」は「木の断片」以上のものではありません。
けれどもシンボルとしてものごとをとらえる人間にとっては、「木ぎれ」は、できあがった現実としての木ぎれではなく、目の前の現実から離れて、新たに形成されるべきもの、可能なもの、全体の一部としてあるものです。

シンボルというのは「世界がなんであるか」ではなく、そこから離れて「何でありうるか」と問うものである、ということができます。
シンボル的宇宙というのは、「それが何でありうるか」という世界であると言い換えることができるでしょう。

そうしてこれを「幻想」であるとするなら、「剣」も幻想、「焚きつけ」も幻想、「木全体のイメージ」も幻想、「障害物のない道」も幻想ということになり、「木ぎれ」以上の認識一切を排除しなければならないということになります。

これが「木ぎれ」ならまだいいのですが、たとえば「椅子」にせよ、「眼鏡」にせよ、わたしたちの身の回りのほとんどのものは、「目的」に沿ってそこに配置されたものであるわけですから、その意味を取り除き、「物理的存在」に限定してしまうと、椅子を「そこにすわるもの」と捉えるわけにもいかず、眼鏡を「かけて見えやすくするもの」とみなすわけにもいかない。

そんなことは不可能なのですが、仮にシンボルの作用を取り除いてしまうと、わたしたちを取り巻く「社会的事物」は、意味の支えを失ってしまい、ばらばらになって崩壊してしまうのです。
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より一般的に、物理的宇宙を自然科学、シンボル的宇宙を


社会科学と言い換えます。さて、世界の法則を扱う自然科学と
人間の法則(心理)を扱う社会科学の違いは何でしょうか?




自然科学はすでに科学的観測により確定的な公理・公式が導き出されており、
変数に実測値を代入するだけで、精度の高い未来予測が可能です。
この角度と力でボールを投げた時に届く距離は?なんて問題は
簡単な計算でもかなりの精度をもって予測可能ですよね。
(もちろん厳密には抵抗などの変数の不足によりわずかな誤差が生じますが。)





社会科学分野はどうか?まず物理のような特定の"系"を設定することが
できません。確定的な未来予測などほぼ不可能なのです。
一例として行動分析学を考えると話はシンプルです。
観測対象が観測基準を知っていればそれだけで機能しなくなります。

頻繁に足を組みかえる動作が不安をあらわす、
といった一般的な傾向を導くことならばできます。これは
逆に言えば、見られる側がわざと足を組みかえるだけで
観測者に誤った情報(観測対象は不安を感じている)と
思わせることが可能になるのです。


人間の心理を扱った学問全般は、こういった情報の操作が可能です。
もちろん同じく人間の心理を扱った学問である哲学や経済学だってそうです。
経験によって感じ方の異なる事物に対して"一般的な人間の心理"を論じることに
何の意味があるのか?こういった発想の下では、社会科学分野は
もはや幻想と言っても差し支えないのではないでしょうか。












さて、以下は余談です。
突飛な感想に思われるかもしれませんが、これはとても日本的な発想だなぁと
感じました。というのも、日本では"社会科学"の研究者の立場が
ものすごく低いんです。あるいはやすいさんも
こういった現状を問題視しているのかな?



それでも何故、西洋でこういった社会科学が発展したのか。
これは統一国家が形成されなかったこと。
そして安定的な政権が存在しにくかったことが原因ではないかな?と考えます。
こういった情勢ではより強い集団を造るために、社会そのものを分析、
あるいは操作する論理が必要となるからです。



一方、福沢諭吉がアメリカの簿記教科書を翻訳した本「帳合之法」という
日本での会計学の始祖とも言える本があるんですが、その端書に
「金持ちは自分を卑下して勉強しようとしない、学者は金儲けを馬鹿にして
これを学問と思っていない」という趣旨の文が書かれています。

このように、日本人は江戸時代の終わりまで社会科学を学問とすら
思っていなかったようです。これは、安定的な長期政権・宗教的なシンボルが
既に存在していてかつ、対立構造を有していないことが原因でしょう。
一見戦争してても、考えが同じだったりするんですよね。
(私はチキンなので、あえて彼らへの批判は曖昧に済ませておきます・・・)
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シンボル的宇宙というのは個人の頭の中の概念とすれば、それは幻想といえるのではないでしょうか。

幻想も個人の中に実在します。社会的事物も個人個人の中にしか実在しません。一万円札は羊は紙として食べます。神社のお供物をネズミは庶民の食事と同じように食べます。人間以外の生物にとって実在しないものは幻想なのではないでしょうか。
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