dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

人間、幸せになると、いろいろ周辺も好転しだし、逆に不幸に陥ると、さらに追い討ちをかけるような事態になるのは何でなんでしょうか?
なぜ、サーモスタット機能が働かないのでしょうか。幸せへの傾斜不幸への傾斜は急で、容易にイーブンな状態を経由して行ったり来たりできない。その不合理さはどういうことなんでしょうか?

具体例:
いいことがある→表情が明るくなる→周りが寄ってくる→人生がより容易に楽しくなる
わることがある→表情が険しくなる→周りから敬遠される→・・・

A 回答 (10件)

う~ん…;


多分、質問者さんが聞きたいのは
(理想かもしれないけど)【不幸な人間はセーフティロックが掛かり、幸福な人間はより幸福になる】
というシステムに何でならないのか?
という事ではないでしょうか?

(現状)
【不幸な人間はより不幸になり、幸福な人間はより幸福になる】

恐らく、物理的・生物的な問題…といより単純な利純論ではないでしょうか?
つまり、「人の不幸は密の味」という言葉もあるとおり、

・人の不幸→誰かの幸福
・誰かの不幸→人の幸福

となる為ではないでしょうか?
個人的に見ていて、「株価の変動」に似てるな~と思いました。
株価も急落すればどんどん下がります。
逆に底辺まで行くと、その状態が長く続き、上昇し始めるとどんどん上昇していきます。
むろん、谷あり山ありですが、最終的に「社会全体」で「何十年」という長い視野で見ると、常に上へ向かって株価はグラフを描いてます(社会が発展していくので)。

つまり、社会は個人(企業)の損得を重視しておらず、「社会全体の発展」を目的としています。
もし、「誰かの不幸が他人の蜜(幸福)」になるのであれば、これを阻害(安全弁)が働くのは、個人にとってはいいかもしれませんが、社会にとっては好ましくない、のではないでしょうか?
…と、考えました。
…個人的に、ここにヒントがあるのではないかと;
    • good
    • 0
この回答へのお礼

今の人間一般のレヴェルでは、相対主義でしかありませんから、その価値観で行けば、他人の不幸が自分の幸福に必要なのでしょう。これが、他人の幸福こそ自分の幸福であるという、うわべだけでない本心にいたったとき、もう人間ではない。社会にとってはその動物レヴェルの人間を想定して事実発展したわけでしょうね。
株価の比喩はよく分かります。しかし、その入れ物はよくなっても精神は壊滅的ですね(入れ物との比較でますますその低レヴェルが浮き彫りになる)

社会の発展目的と個人の幸不幸は別の次元である、社会はまさに私事でない他人だという認識も納得いきました。

お礼日時:2007/11/21 10:21

いつも笑顔でいれば幸福は寄ってくるなんて宝くじより確率低いですよ。

だって私がそうだから(笑)。「笑顔のあるとろに福は舞い込む」って一見平和な社会を作りたいがための役割要求であって、お愛想笑いにしたって苦痛な性格、気分だってある。営業の笑顔なんてそうでしょう?「コイツのためにもったいない」と言いながら営業さんは、「営業スマイル」作らなければならないストレスを日々抱えてて、どうして平和なのか?(笑)

私も絶えず笑顔でいれば好感はもたれるが「人生楽しめてるでしょ」「悩みなんてないでしょ」なんて実際思われてるし。光が濃くなると陰も濃くなるのだよ、とでも言いたいですよ(笑)でも私の場合不幸への反射なんです。確かに表情や化粧、衣服などの外に見せるアプローチで心的状態は変化することはよく知られてますよね。でもだからといって相対的な外部が、個人の心理状態をそのまま評価するとは限らない。笑顔はアプローチだけではない、仮面でもあるし衝動でもあるし救済のサインでもある。だから私は誤解されているなと、ますます孤独を感じてますますある意味の「殻」に閉じこもってしまう。
確かに笑顔はあなたと有効な関係でいたいという社会的なサインでしょう。でもその下にある泣き顔を、他者は彼と親しくなければ容易に読み取ろうとしないし、興味があったところで失礼になるし相手が心を開くとは限らないでしょう。なので「>人生がより容易に楽しくなる」とは限りません。
でも本当によいことがあって自然に顔に出て、人に対しオープンになる。意外に相手と仲良くなるのでしたらそれは本当に好循環ですよね。「>傾斜幸への傾斜は急」ということになるのでしたら心の変化がダイレクトに外部に影響を与えるということでしょうか。迷いがない分だけそれは急展開となるかもしれない。

>幸せへの傾斜不幸への傾斜は急
それとは逆に不幸な転落ほど傾斜は緩やかで広範囲にわたると考えます。そしてまさにその形態は「雪だるま式」だと思います。

「惨劇は突如として起こるものではない。日常の中に用意されている」という言葉があります。何かのきっかけでその潜在されていた問題浮上すると一挙に表面化し、それを待っていたかのように何か根源的な力のが、自分の意識ではコントロールできないほどの大きな力になって襲いかかる。そして制御不能状態になり、その痛みを緩和するセロトニンの味を知ればそれを求めて心の体質?がMになりやすくなる。Mとなれば表面的、客観的には不幸であるのにそれを歓迎する。

意識的な心がけはさらにその下の層にある潜在意識によってコントロールされています。
潜在意識は思考をもたないんです。思い込みが真実だと思ってインプットする。たとえば幼い頃からモラルハラスメントをする環境に育ってきたら自分はダメな人間だというプログラムができあがるんです。そしてそのとおりに行動する。つまり性格や人生が決まってしまう。人からネガティブなことをいわれた場合気にする人としない個人差がありますよね。
自分のネガティブな経験に近いものならば、「ブルータスお前もか」的に何もかも過剰に一般化してしまう。その思い込みがすべてを破滅的にしてしまうこともある。本当は自分にとってポジティブで建設的で、それが幸福の好循環の糸口になるのかもしれないのに、白紙に一点の黒点のシミが広がるように不幸の連鎖を自ら作り出してしまう。そういう構造が多様なエピソードを対象とすれば、カテゴリ全般に対して不幸は波及する。

>そんなに人間が侠気に陥っているとはどうも思えない。
狂気は客観性のない世界です。気づかないということなんですよね。狂気は忌避なるものでしょうけれど、本人にとって幸福かもしれない。

幸福は条件的質的に限られているけれど、不幸は様々なパターンがあって、どの領域にも及ぶ。でも幸福は断定的というか。一方で「濡れ手で粟」のように一攫千金的に成功する世界もありますよね。例えばエンターテイメントの世界だと一発当たれば「地位や名誉、お金、権力」が同時に入ってきますが、普通のサラリーマンという世界にいる限り実現する可能性は低い。でもそれも物資的なものに及ぶだけで、精神的なものがそれで満たされるわけではなく、例えばお金があればそれ目当てに人が寄ってくるだけであれば「愛情」を求める限りそれは幸福が呼び入れた不幸かもしれない。不幸の悪循環を断ち切る意志ひとつは自分を愛していること、客観的不幸で溺れそうなのにそれでも媚びない笑顔は「イタイ笑顔」に見えるかもしれないが、健気ともいえる。健気が幸福と定義されるのだとしたらその人は幸福かもしれない。

要は思い込みですね。潜在意識という客体のもつ機能的にも、不幸を不幸と思わない主体性も。本当に心がけひとつで運命は決まるのだと思いますし、サーモスタット機能というのは他の何らかの力ではなく、自分が作り上げた現実や状況ということに対しての意志である思います。でもその意志も運命を作る一環・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

たいへん、総合的判断に基づいたお考えで、よくわかりました。結局は思い込み(というか潜在意識的しがらみ)が決定権を握っている面が多い。しかし、その氷山の底みたいなものを、表面から溶かしていくことも可能ではないでしょうか。もちろん海面上に出ている部分からしか手がつけられないです。
結局、総合的に与えられた条件をどう生かしていくか、どうマイナス面を酒プラス面に添加できるかという、「素材」を与えられていて、それにちゃんと向き合えるか、そんな感じなのでしょうね。

しかし、なお、個人の問題以前として、あるいは個人も問題の総体として、どうも社会の傾斜特に不幸への傾斜が、おっしゃられるように多面的で広範囲である。これは結局人間の業なのかもしれません。

お礼日時:2007/11/28 09:32

#4です。


>つまり、人間全体のレヴェルが低いのでしょうね。
:それは全くその通りでしょうね。
人類全体を俯瞰して見ればそうとしか言いようがない。
であればこそ、なぜそういったもの(=人類総体=人間社会=マジョリティ)に自らのアイデンティティ確立の基盤を求めようとするのか、
ということになるのだと思うのですが。

1、わるいことがある→2、環境(人間)レベルが低いのだから当然→3、表情が(継続的に)険しくなる必要はない→4、毅然とした姿勢を保持する→・・・
という流れを形成することはそんなに難しいことではないでしょう。
その「環境」に迎合しようとしない限りは。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

やはり、孤独感疎外感というものと、マジョリティの堕落とどう関連していくか、少なくとも関与しない限り、孤独感からは抜けられませんから。しかし、もちろん不満と空虚感がついて回ります。しかし一方で孤独の怖さがある。この状況をどうするかですね。

お礼日時:2007/11/25 09:42

心の波長がひきつけるものを決めている気がします。



怒り欲無知「煩悩」に根ざした心でいれば悪く
慈悲喜捨の心でいればよいことが引き寄せられるのだと感じます

だから仏教では心の調御を大事にするのでしょうね
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確かにそれはあるでしょう。
しかし、心はかなり自発的でない環境的強制的な支配を受けます。
なので、この状況からはじめなければならないということにひどく戸惑う。

お礼日時:2007/11/25 09:40

感覚的話になってしまうんですが、


強い状態は、優しさの類を感じ取ることができず、えてして弱き者を蹴散らして進んでいることさえ気づかないものでしょう。
一方、弱い状態は、活力がなくて、ここぞの勝負どころさえ気づかなくなるし、気づいても失敗のトラウマで勝負しなくなるということでしょう。
勝者は勝ち続け、敗者は負け続ける傾向はあって、不条理ですが、合理的な理由があるように思います。
でも、程度があって、永遠に勝ち続けることは不可能なように、長く負け続けることが出来ないのも事実ですね。
本当の弱者は滅びますが、勝者も強く勝てば勝つほど徹底して滅びますよね。ギリギリで生き延びた弱者が最も長く生き延びる真の勝者なのかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

結局、生きるのに精一杯で他を省みる余裕なんてないという真実がありますね。その結果、このような有様になっている。人の幸不幸は社会の目的とは別のところにある。ぎりぎりの弱者が次のもっとも強者に成長する「穴」敵存在であるというのは、納得します。

お礼日時:2007/11/21 10:24

いいことがある→みんな困らない


悪いことがある→やさしくなれる
こういう図式で、何があろうとも、誰でも幸せになれると思います。
自分や他人と言う垣根を取り払って、すがすがしくいきるべきです。
そのようにしたなら、最悪の状況にあっても、活路を見出すことができるに違いありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

実は、悪い事があって優しくなれる人は、よほど素質がいいか、ある条件に恵まれている(つまり悪い事でもそれを吸収してくれる何かがある)ということが多いのではないかと。どうも一般人はそんなにレヴェル高くないと思いますね。しかし、おっしゃる事は理想として常に意識すべきでしょう。

お礼日時:2007/11/21 10:16

「>不幸が雪達磨式」というのは、ひとつの側面に過ぎないように思います。


顕著であるかのように感じるのは、そういった状況の持つインパクトが強いためでしょう。
「好事魔多し」
「人生万事塞翁が馬」
といったあたりが現実的には多いのではないでしょうか。
(これらは気の持ちように関して述べたものでしょうが、結果的に見ればこういうもの、ということでもあるでしょう)

良いことがある→調子に乗る→周りから疎まれる
悪いことがある→耐えることで成長する→一段高いステップに向けて一歩を踏み出せる
というパターンも多いと思うのですが。

わるいことがある→表情が(継続的に)険しくなる→周りから敬遠される→・・
:というパターンに陥る場合は概ね視点の転換がなされていない場合が多いのでしょう。
俗に言うように「丸い卵も切り様で四角。物も言い様で角が立つ」ということです。
こう間単にはいかない場合があることは確かに認めますが、その点について「>なぜ人間(含動物?)の世界というものは」というアプローチは無理があるかもしれません。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

塞翁が馬は、よく現れます。そんなに気張ってばかりいてもしょうがないというスタンス、それはそれで妥当な判断です。しかし一方、できる限り信念や理想系を追求しないと流されるままで、なにも意味を見出せないで終わってしまう。そのバランスの微妙さがいつも人生の課題ではないでしょうか。

悪い事があるとき、ある条件(悪いことの度合い、性質、後ろ盾や精神的支えの有無)など、これも制限付きでよい方向に転化できる。しかし、一般には悪い事には果実がついていないか届かないか、そんなことも多いです。もちろん個人の資質能力によりますけど。つまり、能力のないものは、その負荷を利用できないのですね。

つまり、人間全体のレヴェルが低いのでしょうね。

お礼日時:2007/11/21 10:14

私の今の頭では(心?)、「世界がそのように作られているから」としか言えません。


例えば、一つ例に取っただけでも(具体例)
・相手が強い(幸福で生き甲斐がある、力強い)うちは、攻撃すると反撃されるんでしません
・しかし、相手が弱っている(不幸に遭い、気力を失っている)うちは、攻撃しても大して反撃されないのでやりたい放題です。

個人的には、この世が「弱肉強食」なので、「弱い人間が幸福になる」に直結するのを避けるように出来ているのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですね。しかし「どうして」そのように作られているか。弱肉強食は動物世界全般ですが、そのまた精神性も絡んだ人間の顔を暗くし精神を必要以上に蝕む成り行きはなんなのかです。その理由はわからないが、人類発展の上に必須の慣習だったのではないかと。強いものとかアイディアがあるもの売れるものを持ち上げることで、その周囲にも恩恵を願う。その結果幸不幸の傾斜は急になることもあるでしょう。

お礼日時:2007/11/18 08:00

金持ちになりたいと思うものが金持ちの村に住めば金持ちになれるんだろうと考えて一生懸命旅をして金持ちの村に着き、ここに住まわせてほしいとお願いしたそうです。

しかし何度、お願いしても断られたそうです。つまり、あなたはまだ金持ちの住む村にふさわしい人物ではないということだったんですが。この逸話を参考にするとわかることがありますね。人も動物も同じようでないと群れないのですね、群れるには条件があるのですね。善人の村に悪人は住めないし、逆に悪人の村に善人は住めないですね。このように心の境涯で差別(群れに差別)があるのですね。
質問者さんの具体例はその通りですが、逆に
どんな苦難のときでも→表情を明るくする→周りが寄ってくる→人生がより容易に楽しくなる
どんなに嬉しいときでも→表情が険しくなる→周りから敬遠される→・・・
も真理ですね。 誰しもよいときもあれば悪いときもあるものです、そのときどちらを実践するかは本人の心がけ次第ということでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「差別」概念の問題になってくると思っています。
これは個人的完成と、環境的因子が相互作用して、人の顔を継続的に暗くしたり生き生きさせたりしている。心がけでは限度があるし、それを実行できる人はまれでしょう。

そもそも、人類はなぜ発展し増えたのか。
それは、成功したやつあるいは力があるやつを、さらに上へと周りが持ち上げる傾向があり、それによっていろいろと社会発展要因を築いてきたんじゃないかと。幸不幸の傾斜を急にするということは、人類発展の上で並行的に起こってきたのではないだろうか。

お礼日時:2007/11/18 07:57

幸せとか、不幸とかは、


結局、個人の思い込みであって、観念上の事象だからです。

悪い事があっても、忍耐強く頑張る人は、いてますし、
そうゆう人は、辛抱強く、チャンスを待って、逆転します。

必ずしも、悪い事は、スパイラルに続きません。

例えば、最近の亀田報道なんかも、まさにそうですよね。
調子に乗って、みっともない試合して、→バッシングされて
→ さらに反則騒動おいうちかかって →絶体絶命か?
→ でも兄貴が、粘り強く謝罪会見で、好印象を勝ち取りましたよね
まあ、首の皮いちまいの状態でしょうけど…

チャンスとピンチ(まわりの時機、めぐり合わせ)が、不合理ではなくて、
ただ単に人間自身が、不合理なんです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

思い込みだけで、これほど深く継続的な精神状態は続かないと思いますよ。そんなに人間が侠気に陥っているとはどうも思えない。逆転できる人もいますが、やはり程度問題素質問題で例外的である。わるいことはスパイラルなのが一般的だと感じます。マスコミ報道やらあれはいかにも表層的な印象を受けるのでどうかなぁと。

お礼日時:2007/11/18 07:54

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す