A 回答 (3件)
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No.1
- 回答日時:
相変わらず、思春期程度に留まって屁理屈を覚えた連中のデカルト崇拝はどうしようもないですね。
デカルトのコギトはモンテーニュの哲学者に対する強烈な打撃に対する、思春期程度の屁理屈の回答だったのです。
モンテーニュはエセーの中で、哲学者の伝家の宝刀である懐疑論を徹底的に使いこなしてみせ、結局、懐疑論によると一つの事象に対してそれを正当化する理屈が同程度に説得力ある形で可能であることを、これでもかこれでもかと言う事例で、懐疑論は思考の停止へと必然的に導いてしまうのだと言うことを、実証的に示して見せたのでした。モンテーニュはこれを、
我何をか知る
という言葉に凝縮してみせました。
これでパニック状態に陥った哲学界に、一人の屁理屈屋が現れた。懐疑論に基づいて、あらゆることを疑っても、それを疑っていると言う事実は疑えないじゃないかと言う、中学生でも気が付きそうなことを言い出した。これがコギトだ。んで、哲学界が歓喜した。伝家の宝刀は錆びていなかったって。デカルトの懐疑論を建設的懐疑論、モンテーニュの懐疑論を破壊家機会議論とでもいうらしい。
んで、誰でも疑えない確実な事実から、数行目後で、んだから神の存在は証明されただと抜かした。ばっかじやないのって思うのは私だけでしょうか。
あたしはずっと理論物理学者として飯喰って来たが、こんな子供だましなデカルトの屁理屈懐疑論が研究や発見の役になった試しがない。モンテーニュは、どんなにもっともらしい主張でも、その反対の意見でも十分説得力のある論理が見つかることを教えてくれたので、物理の研究にすごく役に立ってくれ、モンテーニュの懐疑論の方が遥かに生産的だった。
哲学おたくの皆さんはどうなんだろうね。
No.2
- 回答日時:
#1に誤植がありました。
第2段落
モンテーニュはエセーの中で、哲学者の伝家の宝刀である懐疑論を徹底的に使いこなしてみせ、結局、懐疑論によると一つの事象に対してそれを正当化する理屈が同程度に説得力ある形で可能であることを、これでもかこれでもかと言う事例で、懐疑論は思考の停止へと必然的に導いてしまうのだと言うことを、実証的に示して見せたのでした。
の部分を、
モンテーニュはエセーの中で、哲学者の伝家の宝刀である懐疑論を徹底的に使いこなしてみせ、結局、懐疑論によると、一つの事象に対してそれを正当化する理屈成り立つとき、それと正反対の意見も同程度に説得力ある形で可能であることを、これでもかこれでもかと言う事例で示し、懐疑論は思考の停止へと必然的に導いてしまうのだと言うことを、実証的に示して見せたのでした。
と読んで下さい。
また、第3段落、
破壊家機会議論 => 破壊的懐疑論
と読んで下さい。
No.3
- 回答日時:
デカルトのコギトについては あなたのご質問:
【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯定出来る方はいますか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i …
の回答No.5に書き込みました。参照してください。
*
デカルト本人は 決して経験的な存在〔だけ〕としての《思考》の主体のことを言った
のではなかったようなのです。
早い話としては 非経験的な《霊》のことをこの《考えるわれ》という表現で――つま
り 誤解されても仕方のないかたちで――言ったようなのです。
*
まづ デカルトのこの命題は アウグスティヌス(354-430)の
( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》
の二番煎じでした。次の質問への回答№5を参照してください。パスカルがその二番煎
じ問題について議論しているところを扱っています。
【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902812.html
*
デカルトは この《コギタンス(考える者)》について
( d ) 《非物体的なもの(英訳: an immaterial substance / incorporeal 》
と言っています。これについて先のアウグスティヌスは どう言っているかから説明し
ます。
まづ ( a )の命題の解釈例です。:
( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについ
て間違っていたその行為とそれに気づき正す行為とがあると知られます。 このふたつ
の――そのあいだに時間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらに
ついても わたし〔が行為主体〕であることを確認します。自己同一性(アイデンティ
ティ)です。
――すなわち この自己・このわたしがあると知られます。《我れに還る》といったコ
トが起こるはずです。
( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺かれた
というコトは わたしが存在していなければ成され得ないことだという意味で 《わが
存在》をみちびいている。
犬や猫について捉えると分かりやすい。すなわち動物にも《われ》が存在しているとす
れば もしそれらを人間が騙(だま)したという場合にも 人と同じようにそう(つま
り 存在があると)見なされるでしょう。
けれども そんなわれは存在などしていないと見るなら 犬や猫にとってそのダマシ・
ダマサレなどは あって無きがごとしとなるでしょう。
*
そこで次に このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには
――わるく言えば パクッたということになります。重ねて述べれば 《あやまちに気
づく》ならば なぜそうしたのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》
とするならば やはりどうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから《思
う・考える》という表現に替えたのでしょう。
*
その点については アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてたとえば次の質問
の趣旨説明欄を見てみてください。
【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html
*
ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けて反論し
て答えています。――いや そうぢゃない この《思う・考えるわれ》は 決してあや
まちや欺きといった経験的な事態にかかわる〔だけの〕われではない。そうではなく
むしろ《霊としてのわれ》なのだと。その《考えるわれ》とは:
《非物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》
なのだそうです。
*
すなわち:
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して p.404 をクリックしてください。次のページです)。
http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.532354 …
( d )(= p.404 )
ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem &
incorpoream substantiam;
( d-Eng. ) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescart …
I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an
immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal.
( d-Jp. )
アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のことを明らかにするため
に応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物体的な実体なのである
と。
☆ (ぶらじゅろんぬの自由な解釈) あやまちに気づかされるときには われなる人
間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメキが得ら
れると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の霊なるハタラ
キに属するという見方だと思われる。
*
さらにこの話には後日譚のようなことがついています。
(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊》であるとなったところで
これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクがその霊の
ハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。
(い) ( a/d-Lichtenberg :《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》
http://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/1244544 …
稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える〔Es denkt〕と言わねば
ならない。
(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェを
経てフロイトに行き着いたのだそうです。
(え) この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳の独立した部位にお
いて想定したところでは もうついて行けないと言うべきだと考えます。
☆ なおデカルトの反論は その場のデマカセくさいように感じられます。
そうでなくても もし霊のハタラキを言うとすれば 《〔ふつうのわれが〕考える》と
は別にそれ(=霊のハタラキ)として持ち出せばよいはずですし そういう問題はアウ
グスティヌスがすでに言っていないわけがないのですから。
☆ 《考えるふつうのわれ》には ひろく精神のハタラキとして捉えるなら 《意志》
もふくまれます。
精神の作用は ふつう《記憶・知解・意志》の三つに分けて捉えられます。
《考える》のは 記憶という情報の場とあい携えて世界を認識しそこにある問題を処理
しようとする知解の行為です。知解の用意したいくつかの案からおのれの欲する解をえ
らぶのは 意志の行為です。
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