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人間とは何か お金とは何か 価値とは何か

と言うのは自分なりに分かる様に思うのですが

存在 という言葉が何を意味しているのか?

自分でも定義してはみましたが 今一つ掴みきれません

存在とは 何なんでしょうか?

A 回答 (27件中11~20件)

言葉は文脈の中で意味づけられますから、存在とは個性ある性質を持ったエネルギーであるとハルさんが定義しているその文中での存在という言葉と、私が言う、「存在」それは自明であるから定義する必要はないという文の中で意味づけられる存在という言葉は、違う意味を持っています。

私はそれを抽象的なものとして扱っているが、ハルさんは具象物として扱っています。私は存在の例として人や星や魚などを出しません。ハルさんは出しますね。
私は存在を最も大きなカテゴリの一つとして扱いますが、ハルさんはずっと先まで分岐したカテゴリの中にある諸々の物を存在物として見ているわけです。細かく分岐した末端の存在物を見ているから、個性という言葉が出てき得るのでしょう。

ですから、ハルさんの使う文脈においては存在というだけでは言葉が足らず、諸存在とか諸物、存在物といった方が通じやすいのではないでしょうか。

つまり、「諸存在は、それぞれに個性ある性質を持ったエネルギーである」という感じで。でもまだ、個性ある性質という文言の意味が汲み取れません。「諸存在は、それぞれに別個の性質を持ったエネルギーである。」これでもエネルギーが何のことであるかよく分かりません。
「諸存在は、それぞれに別個の性質を持った活動である。」
こんな感じでしょうか。私が意訳するとこんな感じになります。
活動が主体となっているところがポイントになるでしょうか。
活動が停止すればそれは存在することができなくなるわけです。
私の意訳で意味が通じるようになるとは思えませんが、少なくとも私の、ハルさんの定義の理解はこうなっているということは分かるかもしれません。

ところで、自分語を使う人は結構いますが、そのうち少なからずの人が一般的な語彙、つまり言葉の共通の用法を尊重せず、自分語の方を大事に抱え込んでしまいがちです。ですから議論が進展せず、同じ所でグルグル回るか、似た思考回路を持つ人達とだけ合意を得て満足しているか、といった状況にとどまっています。

それは一種の独りよがりのようなものでしょう。他者理解ができるレベルにまで達していなければ、話もそれ以前のレベルに留まってしまう。
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この回答へのお礼

ありがとう

私は思うんですよ「このビーカーの中には酸素分子が存在する」とか

「3億5千年前には恐竜が存在していた」とかいう言葉を使うじゃないですか

それにそれほどの違和感を感じませんよね

ところが では「酸素分子」という存在は何か? 恐竜という存在は何か?と言い出すと

哲学的に言うと量子論的に電子運の確率分布的に酸素分子というのは・・・・・何なんだ?

恐竜?本当に存在したという証明はできるのか? となって では存在って何なんだ?

ということになります。

なんか随分哲学に詳しいと自称する人が 「存在」とは中身がないもので意味もない 何が何だか分からないものだと

書いておりました。そこで私は この遷ろう存在をどう捉えるのが普通の意味か考えたのです

その結果思ったのが 酸素分子という個性のことを存在の単位としているのだなと。それなら酸素分子と言えるなと

思ったのです。

人間存在でも精神という個性のことを「人間存在」と呼び 五体の方は「体」と呼ぶのだなと

個性で言わなければ全ては移ろい 何一つ変わらないものはない。イデア界にも似てますかもしれません。

個性の方は現実界です。 それで 存在とは 個性ある性質を持ったエネルギー と定義してみたのです。

お礼日時:2016/05/16 15:43

どう推測しようとそれはあなたの経験と興味という色眼鏡を通したた世界です。

どう類推しようと所詮あなたの考えの枠内です。そしてそれがあなたの世界なのです。
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この回答へのお礼

成る程よく分かりました。確かにそれはそうですね。

お礼日時:2016/05/16 15:25

人間の存在に目的なんかありません。

そう思うのは人間が生命体の中で特別なものとの思い込みによるのです。単に進化の一段階でしかありません。いかにあなたが世界を説明しようと、それはあなたの感じている世界でしかないのです。実存主義に固まっているのではありません。他人の受け取る世界が違うと否定することが出来ないだけです。自分の認識は世界のほんの一部かもしれません。しかしそれが自分にとっては全てなのです。しかしそれでも自分の世界に固まってしまうなんてことはありません。なぜなら自分の関心は日々広がり、それによって取り込む対象も変わっていったり増えたりするのですから。
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この回答へのお礼

そうしてるうちに だんだん世界が推測できませんか?自分と他人がどうも似たような人間だと類推できませんか

そうやって直感を繋いでいくうちに 俯瞰すると言うか 自分が見えてくるというか 世界も見えて食うのではないでしょうか

もちろん完全ではありません しかし我々は全て完全じゃないものを使って生きているのです

勘と経験で世界を見ているのですから。そう考えないと 自分が死んだら世界もなくなるなんて 寂しいじゃなりませんか。

お礼日時:2016/05/15 21:49

先生はやめてよ。


多分同年代だし、知らないことばかりだし。

仏教といっても、実に幅が広いです。
「一念三千論」「九識論」などの生命論の深さには
驚きです。

釈尊なら法華経です。
日蓮なら創価学会版が明快に解説されていると思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

法華経は宮沢賢治も信じておりましたね

一念三千論 九識論 生命論ですか

スケールが大きそうですねえ。

お礼日時:2016/05/15 20:42

「存在性理論」とは、「存在」の中にすべての生命活動のパワーが


「性質」「エネルギー」として内在しているーーそのように私は理
解しています。

私は素晴らしい感性であると舌を巻きました。

しかしながら、ハルさんも十分にお分かりだと思いますが、言葉の
定義自体が、自然科学、哲学等と違いすぎるため議論にはなかなか
ならないわけです。

今回の質問も、一歩進みたいという思いで、何か掴みたいとの意図
であったろうと思います。

以前にも申し上げましたが、存在性理論は仏法哲学に近いと思いま
す。仏法哲学が世界に拡散して久しい年月がたち、仏法者が多くの
著名な科学者と対談をし、多くの書籍も存在し、最新の科学では、
その影響を受けているものもあろうかと思います。

「存在性理論」「科学」「仏法」の三つ巴の構えで、進んでいかれ
たらと思います。

このカテにも仏法に詳しい方がおられるようですし(私はまだ自分の
言葉にできないことが多いんです)、これから総仕上げのつもりで頑
張って下さい。
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この回答へのお礼

ありがとう

仏法がそれ程価値あるものなら この機会に勉強してみたいと思います

僕の印象としては 般若心経はわかるのですが 色んなお教があって

矛盾しているような 分かるようで分からないような 禅問答のような

そんなイメージがあります。ニャンポコリン先生が言うのだから

それはそうなのでしょう。三つ巴に通じる言葉は 性質 ですかねえ?

お礼日時:2016/05/15 19:25

それは自明だから定義する必要は無いというのは、回答になるでしょうか。



そう言うわけにもいきませんか。。
全ては泡沫のようであると言う維摩に、それでも苦しみは実際にはあるでは無いかと文殊が喰い下がる、そんな話が維摩経にあったかと思いますが、病床にある維摩が苦が空であることを教えようとし、それを見舞っている文殊の方が苦しみの実在を問い掛けるというのは興味深い構図ですね。普通ならば、病床にある人が苦しみを訴え、それを見舞う人がそれからの解脱を教えると言う構図になると思います。

釈尊は、この世界が有るとか無いとか言い争う修行者を見て、そんなことを言い争っている間にお前達の寿命が尽きてしまうと述べ、無益な論争を注意しましたが、存在とは何か、学問的には大いなる問いであるとしても、人生にとってそれが他を差し置いて重要であるのかどうかは、一考しても良いかと思います。

それぞれの目的に適った問いを人は持つべきであり、そうで無いならばたとえ答えを得てもその意味は薄いのではないでしょうか。

存在とは何か、これが人類の益に適う問いであるのか、或いはハルさんの目的に適う問いであるのか、いずれでもないならば、それを問う意味が無くなってしまうのではないかと思います。ハルさんは、この二つの目的のいずれかに沿う質問をされているように、応答を読んで思ったのですが、この問いを問う意味についても、今一度考えられても良いのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

哲学と言わずとも「私は今ここに存在する、存在しなくなりたくはない」という人は多いでしょう。

あなたの存在を消す と言われると怖いですよねえ。

でもその「存在」って なんの事を言っているのか分からない

例えば命と置き換えてみましょう 

「私は今ここに生きている 生きていなくなりたくはない」という人は多いでしょう

あなたの命を消す と言われると怖いですよねえ。

では存在とは命のことか? 答えは否です。しかしかなり似ているものと思われます。

命があっても人間として存在してない人もいます。脳死になったら人間存在はないでしょう。

「命」と言うのは魂を持った循環だと考えています。

「存在」と言うのは 個性ある性質を持ったエネルギー と考えています。

一瞬として留まらないこの世界で もしアイデンティティを求めるとすれば それは個性でしょう。

水素原子という個性 人間という個性 星という個性 魚という個性 それらに名前をつけて

我々は 魚が存在している と言うのです。

ついつい書きすぎました この問題はクリアしないと哲学が成りません。

私は苦を感じています。私は難病で、更に原因不明の神経痛に悩まされています

この冬を超えられるかどうか不安です。苦は確かに存在します。様々な個性の苦が存在します。

お礼日時:2016/05/15 19:15

死んで後に残る社会はありません。

あるだろうとあなたが思うだけです。実際あなたは確かめることは出来ません。人工衛星や芸術が共感を呼ぶとおっしゃっていますが、それに関心を持つ人は自分の世界にそれを取り込んでいるからです。まったく関心を示さない人の中にそれは無いでしょう。地球は1つであると言っても、月に行った宇宙飛行士とあなたとでは思い描く地球は違うかもしれません。このように人は自分の経験、関心でしか物事を描けない見れないのです。その外側に絶対的、客観的世界が存在するのだといってみたところでどんな意味があるのでしょう。
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この回答へのお礼

その様な考えでは、自分の世界に留まってしまって 役に立つ哲学は生まれないと思います

実存主義でニーチェが好きで 超人として生きるのだと思うのは勝手ですが

それでは世界を説明できないし、人間とは何か?人間の目的は何か?という疑問に答えることもできません。

というふうに思うのです。

お礼日時:2016/05/15 18:57

「存在」の対峙語は非存在ではありません、「変化」です。

ですから変化を理解しなくては存在の理解できないと言うことです。存在を理解する前に、変化とは何か、変化が存在と両立しうるのかという問いから思索をはじめて下さい。そのことから「存在」とは何かをご自分から判ってくるでしょう。

量と質の違いは、数学的には関数の特異性、特に、その特異性の指標であるある関数の束半径に対して、貴方の論じている事象が収束半径の内側にいるのか、それとも外側にいるのかと言うかという違いが質的な変化の理解に本質的は役割を演じます。収束半径の内側にいる場合は、その違いは単に量的な違いですが、収束半径を超えると質的に違った事象は起こると言うのが数学的帰結です。

日常言語は多義的で曖昧であることは質問者さんもご存知でしょう。その多義性故に、貴方の質問を日常言語で分析することは曖昧で不可能なのです。もし哲学を語りたいなら、数学的言語を自家薬籠中の物にしてください。さもなくば、ソーカル事件でポストモダン哲学が似非哲学だったことが暴露されてしまったように、貴方の思索が全て無意味になってしまうからです。
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この回答へのお礼

ありがとう

変化すると言えば 全ては変化しています。変化しないものなど何もありません あるとしたら真理くらいでしょうか?

数学的に現実を見ることも物理的にはよく行われていますが その弊害もあります。点など無いのです。

日常言語は曖昧ですが 学術言語も仮説だらけです。それに坊さんがお教を上げても意味は分かりません

哲学は日常言語から始めなければ生きたものにならないのです。

いま人々は「哲学」と言うと「難しくて気持ちが悪い」というイメージの人が多いです

日常言語も長い時代の知恵に磨かれてきていますから そこから真理を表せるものを生み出していきたいです

どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/05/15 18:53

1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性(広義)



2. 自然本性: 身と心それぞれの能力と性質を言う。

3. 感性: 身の五感が知覚すること。

4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こる
ゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ
――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらに
あらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。こ
の場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理
的なつながりに収斂していく。

6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基
準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よい
かわるいか》である。良し悪しの前に 真か偽かの判断がある。

7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉
えたあと理性がこれに意味づけをしさらにあらたな意味連関をみち
びきだす。
 
7-1. あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念と
して整理し この概念をすでに――感性から一たん離れたかたちの
――観念とし この観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る
種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判
断過程へと送る。
ここまでが 知解という作業である。

8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般
によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり
主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして
培うようになる)。

8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえ
らぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)を
えらぶことも 少なくない。

9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行
する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 
存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての能力および性
質の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整
序してその倉庫におさめる。

9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った
《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキで
あり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為した
という意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうと
ぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般で
ある。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

11. 境地: 《記憶・知解・および意志》の三つの行為能力の
全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――
全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状
態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたか
たちである。


☆ ここで 行為能力とは ほぼエネルギーのことです。

☆ 性質は 特に具体的には示していません。たとえば身と心とが
うつろいゆかざるを得ないといった特徴――可変性・無常――を 
性質と言うのがふつうです。
あやまちうるという可謬性も挙げられます。
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この回答へのお礼

ありがとう

色々と考えてあるのですね 参考になります。

存在は ひとの存在 だけでしょうか?

色々分析されていて素晴らしい

どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/05/15 16:04

「存在」とは何か。


哲学の大きなテーマでプラトンやアリストテレスなどあまねく哲学者が思索してきた。
「存在するものは、あるがままに存在する」と「存在するものは、存在しうるものに認識されて、はじめて存在する」という大きく二つの考えがあり、前者は存在を普遍的で絶対的なものとしてとらえ、後者は存在者の意識の中で存在するものが存在しうるとしてとらえている。
近現代では、ハイデッガーの基礎的存在論において、存在者を全面的に超越して「存在」の意味を説いている。それは、存在するということは、個々に存在する存在者によって規定されることであり、それらを一般化する上で、前提としなければならない論拠として、必要な手続きであったとみなすことができる。ハイデッガーの基礎的存在論の影響を受けたサルトルの存在論では、即自存在(物の存在)と対自存在(意識の存在)とが区別された。これは、「存在」とは普遍的な存在としての絶対性への検証のために必要な手続きであったとみなすことができまる。
つまりは、未知なる存在についても存在者によって認識の共有化がすすめば、「存在する」「存在しえる」となるが、対自意識の絶対的な存在に基づくものであるところを前提にしているところから、存在とは、存在者の意識によるものであるというところ帰着する。

回答になっていませんが、「存在」とは何か?という一見素朴な疑問ですが、現代においても哲学の大きなテーマとして思索され続けられています。
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この回答へのお礼

ありがとう

仰る意味はわかりますが その哲学の理屈に世間の人はもう見限っていて 哲学と聞いただけで

何か難しくて気持ち悪いもの と印象を持たれているのです。

存在も「確からしさ」でいいじゃないですが。ここにかなり間違いなくパソコンが存在する

或いは私が存在する。 97%確実だ。それでいいではありませんか

哲学の正確に囚われているうちに世界はどうですか?酷いものです。世界の平和や個人の幸福について哲学しなければ

ならないのに、ああでもない、こうでもないといつまでたっても結論が出ない

私の存在の定義は 存在とは 個性ある性質を持ったエネルギーです。それだけです。

全てはエネルギーで出来ているし 精神は性質で出来ているからです。

もう時間がありません、先を急がなければならないのです。

お礼日時:2016/05/15 11:15

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