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例えばキリスト教徒が仏教はどのような宗教なのか、仏教にとって天国とはどのようなところか尋ねたならどうのように説明しますか。
私は次のように答えることにしています。
「仏教は宗教ではありません。
仏教は宗教ではなく、哲学なのです。
宗教ではないので、あなた方が考えるような天国とか地獄などという場所は仏教には存在しないのです。
仏教における天国とか地獄というのは、我々の心の状態を表しているのです。
つまり地獄というのは我々の心が貧しいが故に物欲に支配され常に満ち足りることなく喘いでいる心の状態のことであり、天国とは我々の心が豊かでありどのような状態で生きていようと常に満ち足りている心の状態のことなのです。
仏教は宗教ではなく、今ある我々の心をこのような平穏な状態に置くための心の持ち方、つまり哲学なのです。」

さて質問ですが、もしも外国人が仏教とはどんな宗教かと尋ねたら皆さんはどのように答えますか。

A 回答 (17件中1~10件)

まず この世は 四苦八苦だと言う認識から入ります



次に般若心経を解説します。色即是空 空即是色 色不異空 空不異色とかですねえ

そして坐禅やお盆や地獄極楽の話をしたあと 悟りよ幸あれと、悟りに幸せが付いて来ると教えます

ご利益宗教とか葬式仏教等はイメージが悪いので教えません^^
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この回答へのお礼

なるほど、

四苦八苦 → 色即是空 → 空即是色 → 色不異空 → 空不異色

こんな感じになりましょうか。
完全に悟りましたね。

お礼日時:2016/07/26 20:40

「仏教は宗教ではありません」といいながら、それを言ったご本人が「もしも外国人が仏教とはどんな宗教かと尋ねたら皆さんはどのように答えますか」と投げかけておられるのは、「仏教は宗教ではありません」というご自身の言葉に疑問を持っているからでしょうか?



普通に考えれば、仏教は、仏の教えでしょう。
宗の教え、と言うことだと思います。
だから、宗教です。
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はじめまして



>例えばキリスト教徒が仏教はどのような宗教なのか、仏教にとって天国とは
>どのようなところか尋ねたならどうのように説明しますか。

天国というのが仏教では明確ではないですからね。釈迦は死後の世界については具体的には述べていません。死後の世界を説いた浄土などを説いた教典や遠い未来に弥勒仏が現れて人を救う等々、経典はいろいろありますが、いずれも釈迦が死んでから何百年もたってうまれたものですから。

仏教がどのようなものかと聞かれれば「七仏通誡偈」でしょうか。あと法句経(ダンマパダ)も外国人にはわかりやすいですね。

 七仏通誡偈(wikiより)
諸悪莫作 ― もろもろの悪を作すことなく
衆善奉行 ― もろもろの善を行い
自浄其意 ― 自ら其の意を浄くす
是諸仏教 ― 是がもろもろの仏の教えなり

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BB%8F …

法句経
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm
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この回答へのお礼

>釈迦は死後の世界については具体的には述べていません。死後の世界を説いた浄土などを説いた教典や遠い未来に弥勒仏が現れて人を救う等々、経典はいろいろありますが、いずれも釈迦が死んでから何百年もたってうまれたものですから。

死後の世界について釈迦が天国のことを語ったとしても、それはタトエとして語ったと考えるべきでしょう。
浄土についての親鸞上人の教えも全てタトエで語ったものであって、21世紀の今日ではそのまま受け入れる類の話ではないでしょう。
キリスト教では既にこのような考え方が定着しました。
キリスト教ではタトエのことをparableと言います。
聖書の中に書かれているイエス・キリストが行ったとされる様々な奇跡物語も21世紀の今日では全てタトエであると見なすことが定着しております。

お礼日時:2016/07/22 16:04

もうなんだかな。

結局、仏教徒が嫌いと言うことで、
絶滅して欲しい。
尊敬できる仏教徒はいなかった。
粘着して攻撃してくる屑しかいなかった。
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この回答へのお礼

そりゃ苦しいときもあろーことよ。
しかしそれを思想と哲学で乗り越える、
次元を上げて壁を乗り越えるってことだ、アウフヘーベン。
人生の価値はどれほど多く、どれほど深くアウフヘーベンできるかってことではないのかい。

お礼日時:2016/07/21 21:40

No.12です.


あなたも、同じような「基準を求める者」を超えないのですね。
そこに「あなた自身の中で」安定できることを、希望します。
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この回答へのお礼

いつの頃からか大乗だの、小乗だの、上座部だのと仏教もまた互いに基準を設けようと競うようになってしまった。
とくに上座部なんてのが出てきた辺りから仏教は仏教の理念を失い、ただただ葬式仏教への道をひた走るようになってしまった。
だから既成の枠に納まり動こうとしない仏教はもはや蓑虫と同じである。
あとは既成の枠に納まらずとも自分の頭で考え納得できるものを築けばそれが一番正しいと考えればそれでよいです。

お礼日時:2016/07/21 21:55

私の学んだ限りではございますが、現在の上座部仏教におきまして、たて前ではそのようになっているようです。

残念ながら納得していない要素も感じてもおります。

 ここで、仏教の考え方を離れまして、現実に生きていることを考えてみました。
 私たちは苦しくて、人生うまくいかないように生きているようでもあります。それは、私たちはいつも何かに飢えていて、苦しくて、求めて生きているようでもあり、そのように向かっていろいろと努力して動いているのですが、それでも上手くいかなくて。それを解決できるような「柱」、それを基準にしようと思うこともあるようです。そんな柱に「絶大なる力」を思い込み、すがろうとするようでもあります。そこに「絶対なる柱」は描かれ、「神」が作られたり、「教義」が作られたり、「規律」が作られたり、「現実の基準」が作られたりもするようです。
 私は、いろいろな国を旅してまいりまして、いろいろと宗教的な問答になった経験がございます。それはどこでも「絶対なる基準」は固かったのですが、問題点を柔らかく投げかけてみますと、考えていただける経験ばかりでした。みんな信仰しながらもどこかで何かを疑っていて、確信を得ようとしていたのかもしれません。だからこそ異質なる者である私へ聞いてきたのかもしれません。
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この回答へのお礼

>ここで、仏教の考え方を離れまして、現実に生きていることを考えてみました。

結局はそうなりましょう。
他力であるとか、自力であるとか唱えたところで納得できるものではないでしょう。
やはり自分の頭で考え腑に落ちるところまで納得できるものでなければなりませぬ。
他力本願ではございませぬ。
自力本願でもございませぬ。
では何かと考えた末、至った結末がこれでございまする。



  有瑠慶本願

南無偉大也理有瑠慶
有瑠慶此即万物根源
有瑠慶此即宇宙法則
有瑠慶此即唯一絶対
有瑠慶此即全知全能
有瑠慶此即無辺無際
有瑠慶此即恒常不変
有瑠慶此即不生不滅
有瑠慶非信非拝非願
有瑠慶可能感可能解
無一切神唯除有瑠慶
嗚呼偉大也理有瑠慶

お礼日時:2016/07/21 17:48

時間的経過のどこかと言う質問に対して


場所で答えて、嫌みを言われるほどに文章を読まれていることは
幸か不幸か。


仏教についての考えがもはや崩壊しているので、
どう答えていいのか悩みます。

これまでの自分の考えを書けば、
ゴータマ・ブッダはクシャトリヤの父とバラモンの母から生まれた
スータと呼ばれるカーストで、詩人であった。
だからゴータマ・ブッダはバラモンでありながらバラモンではなかった。
そのため、出家し、生まれではなく、行為によって真のバラモンになろうとした。

仏典の古いとされる箇所が詩だというのならば
ゴータマ・ブッダは詩人だったのか?詩を作ったのか?
という質問に対しては、詩人だった。と言える。

太陽の裔であるわけだから、太陽信仰であろうが、
スータと水星と錬金術などの関係は今後も調べるとして、保留。

ナーガールジュナもスータかどうかはわからないが、
ナーガールジュナまで調べる気がしないのがなんとも。


縁起とか四聖諦とか空とか
定番を完全に無視しているので、問題が多いと思う。


教科書のように答えろというのと自分なりの考えを答えろというのと
でかなり見解が異なるようになってきた。

まあ、それでも仏教はどちらかといえば内面的な宗教であって、
この世界を変えようとする宗教ではないと思います。

この世界こそが、浄土であり仏国土にしようという思想もあるわけですが、
私の趣味ではない。

しかしニルヴァーナは仏教のオリジナルではない。

さて、キリスト教は信仰が重要になってくるけれど、
ペラギウス主義とかあるわけで


~~~~~~~~~~~~~~

経緯[編集]
このように人間の意志は神の救いを必要としないというペラギウス主義は、人間は選択の自由はあるが究極的には救いは神の栄光から至るというアウグスティヌスの主張とは対立した。またアウグスティヌスは人間の選択の自由の中にも実は神意の采配が宿っているとしており、人間単身の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択により道が開けるとしていた。
この点でアウグスティヌスやヒエロニムスはペラギウス主義を批判し、416年のカルタゴ会議などで異端として排斥され、さほどな重要な問題とは思われてはいなかったが431年のエフェソス公会議で異端である事が再確認された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ペラギウス主義

~~~~~~~~~~~~~~


アウグスティヌスとペラギウスの争いは
今思ったけれど、
最澄と徳一

あるいは、
浄土門と禅の
他力と自力の争いのようでもあるか。

私は曹洞宗とやけに衝突するが、なんだか曹洞宗の影響を受けているのではないか
という気がしないでもない。
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この回答へのお礼

>浄土門と禅の
他力と自力の争いのようでもあるか。

人の道においては、他力とか自力とかで争う必要はございませぬ。
他力本願ではございませぬ。
自力本願でもございませぬ。
有瑠慶本願、これでございまする。

お礼日時:2016/07/21 17:39

仏教とは元々は、釈迦がバラモン思想、ウパニシャッド哲学とバラモン教、後のヒンズー教のアンチテーゼとして唱えた、ブッティズム、のようです。


漢訳で仏と訳される、「ブッ」とは、導くもの、あるいは、悟りに導くの、と訳されています。ブツ、とは何かの説話に
業、心に駆られた動物としての行動の重さ故に。もがくほど落ちてゆく地獄への坂道で苦しんでいる亡者が、そんな坂道を身軽さ故に、苦もなく横切ってゆく、目覚めた人、に出会った。
私は運が悪かったのだ。もっと早く、仏、に出会っていたなら、こんな事にはならなかった。と言った。
釈迦がそなたは本当に、仏、に出会ったはなかったのか。と言うと。ただの一度もなかった。と答えると。そなたは、自分を苦しめるもの、怪我や病に苦しむ者、そして、死にゆく者などに、出会った事はないのか。とブッダが尋ねると。そんな事なら何度もあった。と亡者は答えます。
ブッダは。それが、仏、だったのだ何故その時、自分も同じあり方であると 学ぶ=考える 事をしなかったのだ。と言った。
世に仏の有るは難く、仏に出会うは難し。と言うのが、ありがたい、の語源のようです。
仏教は釈迦が死ぬと、理解できる者がほとんどいなくなり。誤解釈が広まり。弟子たちが集まり。何度かの仏教会議が開かれ。本当に釈迦の言葉、表現か、検証し。「私はこのように聞いた」で始まる、、経典が編纂され、仏教が誕生します。やがて、当然の如く、バラモン思想からの反抗としての、大乗運動が起こり。
仏教はヒンズー教に吸収される形で滅びます。キリスト教徒や、ヒンズー教徒、また大半のに日本人が認識している、仏教、はヒンズー教、なのです。
若い頃友人となったヒンズー教徒の青年の精神性の高さに感心した事がありますが。
彼によると。多くの神々、仏像、にはそれぞれ物語、寓話、がついている。その寓話を、信仰するのが、ヒンズー教である、と聞き、古代アテネのギリシャ神話、はバラモン教、ヒンズー教と同じである。インド思想が伝わっていたのかと感じました。
釈迦の思想、哲学、はすべてを捨てよ、ただし龍だけはそのままにしておけ。とあるように。心を捨てよ、が基本であり。悟り、とは心を離れた理法の体得であり。心の状態ではありません。八正道の第一番目は、思惟、すなはち考え方、理法、なのです。釈迦の理法は、この世界のあり方、の起こり方の、根本を知る。であり。あなたの言う、世界の法則性を知る、に近いでしょう。
釈迦の理法は、すべては縁によりて起こる。縁がなければ何事も起こらない。
起こる、とは形あるものが変化してゆく、事であり、その変化の過程としての今が「空間」という認識であり。変化する=変化を起こす能力、方向性 が縁であり。現代の言葉に当てると「時間」という概念なのです。そして、時間と空間はおなじもの「=」であり、一体「✖」のものである。
空間=時間  であり、空間✖時間=1 となる。
縁=起 縁✖起=1 と言うのが。縁起の理法であり。
般若心教の、
色即是空  色(形あるもの)=空(実体のないもの)
諸法空相  あらゆる物は空によって起こるものであり、
不生不滅、不垢不浄 不増付減  新たに生まれる事も、滅する事もなく、善悪美醜もなく、増える事も減る事もない。全体世界=一定 である。
私と同じ考え方をしている。として。自分の理論に、般若理論、と名づけましたが。
その後東洋思想に目を向けると、釈迦と同じ考え方をしている者がいる事に気づきました。「老子」です。かって理解できた者が一人もいないと言われるほど難解な哲学、との評を見。きっと空間=時間
空間✖時間=世界という事が書いてある。と直感しました。読むと、般若理論と名付けたのは早まった。
道理(とうり)と名付けるべきかも、と思いました。
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この回答へのお礼

>釈迦の理法は、この世界のあり方、の起こり方の、根本を知る。であり。あなたの言う、世界の法則性を知る、に近いでしょう。

仏教本来の姿がこれであるとすれば宇宙の法則がアルケーであるとする人の道の教えと同じものであることになります。
しかし今日の仏教にそのような理念が全く見いだせないのは残念で致し方ありません。
すべて葬式仏教、戒名仏教のなせるわざなのでしょうか。


>空間✖時間=世界という事が書いてある。と直感しました。読むと、般若理論と名付けたのは早まった。
道理(とうり)と名付けるべきかも、と思いました。

「宇宙と宇宙の法則は一体である」
わたしは勝手ながらこれをアルケー理論と名付けております。

お礼日時:2016/07/21 15:00

それを知ったかぶりというのです。


答えになっていないと思うよ。
相手は宗教としての仏教を聞いているのです。
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仏教はカースト制があるヒンズーに対抗


するモノとして提唱されたため、公平、
平等を強調します。

仏教には本来天国も地獄もありません。
あれは、布教を目的として後生の人間が
創りだしたモノにすぎません。

キリスト教が神の教えに従う宗教である
のに対し、仏教は我が身をステップアップ
させようとする宗教です。
その為、修行が重視されます。

苦しみの元凶は我欲にあるから、修行により我欲を
捨て去ることを目指しますが、そんなことは
普通の人には不可能です。

だから現在では、お経を唱えるだけでよい、とか便宜的
になっています。

日本仏教は儒教と結びついて、葬式仏教に
なってしまいました。
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