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https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8810312.html
この質問を読んでいて思ったのですが、父と子と聖霊」の三位をわかりやすく解釈すると。
父→存在、子→心、聖霊→奇跡なのかな?と思ったんですが、それでよろしいでしょうか?
父」神は見えずとも唯一存在している。
子」であるイエスキリストは神の心を体現し伝承するために、現世の人物から選ばれた人。
聖霊」は神の子である人間に、他人を愛し理解を深めるために起された奇跡を成す奇跡的な事象。
と考えたのですが。

更に、使徒である天使はこの中にはなく、崇めるべきものではないのでしょうか?

A 回答 (2件)

引用された質問でベストアンサーを頂いたNo.7回答者です。



私のこの時の回答の「三位一体」の説明部分を読んで、あなたなりに
父→存在、子→心、聖霊→奇跡
と「翻訳」されたのは、大した「翻訳力」だと思います。

確かに、大筋では、その通りかなと思います。
つまり、
「父」は天地を創造し、万物の上に「デーン」と鎮座する大きな「存在」であり、
「子」であるイエス・キリストは、神の子でありながら、人間社会に降って、
貧しい人、恵まれない人などの味方となり、それまでの宗教のユダヤ教のように
「律法」を最高規範とした考えに代えて、「心」(ハート)を重視する「隣人愛」を最も重んじました。
そして「聖霊」も、「炎」、「鳩」、「風」、「息吹」などで象徴的に表わされることがありますが、確かに、
①マリアの体内にキリスト(「子」)を宿らせたり、
②「聖霊降臨の日」に弟子たちの上に舞い降りて、言語の異なる彼らがお互いに
翻訳なしで、話が通じるようにさせたりするなど、
「奇跡」を我々にもたらしてくれました。

ただ、こうしたあなたなりの「翻訳」は、あなたなりに理解するための道具に使う分には結構ですが、
「言葉」とその言葉の持つ「ニュアンス」というものには、常にギャップがあり、
人によって、その捉え方が微妙に違う面があることを、是非承知してほしいと
思います。メールなど文章で自分の意志を伝えようとする時、自分の伝えたかった
ことが、その通り伝わらないことがあるのはそのせいです(ですから、Face to Face
の付き合いが欠かせないのです。)

従って、今回のあなたの質問のように、自分なりに解釈や翻訳をして、第三者に伝える
時には、よほど慎重にやってほしいと思います。そして、あなた自身も、物事を学ぶ
時には、解釈者・翻訳者の解説をうのみにせず、極力「原典」にたどる癖をつけて
欲しいと思います。

三位一体のイメージを深めるために、もうひとつ私の以下の過去回答をご参照下さい。
聖書:三位一体
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9274728.html
(回答No.5=ベストアンサー)

最後に、「使徒」はイエスの弟子の中で最も中核に位置した12人のことであり、
その筆頭ペトロは初代教皇(ローマ法王)となりました。
「天使」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承に登場する神の使いのことです。
似ていても、異なる存在なので、「使徒である天使」などと混同しないで下さい!
「使徒」(ユダを除く)や「三大天使」(ミカエル、ガブリエル、ラファエル)は、カトリック教会の「聖人」になっていますが、「神」ではないので、「崇める」というとちょっと違う気がします。
「聖人」には、「使徒」や「三大天使」の他にも、聖職者や一般人も含め、信仰が厚かった人や、殉教した人が含まれており、カトリック教会が信仰の模範と考えている人です。(今週の日曜2016年9月4日、マザーテレサが聖人に加えられました。)
「崇める」というのではなく、親しみを込めて、その遺徳を偲び、神様への取り次ぎをお願いする、というスタンスでしょう。
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この回答へのお礼

大変わかり易くご説明、ありがとうございます。

神と子と聖霊」と言われると、別の存在を想像してしまいがちですが。
日本語訳の「三位一体」は言い得て妙な訳だということになるんですね、三位こそ神を表すもので、その全てが神を形成(目に見える形ではなく)するもので、形を表したり名を呼ぶ必要のない、神である。ということですね。

大多数の日本人が考える神や仏は、数々の存在が有り、ヒンディ等では数々の神と一人の神の化身が複数存在していて、更に複雑になっていますが、逆に言うと、一人の神しかいないというのは、科学の世界のオッカムの剃刀に似た、真理は常に単純である」というのと通じるのかな?なんても思います。

仕事上で他宗教(私自体実証主義者?なので「他」と言うのは当てはまらないかもしれません)の方と接する機会が多く(何故かキリスト・ユダヤ教徒は居ないですが^^;)仏教・神道以外は、イスラム教徒の方が比較的多いのですが、色々お話を聞いていると、結構キリスト教・ユダヤ教との絡みが多く、高校時代にキリスト教関係の団体から頂いた新約聖書も何処かへ行ってしまい、色々と調べているのですが、今回の件について質問した次第です。
特に誰かに伝えると言う、用途での質問ではなく(宗教家ではないので^^;)、誰かの話を聞くにあたっての解釈として知りたかったのです。

あと天使に関しては、なんとなく映画やアニメで見ているイメージがあったのですが、映画コンスタンティンを見ると、人でも神でも悪魔でもなく、中途半端な、神の使いの人とは違う特別な能力を有した、日本で言う所の妖怪?神の使い魔?と言った表現に感じ、何か違和感を感じたので、ご質問させていただきました。

ありがとうどざいました。

お礼日時:2016/09/14 02:15

いちどドグマ(教条)のごとく述べてみます。





父なる神は 子なる神を生みたまうた。
また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。
父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な
差なくして 持ちたまうように 授けた。
 
父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は
子を愛したまうた。
子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。
そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 
授けたまうた。


 
父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差
異がないと考えられる。
言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在で
あることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この
愛は そしてほかの権能も残らず 十全な権能として子にも与えられ
た。
(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。



 
父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこ
に――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるい
は 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力とし
て 発出したまう。

子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世
界に 派遣したもうたと考えられる。
子は 人間となって派遣された。
つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現わ
れたまうた。

それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独
り子なる神として現われたまうたと察せられる。
(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 
《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。
言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上に
やって来たまうた。



第二の・子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛
つまり言いかえるとこの第三の・聖霊なる神を 同じくこの地上に派
遣したまうたと考えられる。

子なる神は これらの神の み心を 人間の言葉で 告知したまうた。
つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。

ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはなら
なかった。

聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神
の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。
父も子もひとしく愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった
聖霊なる神が 愛であると捉えられる。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
しかしながら、教条としてご回答いただいても、根本の信心の心を持たないものには、難しい表現かもしれません。
そういう表現が、宗教のみならず神から人の心を遠ざけてしまうのかもしれません。
我々の高尚な宗教観を理解せよ、愚民ども」としか聞こえてきません。
多分そうした表現こそが、現代では宗教を面倒なものと受けてられて、敬遠されてしまうのではないでしょうか?
神が子としてのキリストに言葉や思想を伝えるために、血の通った人間の声を遣わしたのと、逆行している行為だと思いますよ。
私のような愚者でなければ、理解出来るのかもしれませんが・・・。
兎にも角にも、ご回答有り難うございました。

お礼日時:2016/09/14 02:28

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