▼ (大澤真幸:名前は 魔術的) ~~~~~~~~
1. だが 〈私〉とは何か? よく考えてみると 〈私〉としての
〈私〉 〈私〉そのものは いかようにも規定しえない空虚であるこ
とが分かる。
☆ ( bragellone の問い) なぜ 《空虚》か?
2. たとえば〈私〉は 教師である と言うことはでき 教師とは
何かという内容を規定することもできるが それらのことは 〈私〉
そのものではもちろんない。[・・・] しかし 〈私〉であるというこ
とは どの特定の述語とも等置しえないし これらの述語の総体の内
に還元することもできない。このような意味で 〈私〉であるという
こと この〈私〉が存在しているということは 原理的に規定できな
い。〈私〉は何者としての内実ももたない空虚だという意味で まさ
に「透明な存在」なのである。
☆ ウソだ! なぜなら 《わたし》とみづからを指して呼んでい
るその現実があり その主体である存在がいるのだから。
《わたしはわたしである》 この自同律でよいのだ。ほかに わ
たしが現実であることを証明するものは要らない。
3. 名前が 〈私〉のこのような〔☆ 空虚で透明な存在としての〕
局面を受け継ぐ。名前が指示しているのは この「〈私〉である」と
いうことなのである。
☆ どういうことか?
4. 名前は 何者としての規定にも解消できないものとして とにか
く この〈私〉が存在しているということ このことを指示しているの
だ。
☆ ん? わたしは《空虚》であるゆえ そのわたしの名前は《何者
としての規定にも解消できないもの》を指示している? わたしは
《透明な存在》であるゆえ その《存在している》ことをわたしの
名前〔《真幸》なら《真幸》〕が指示している?
5.[・・・] だが 同時に 名前は 特殊な魔術的とも言える効果を
ももつ。述べたように 〈私〉ということそれ自体は 空虚で透明であ
る。この点で 〈私〉は無である。
☆ 分からない!
6. だが 名前を与えた瞬間に その空虚で透明な無が 何者かとし
て存在しうる何かに転換する(かのように見える)のだ。
☆ ほんまかいな? むしろ わたしにとって《わたし》という言葉
のほうが 固有名詞であると考えられるのではないか? 固有名詞
が定まれば その存在は 空虚でも無でもない。はずだ。
《大澤真幸》という固有名詞は むしろ理論じょうは 《わたし》
を示す代名詞なのだ。
7. 名前は 空虚=無として規定されうる「何か」を存在させる効果
をもつわけだ。たとえば 〈私〉が「真幸」という名前を与えられば
何者かでもなかった〈私〉が 「真幸であるもの」に転換する。[・・・]
要するに 名前は 規定不能な空虚を未規定な存在へ 透明な存在を不
透明な実体へと転換して見せるわけだ。
(大澤真幸:『現代宗教意識論』2010 pp.298-301)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 分かりません。解説をお願いします。
No.19
- 回答日時:
とりあえず、大澤氏の論のトレースに戻ります。
補足として、「志向性」は、現象学の用語と捉えて、「志向性」は、意識が何かの対象に向かっている(もしくは、対象を内在させる必要がある)状態と考えます。
>>「〈他者〉とは (志向作用の全領域によって定義される)〈私〉のまったくの反面であり」
「志向作用の全領域」が難しいですね。 単純に考えれば、「志向作用」=「志向性」の「作用」ですから、つまり、それは「意識」そのものです。
読み替えれば、「他者とは、(意識によって定義される)私のまったくの反面であり」となります。
「反面」とは、表に対する裏ですから、一切の交わりは無いと言う事でしょう。
>>「あるいは 〈他者〉が絶対的な無限の差異であるのは それが〈私〉そのものにおける〈私〉そのものであるような差異だからだと言ってもよいだろう。」
単純化すれば、「他者との差異は、私そのものである」と言う事でしょう。(つまり、重なる事は、一つも無いと言う事ですかね?)
上記は、〈他者〉と〈私〉に一切、一致する部分が無い事=絶対的な差異がある事を強調しているだけです。
問題なのは、以下の文です。
>>「すなわち 〈他者〉とは (志向作用の全領域によって定義される)〈私〉のまったくの反面であり 結局 この意味で 〈他者〉の存在は〈私〉の存在とまったく同等なものに帰せられることになるのだと。」
これは、少しおかしいです。 志向作用の全領域とは、「意識」そのものを表しますから、「意識」から投影したならば、それは、「意識」によって規定されてしまいます。(志向性の総量は、「意識」と同等と言う事です)
当然ながら、そのように考えたら、〈他者〉は無限性を失います。(結局は、「意識」の量でしか〈他者〉は存在しない事になります)
レヴィナスの場合は、絶対的他者は、その絶対性(必ず、内在からはみ出して、志向性があふれる)から、意識にひび割れを生じます。 したがって、そのひび割れから、〈他者〉への語りかけという、内面の〈他〉への開けが生まれます。
大澤氏の文では、「意識」は、ひび割れを起こしません。(同化は、しなくても、志向は意識に納まります)
>>「このような 志向作用が自らの陰画として自らが原理的に到達できないもう一つの志向作用を示してしまうメカニズムのことを 私は――事物を捉える通常の志向作用が呈する「自己への求心化」の傾向と対立させて――遠心化作用と呼んできた。」
「自己への求心化」もよくわからない用語ですが、これは「意識」がその志向性により、〈他者〉を「同化」する事だと解釈する事は、可能でしょう。(元々、認識とは、「意識」が志向性により、対象を〈私〉に「同化」する事です)
「陰画」は、「陽画」=〈私〉に内在しませんから、確かに志向性は方向を失います。(つまり、「同化」出来ないと言う事です)
これにより、「意識」が外へ開く事を「遠心化作用」と呼んでいるようです。(つまり、大澤氏の論では、「意識」は、常に出口を持っている=開いている事になります)
この状態は、「認識」出来ないから、「意識」が外へ向かっていくと言う事です。
大澤氏のこの後の論は、どのようになっていくのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
▼ ~~~~
〔・・・〈私〉そのものであるような差異だからだ と言ってもよいだろう。
( p.246 )〕
そうであるとすれば 〈他者〉の存在は 〈私〉自身にとって 〈私〉の存在
と同等な必然性を有する ということになるだろう。[・・・] というのも
〈私〉が存在しているということは 定義上 (志向作用に対して現われる)
世界が存在しているということと同じだからだ。[・・・]
レヴィナスは 〈他者〉の顔に直面したとき 〈私〉がその〈他者〉を殺すこ
とができなくなるはずだ と述べていた。〈他者〉の顔が殺人を禁じ また不
可能にする理由は 以上の議論から理解できるだろう。
〈私〉の存在が必然であるのとまったく同じ理由に基づいて 〈他者〉が存在
していることが必然でなくてはならず その存在を否定することはできないの
だ。
〈他者〉の顔は まさに他者性の顕現において 殺害を禁ずる。それゆえにこ
そ 〈他者〉における魂の存在を――自明の前提とはせずに――あえて実験的
に実証とする者は 〈他者〉の顔に直面して 〈他者〉の殺害を試みることに
なるのだ。
顔を見ながらの殺害が可能がどうかによって 〈他者〉たる限りでの〈他者〉
の魂がそこにあるかが確かめられるからである。
私の考えでは だからこそ 酒鬼薔薇聖斗は 少女をあえて自らの方へと振り
向かせてから その顔に向けて金づちを振り下ろしたのだ。
逆に 普通の殺人者が殺害にあたって 相手の顔を直視するの避けるのは 顔
に魂が顕現することが 直観的な前提になっているからだ。
だから 逆に この前提を問い直そうとする者は 顔に直面して殺人が可能か
どうかを確認する必要があったのである。( pp.246-247 )
~~~~~~~~
☆ というようにして 酒鬼薔薇聖斗の殺人の場合の特異性を分析しているか
たちです。
一点素朴な疑問です。
★ 「陰画」は、「陽画」=〈私〉に内在しませんから、確かに志向性は方向
を失います。(つまり、「同化」出来ないと言う事です)
☆ 陰画が現像されると その映った姿を同じくして陽画になります。つまり
そのような《かたち》でしょうか これは 両者につながりがあることを物語
っていると思えるのですが?
(だから よい・わるいは いま別ですが)。
No.18
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
大澤氏は、やはり、レヴィナスを引いてはいても、かなり違う論理で進んでいるようですね。
陰画は、真逆と言う意味で使っているのかもしれませんが、当然、反転すれば、陽画になります。
集合論で言う補集合の意味合いかもしれませんが、そこでは、[私]と他者の全体性が出てきてしまいそうですね。
なんとなく、大げさな表現で、絶対的他者を表現しようとして、結果的に絶対的他者になっていないような感じがします。
失礼かもしれませんが、大澤氏の例えは、選び方を間違えているような感じですね。
単純に「絶対的他者」と言う事で表現可能な感じがします。
もともと、超越している存在ですから、比較のしようが無いって事だと思うんですけどね。
ご回答をありがとうございます。
確かにあらためて 大澤の議論は 雲をつかむようなところがやは
りありますよね。
★ なんとなく、大げさな表現で、絶対的他者を表現しようとして、
結果的に絶対的他者になっていないような感じがします。
☆ そんな感じですか。
▼ ~~~~
あるいは 〈他者〉が絶対的な無限の差異であるのは それが〈私〉
そのものにおける 〈私〉そのものであるような差異だからだ と
言ってもよいだろう。( p.246 )
~~~~~~
☆ ここをもう一度確認しましたが 引用間違いはありませんでし
た。分かりづらいですね。
▼ 〈他者〉とは (志向作用の全領域によって定義される)〈私〉
のまったくの反面であり
☆ ともあるので あたかも〈他者〉と〈私〉とは 背中合わせで
結ばれているかのようにも感じられます。
と言いますか ほんとうに雲をつかむようです。
わたしの文章にも落ちがありません。
No.17
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
レヴィナスの場合は、存在と存在者がわけられています。(ハイデッガーも同様ですが、ニュアンスは異なっています)
存在は、〈ある( ilya) 〉だけであり、名付け得ない存在です。(大澤氏が言う空虚はこの意味でしょうか?)
存在は、存在者となる事で実在する事になるわけです。
これは、〈ある(ilya)〉が、[私]=「私」に名付けられる事を意味しています。
なんとなく、大澤氏とは、ニュアンスが違いますね。
レヴィナスの場合は、〈ある(ilya)〉が定置される事により、その位置が固定し、結果として[私]=「私」に名付けられる事になります。(定置と名付けは同時です)
名付けたから、定置されるのでは無いと言う事です。
どうも、大澤氏の論は、レヴィナスとも違うようですね。
レヴィナスは、ユダヤ教の著書も多数なので、その思想にユダヤ教の流れがあるのは、確かです。
ただし、哲学的書物では、その影響はあっても、直接ユダヤ教には言及していませんし、神の解釈も、絶対的他者との関係における痕跡としての倫理作用だけです。(神には、それ以外の属性を与えていません)
あくまで、「謎」の存在です。(現前しなく、直接作用しないと言う意味で)
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~
ただし、哲学的書物では、その影響はあっても、直接ユダヤ教には言及
していませんし、神の解釈も、絶対的他者との関係における痕跡として
の倫理作用だけです。(神には、それ以外の属性を与えていません)
あくまで、「謎」の存在です。(現前しなく、直接作用しないと言う意
味で)
~~~~~~~
☆ そうなんですか。これは めづらしいと言いますか 《影響》とし
て背後に控えているのでしょうか。あるいは 《謎》だとすれば それ
でかなり語っているとも見られます。
《倫理作用》であるなら わたしには《良心》を連想させます。そして
それは 確かに神とわれとの関係の問題だとも思われますが。
★ レヴィナスの場合は、存在と存在者がわけられています。(ハイデ
ッガーも同様ですが、ニュアンスは異なっています)
☆ ここは あり得る議論(理論)だと思いますので 驚きませんが:
★ 存在は、〈ある( ilya) 〉だけであり、名付け得ない存在です。(大
澤氏が言う空虚はこの意味でしょうか?)
☆ うんぬんと運ばれると 必ずしも明解ではないように思います。
(存在性なる理論ないし存在主義の方のお話が思い浮かんでも来ます)。
モーセに名乗ったヤハヱーの名前:《わたしはある》をも連想させます。
ただし 〈ある( ilya) 〉というふうに言って 一人称ではないというの
も 独特ですね。あぁ これが三人称の主体からの・人間の対格化なの
でしょうか。
★ 〈ある(ilya)〉が定置される事により、その位置が固定し、結果
として[私]=「私」に名付けられる事になります。(定置と名付けは同
時です)
☆ 《名付け》は [私]=「私」によるのですね。(親ではなく?)
《定置》は誰がおこなうのでしょう? いえ 定置とは何でしょう?
いや 分かっていないままわたしは ああだこうだと反応しただけでし
ょう。
ユダヤ思想を直接語ってくれればよいのにとも思いますね。
No.16
- 回答日時:
補足ありがとうございます。
負の知覚とは、ちょっと意味が不明ですが、レヴィナスの場合は、他者は内在されない([私]の認識に同化しない)絶対的他者として、〈顔〉だけの存在として、現前します。
それは、内在を正と考えれば、それとは超越している存在として[私]の内在に対する負として作用すると言う事ですかね。(内在しないものは、差し引けないはずなので、負では無いような気がします。 絶対的他者ならば、正のような気がしますね。)
知覚は、認識の一部ですから、そこから撤退するならば、その知覚は内在しなければいけません。
むしろ、内在しないもので、知覚も認識もされないものが、絶対的他者ですから、撤退では無く、何も作用しないのではないでしょうか?
ただし、レヴィナスの場合、他者との関係性は、他者から[私]へ対格されていますから、その対格化によって、他者は[私]へ要求するものがあります。(それが、倫理作用です)
やはり、撤退すると言う表現は、ちょっとレヴィナスとは違うような感じですね。
同時に、大澤氏の顔は、レヴィナスの〈顔〉とは、違うようです。
レヴィナスにとっての他者の〈顔〉とは、決して認識されない、ただ存在するだけのものだからです。
つまり、その表情などは、意味を持ちません。
他者と対面する為に存在する境界面と言う意味しかありません。
ただし、大澤氏が、そこに、顔の表情の知覚とは、絶対に異なる知覚=絶対的他者の知覚を直観すると解釈できるならば、レヴィナスの〈顔〉と同等の機能を持つ事になります。(知覚であって、「認識」で無い事に注意してください)
大澤氏が、認識では無く、知覚と言う言葉を使っている真意は、後の文脈でわかるんですかね?
ううむ。ご回答をありがとうございます。
▼ (大澤) ~~~
〈他者〉が志向作用の到達不可能性において現われるということは
〈他者〉が 〈私〉を構成するこうした個々の志向作用の陰画のよ
うなものとして与えられる ということである。
たとえば 〈他者〉が顕現する原初的な場面 つまり顔において表
情を知覚する場面を取り上げてみよう。・・・( p.244 )
~~~~~~~~~~
☆ という前段がありました。あるいは:
▼ ~~~~
すなわち 〈他者〉とは (志向作用の全領域によって定義される)
〈私〉のまったくの反面であり 結局 この意味で 〈他者〉の存
在は〈私〉の存在とまったく同等なものに帰せられることになるの
だ と。
したがって 〈私〉とは絶対的に異なる〈他者〉とは そのことに
おいて 〈私〉そのものにおける差異なのである。
あるいは 〈他者〉が絶対的な無限の差異であるのは それが〈私〉
そのものにおける 〈私〉そのものであるような差異だからだ と
言ってもよいだろう。( p.246 )
~~~~~~~~
☆ いやぁ むつかしいです。〈他者〉は けっきょく〈私〉と重
なっているかにひびきます。いや 分かりません。
《志向作用》は 認識を含むようです。
No.15
- 回答日時:
哲学者は精神分裂者が多数
とならいました❗
No.13
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
レヴィナスが説く神とは、他者との関わりに対する痕跡としての「謎」です。
したがって、神が直接「わたし」に関わる事はありません。
神は、痕跡として観念に到来するのであって、観念ではありません。
これが、レヴィナスの神学及び、哲学(神の存在論)に対する批判です。
「実在するか否かという問いは究極的な問いであろうか。 意味作用の意味生成および隣人の近さの背後に神が実在するのではないかという問題を提起すること、それは,事態をはっきりさせ、『取るに足らぬもの(néant)』や口先に 惑わされたくないという欲望の仕業であると一 般には言われている。 しかし、このことは,全体性ならびに実効性の威信を証示してもいる。 存在の哲学は必ずや全体性と実効性に舞い戻るのだが、そこから通俗的な諸々の確信が生まれる。 世界に住まう人間の内存在性の目的性に背くものである意味作用に抗して、他なるもののための一者に抗して、神の実在の問題を立てることそれは存在の統一性ないし存在の存在性の一義性だけで満足することなのである。」
レヴィナスにとって、神とは、他者との関わりの中で、倫理的な束縛を痕跡として残す「謎」であり、人間が直接関わるものではありません。(つまり、他者との関わり以外では、意味を成さないものです)
したがって、レヴィナスにとって、神の実在性は問題として提起されないと言う事です。
なお、レヴィナスが語る絶対的他者とは、他者の〈顔〉として表現されます。
「私のうちにおける 〈他者〉の観念 を越えて〈他者〉が現前する様式、我々は実際それを顔と呼ぶ。こうした仕方は、私の視線のもとに主題として姿を現わすことには存していないし、ひとつのイメージを作りあげる諸々の質の総体として自らをひけらかすことにも存していない。 〈他者〉の顔は、それが私にゆだねる可塑的なイメージを絶えず破壊し、あふれる。すな
わち、私に適合した観念、その観念されたものに適合した観念、つまり十全な観念を絶えず破壊し、あふれる。顔はその質によって現出するのではなく、それ自体として現出する。顔 は自ら表出する。」
非常に難解ですが、他者の〈顔〉自体も、捉えどころの無い「謎」と考えて良いでしょう。(自己の認識を「超越」していると言う意味かもしれません)
そういう意味では、神と似ているわけです。(この段階では、神は〈顔〉すらなく、痕跡だけですから、さらに「超越」していると言えます)
レヴィナスで、難しいのは哲学的書物と、宗教的書物を別の出版社から出版していることです。
通常は、哲学的書物だけで、解釈されますが、その表現の中に宗教的な表現を見出す可能性が多大にあるわけです。
ダリアの批判もそこにあったわけで、レヴィナスが哲学では無く、宗教で哲学を批判しているのではないかと解釈したわけです。
実際問題、レヴィナスは、ユダヤ教的な思想を利用しているかに見えるわけですから、難しいです。
レヴィナス自体は、「観念に到来する神について」までは、哲学的書物では直接神に言及していません。
批判に応える為に言及したと言えるでしょう。(それまでの、レヴィナスの「絶対的他者」とは神の事ではないかとの批判に応える為です)
ご回答をありがとうございます。
★ レヴィナスにとって、神とは、他者との関わりの中で、倫理的な
束縛を痕跡として残す「謎」であり、人間が直接関わるものではあり
ません。
☆ でしたら つぎの議論は大いに重なる側面があるように思います。
☆☆(№7お礼欄) ~~~
それならいっそのこと ひとりの人間が自身において《人間は社会性
を帯びると見られる限りで 他者そのものではなくても他者とのカカ
ハリをも潜在的に有する》と想定しておくなら 《空虚ないし内実》
の問題はあまり大きな論点にはならないように思われます。
~~~~~
☆ 《関係の絶対性》という言い方も 昔ありました。
★ レヴィナスにとって、神の実在性は問題として提起されない
☆ わたしの場合は あくまで想定のもとに つねに《非知なるナゾ》
としてあり続けます。
★ なお、レヴィナスが語る絶対的他者とは、他者の〈顔〉として表
現されます。
☆ このくだりは
★ 非常に難解で
☆ したので 参照箇所として留保です。
★ (この段階では、神は〈顔〉すらなく、痕跡だけですから、さら
に「超越」していると言えます)
☆ という見方は 分かるように感じます。
大澤も《顔》のことを書いていたと思って 任意に拾い上げたくだり
を補足欄に引いておきます。
★ レヴィナスは、ユダヤ教的な思想を利用しているかに見える
☆ のが ただの見せかけなんですかね。むむ。ますます難解なよう
ですね。
No.10
- 回答日時:
レヴィナスの著作では、以下が大澤氏の著作に関連しそうですね。
「観念に到来する神について」
「全体性と無限」
ありがとうございます。
昔むかしかじったときには あれっ これは 小説なのだろうかと
思ったことを覚えています。
論点ないし結論を早く言ってくれと思ったことなどです。
▼ 観念に到来する神について
☆ これが 曲者なのだと思います。観念ではない神が 人間の
《観念に到来した》としても 絶対であるなら あり得ると見なさ
なければならないのだろうと思われます。
ただし その《初め〔の想定〕》としては 経験と非経験とではそ
のあいだに絶対のへだたりがあるとしなければならない。はずです
よね。
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言葉で表わそうとした自己が 《識別》のためではないと言うのは
言わば絶対値として自己を捉えこれを自覚するといった意味を念頭
においています。
ほかの人びとはひとまづ措いておいて おのれをおのれとして知っ
たということを表わすのが 《自己に固有の自己認識ないし自覚》
だと捉えます。
その意味で わたしにとって固有の自称は 《わたし》である。
そのわたしでは 誰もがそのように自称していては 識別しえなく
なるので 何の何某といった名前をつけて呼ぶこととしている。
というふうに考えています。したがって 文法では 固有名詞と代
名詞の規定が いま言った見方とは逆になっています。
つづき(1)
★ 個々人にとっては、[私]=「私」は常に成り立っています。ただし、
[私(A)]=[私(B)]が成り立たないのは自明ですね。
☆ それは 人格――おもには各々の自由意志がそれとして独立してい
ること――として自明です。A にも B にも《[私]=「私」は常に成り立
っています》。しかも 自由意志の専属性を傷つけません。
《[私]=「私」》という自己確認は人格の問題でもありますが この人
格ということにも 公理としてのごとく大前提があると見られます。同
じ種であるということ。それゆえ おのおのにとっては固有の名称であ
ることになっています。一般性と個別性が地続きでつながっています。
★ 「私」では 個々を識別できません。(他者を「私」と呼ぶことは
無いと言う事です)あくまで、そういう意味です。
☆ それでしたら 絶対値としての自己確認のわたしと 両立します。
つづき(2)
★ レヴィナスは、死を絶対的他者としていますから、うんぬん
☆ そうなんですか。わたしは:
★ 経験としては、外延とは言えるでしょう。
☆ に与します。
★ 死=神となるロジックは、ここでは解説されていませんね。
☆ ええ たぶん。その代わりに 人間の理性で《死を 積極的な実在
へと転換する》といったふうに《想像し操作し 酒鬼薔薇聖斗が自分の
神をこしらえたように自分でつくる》という作業を前提しているように
見られます。
★ 絶対的他者を神と置き換えれば、大澤氏のロジックになります。
☆ これは 普遍的ですね。《絶対》を前提とするかぎり。
★ レヴィナスは、「非ー知」、「超越的な場」などの想定で、神学に
切り込んでいますから、これを紐解くのも興味深いかもしれません。
☆ そうなんですか。解説本で食指がうごかなかった切りになっていま
す。ありがとうございます。
入力の間違いをただします。
☆☆ (№2お礼欄) ~~~~~
▼ (大澤) 死そのものは 本体 レヴィナスも述べているように
~~~~~~~~~~
☆ すなわち おわびして訂正します。:
○ 本来
x 本体
任意に引きます。
▼ (大澤:《顔》) ~~~~
要するに 〈他者〉は 〈私〉が知覚するとき 言わばその知覚の
裏側において この知覚から撤退していく負の知覚という形式で
顕現するのである。
このような 志向作用が自らの陰画として自らが原理的に到達でき
ないもう一つの志向作用を示してしまうメカニズムのことを 私は
――事物を捉える通常の志向作用が呈する「自己への求心化」の傾
向と対立させて――遠心化作用と呼んできた。( p.245 )
顔において表情を知覚する場面をとりあげてみよう。
顔の表情を知覚するということは まさにその顔を知覚する作用と
同権的な――しかしこの知覚には決して捉えきれないという意味で
はこの知覚とは絶対的に異なる――もう一つの知覚が顔に所属して
いることを直観することである。[・・・]( p.244 )
~~~~~
▼(大澤)
「意味」の体系としての〈虚構〉は それ自身としては 常に〔☆ 虚構でな
い《リアルで生(なま)の世界》へと〕還元されうる不安定なものでしかない。
しかし それは[・・・]世界が秩序をもち 確たる現実性(リアリティー)を
帯びるためにはどうしても必要だ。
したがって 〈虚構〉としての世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差
を無化することなく 保持することを可能にするメカニズムがなくてはならな
いはずだ。
それは どのようにして与えられるのか? 論証を省略して 基本的な構図だ
けを述べておけば 〈虚構〉が生(なま)の世界との関係で生み出す欠如は
(〈他者〉の)魂の還元できない欠如を独特な仕方で利用することによって
保持されるのである。( p.250 ~)
(つづく)
▼(大澤 つづき)
〈虚構〉の世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差を保持するためには
前者を後者の上に吊るし上げておくことができるような 固定された「フック」
が必要になる。〈虚構〉は そのフックに引っかけられることによって 生
(なま)の現象の世界へと崩落しないですむわけだ。
そのフックをもたらすものこそ 魂をもつ〈他者〉なのである。厳密に言えば
〈他者〉そのものではなく 世界から否定的に退却していく〈他者〉を それ
自身 積極的な実在へと転換し そのことによって一個の超越的な実体に変容
させたとき それが フックとしての機能を果たすのだ。
超越的な実体へと変換した〈他者〉こそが (たとえば)神である。
一度 「意味」の体系を吊るし上げるフックとしての超越的な〈他者〉が措定
されれば 「魂」そのものも一種の「意味」として把握され・・・
( p.251 )
▼
また 同時に ――超越化された〈他者〉が「魂」をも一種の「意味」とし
て把握する可能性を開いたことを考慮すれば―― そうした「意味」として
の「魂」の存在に関する想像力が支えを失い 極端な場合には 酒鬼薔薇聖
斗がまさに抱いたような 「魂」の存在をめぐる懐疑が導かれることになろ
う。
だが 酒鬼薔薇聖斗を二度目の殺害へとせきたて また実際に これを可能
にした(と本人に思わせた)ことは何か?
とりあえずは こんなふうに考えてみたらどうだろうか。少年Aは すでに
世界の現実性が破裂するのを見てしまっていたのだ と。つまり 彼は 物
の秩序がまやかしの〈虚構〉に過ぎず それは容易に変転きわまりない生(な
ま)の現象の世界の方へと崩落しうるということを また人間がとても壊れ
やすいことを すでに知ってしまっていたのだ と。
こうした体験をもたらしたものこそ・・・(大地震)・・・
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こうした体験をもたらしたものこそ この事件の二年前のあの大地震である。
[・・・]
先に 「意味」を付与された物は 現象的な変化に抗して恒常的な同一性を
保ちうる と述べた。だが 震災のような全的な破壊を経てしまえば もは
や住居は住居ではありえず[・・・]何よりも都市も都市ではありえなくなっ
てしまう。
それは 「意味」の〈虚構〉的な性格を暴き出すに十分な出来事であっただ
ろう。この出来事に立ち会ったとき 少年の中で 「意味」の保証人として
の(超越的な)〈他者〉の権威も 魂の自明性も 決定的なダメージを被っ
たに違いない。
もちろん震災そのものは 偶発的な出来事である。しかし 私は 酒鬼薔薇
聖斗の引き起こした事件が 偶発的な悲劇に由来する と述べたいわけでは
ない。むしろ逆である。・・・
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偶発的な出来事を 述べてきたような連関の内に位置づけて体験したの
だとすれば 少年の態度の方にこそ こうした体験を導かざるをえない
必然性があったはずだ。
そして 私の考えでは その少年の態度は 我々の〈現在〉を増幅して
知覚可能な閾値の水準にまでもたらしてくれる反響板のようなものなの
である。
少年の否定的な神バモイドオキは 彼がB君を殺害したタンク山の頂上
のケーブル・テレビのアンテナの位置に あるいはまた 彼が凶器を捨
てた池に 降臨したのだと考えられる。
それらの場所は 〈虚構〉の秩序によってコーティングされた 麗しい
須磨区の住宅街の真っ只中にあって なぜか「意味」を充填されていな
い空虚な間隙である。そうした空隙は 今や隠蔽されてしまった大震災
の衝撃が露呈する場所でもあろう。
「意味」の本源的な不可能性を象徴する神は こうした空隙にこそ顕現
するのだ。(完)