▼ (大澤真幸:名前は 魔術的) ~~~~~~~~
1. だが 〈私〉とは何か? よく考えてみると 〈私〉としての
〈私〉 〈私〉そのものは いかようにも規定しえない空虚であるこ
とが分かる。
☆ ( bragellone の問い) なぜ 《空虚》か?
2. たとえば〈私〉は 教師である と言うことはでき 教師とは
何かという内容を規定することもできるが それらのことは 〈私〉
そのものではもちろんない。[・・・] しかし 〈私〉であるというこ
とは どの特定の述語とも等置しえないし これらの述語の総体の内
に還元することもできない。このような意味で 〈私〉であるという
こと この〈私〉が存在しているということは 原理的に規定できな
い。〈私〉は何者としての内実ももたない空虚だという意味で まさ
に「透明な存在」なのである。
☆ ウソだ! なぜなら 《わたし》とみづからを指して呼んでい
るその現実があり その主体である存在がいるのだから。
《わたしはわたしである》 この自同律でよいのだ。ほかに わ
たしが現実であることを証明するものは要らない。
3. 名前が 〈私〉のこのような〔☆ 空虚で透明な存在としての〕
局面を受け継ぐ。名前が指示しているのは この「〈私〉である」と
いうことなのである。
☆ どういうことか?
4. 名前は 何者としての規定にも解消できないものとして とにか
く この〈私〉が存在しているということ このことを指示しているの
だ。
☆ ん? わたしは《空虚》であるゆえ そのわたしの名前は《何者
としての規定にも解消できないもの》を指示している? わたしは
《透明な存在》であるゆえ その《存在している》ことをわたしの
名前〔《真幸》なら《真幸》〕が指示している?
5.[・・・] だが 同時に 名前は 特殊な魔術的とも言える効果を
ももつ。述べたように 〈私〉ということそれ自体は 空虚で透明であ
る。この点で 〈私〉は無である。
☆ 分からない!
6. だが 名前を与えた瞬間に その空虚で透明な無が 何者かとし
て存在しうる何かに転換する(かのように見える)のだ。
☆ ほんまかいな? むしろ わたしにとって《わたし》という言葉
のほうが 固有名詞であると考えられるのではないか? 固有名詞
が定まれば その存在は 空虚でも無でもない。はずだ。
《大澤真幸》という固有名詞は むしろ理論じょうは 《わたし》
を示す代名詞なのだ。
7. 名前は 空虚=無として規定されうる「何か」を存在させる効果
をもつわけだ。たとえば 〈私〉が「真幸」という名前を与えられば
何者かでもなかった〈私〉が 「真幸であるもの」に転換する。[・・・]
要するに 名前は 規定不能な空虚を未規定な存在へ 透明な存在を不
透明な実体へと転換して見せるわけだ。
(大澤真幸:『現代宗教意識論』2010 pp.298-301)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 分かりません。解説をお願いします。
No.9
- 回答日時:
補足です。
対格化とは、相手から一方的に呼びかけられると言う事です。
死は、一方的にやってくるので、人間は死からは、対格化されます。(自殺は、この場合は考えていません)
アブラハムの例は、「神」から一方的に呼びかけられます。(したがって、アブラハムの応えは、主語を持ちません)
したがって、死→人間、「神」→アブラハムという序列が生じます。
この関係は、相対ではありません。(対等な関係では無いと言う意味です)
人間同士の場合も、名付けは、対格となりますが、A→B、B→Aが成り立っているので、第3者からは、AとBは対等に見えます。
そうでしょうね。ご回答をありがとうございます。
ただ エフィエー アシェル エフィエー。(昔は 《わたしは 有りてあ
るもの》とか訳されていました)の場合には すでに主格語は その標識辞
としては入っています。
'ehyeh は 動詞の hyeh (< √HYH ハーヤ―:有る。生きる)に e-
という自称(一人称)の標識をつけています。
おそらく アブラハムも 神に《ここにおります》と答えたとき この一人
称での活用形で言っているものとは思います。
レヴィナスなら 分かっているように推測するのですが。・・・
No.8
- 回答日時:
大澤氏の論が、レヴィナスに準拠しているとすると、[私]は、死に対格化されないと存在しません。
はたして、それが成り立つのかを考察する必要があるでしょう。
[私]がアプリオリに存在するならば、対格化は不要となります。
実を言えば、その段階では名付けや代名詞も不要ですが、[私]を言語化した言葉はあった方が便利でしょう。(行動は主語を欠く形になります)
別に、「髪を洗う」とか、「おかしを食べる」などの、行動は、主語が無くても、自分一人ならば、成り立ちますけどね。
しかし、[私]とは、何かとか考える場合は、一人称の言葉は必要でしょう。(これが、「私」なわけですけどね)
ご回答をありがとうございます。
★ 大澤氏の論が、レヴィナスに準拠しているとすると、[私]は、死に
対格化されないと存在しません。
☆ なるほど。と同時に こちらの側からは 前回(№7)のやり取り
で もし神を想定するという大前提を置いた場合には 《神 対 われ》
なる構造が――絶対性とのカカハリ(つまり 神による対格化)におい
て――すでに何らかの内実をともなったものと見ることができる。と捉
えました。
その――神との対峙の――事例は:
★ [私]がアプリオリに存在するならば、対格化は不要となります。
☆ ということを実質的に表わしているのではないかと考えます。先験
的とは 神の問題だと思われます。
★ 実を言えば、その段階では名付けや代名詞も不要ですが、[私]を言
語化した言葉はあった方が便利でしょう。(行動は主語を欠く形になり
ます)
☆ これは 信仰にかかわる存在論が扱って来ているものと思います。
《息〔≒生き〕・風》を意味する言葉――ルーアハ;プネウマ;スピリ
トゥスなど――が 絶対の領域(つまり 神)を表わすように用いられ
モーセが 神にその名を尋ねたとき 神は次のように名乗った。:
エフィエー アシェル エフィエー。
( I-am that I-am.)
(《わたしはある》 それが わたしだ。)
つまり 《わたしは ある》ですね。そして 神についてのこの《有る》
は 経験世界における《有る無い》を超えた《有る したがって 無い
でもよい》なのでしょうね。
わたしはわたしである。というよりは 《ある》のほうに重きが置かれ
ているのかも分かりません。
No.7
- 回答日時:
補足ですが、大澤氏の言う〈私〉は、[私]ですよね?
大澤氏が、[私]と単語としての「私」を区別していないから、良くわからなくなっているかもしれません。
実を言えば、大澤氏の論でも、名前を「私」と読み替えれば、成り立つのでは無いでしょうか?
そういう意味なのかもしれませんよ。
この入れ替えを行うと、以下のようになります。
だが [私]とは何か? よく考えてみると [私]としての
[私] [私]そのものは いかようにも規定しえない空虚であるこ
とが分かる。
たとえば[私]は 教師である と言うことはでき 教師とは
何かという内容を規定することもできるが それらのことは [私]
そのものではもちろんない。[・・・] しかし [私]であるというこ
とは どの特定の述語とも等置しえないし これらの述語の総体の内
に還元することもできない。このような意味で [私]であるという
こと この[私]が存在しているということは 原理的に規定できな
い。[私]は何者としての内実ももたない空虚だという意味で まさ
に「透明な存在」なのである。
「私」が [私]のこのような〔☆ 空虚で透明な存在としての〕
局面を受け継ぐ。「私」が指示しているのは この「[私]である」と
いうことなのである。
「私」は 何者としての規定にも解消できないものとして とにか
く この[私]が存在しているということ このことを指示しているの
だ。
[・・・] だが 同時に 「私」は 特殊な魔術的とも言える効果を
ももつ。述べたように [私]ということそれ自体は 空虚で透明であ
る。この点で [私]は無である。
だが 「私」を与えた瞬間に その空虚で透明な無が 何者かとし
て存在しうる何かに転換する(かのように見える)のだ。
「私」は 空虚=無として規定されうる「何か」を存在させる効果
をもつわけだ。たとえば [私]が「私」という名前を与えられば
何者かでもなかった[私]が 「「私」であるもの」に転換する。[・・・]
要するに 「私」は 規定不能な空虚を未規定な存在へ 透明な存在を不
透明な実体へと転換して見せるわけだ。
やはり、[私]が空虚なのは、言語化出来ない事が原因のようですね。
この場合の内実とは、言語化された内実です。(この段階で他者が必要になります)
レヴィナスの「わたし」の起源が他者との対格化によって成り立つという論理に起因しているような感じですね。
「創世記」第22章-1
これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
レヴィナスは、このアブラハムの「ここにおります」が、神から対格化された人間を意味するとしました。
あくまで、「わたし」は、他者から対格化されて存在すると言うふうに考えたわけです。(呼びかけに対する応えとして存在すると言う事です)
この場合は、応える主格は、対格として表現されます。(アブラハムの言葉に主語はありません)
レヴィナスの場合は、人間対人間は、お互いに対格化されますが、相互に対格化されるので、外部からは対等に見えます。
レヴィナスの論で言えば、[私]は、対格化されなければ、存在しません。(つまり他者が必要と言う事です)
では、人間が一人の時はどうなるのかと言えば、それは死と言う絶対的他者が存在しています。(人間が必ず死ぬとすればですけどね)
それだけならば、死により、人間が対格化される事になります。
大澤氏は、死=絶対的他者(との関わり)→実体化する為の名付け=神としているようです。
この段階で、人間は神から対格化されて存在する事になります。
ううーん。まづは謝謝です。
▼★ 「私」は 何者としての規定にも解消できないものとして と
にかく この[私]が存在しているということ このことを指示してい
るのだ。
☆ それは そうなのでしょうね。意味を持ち指示の機能をも持つの
が 言葉でしょうから。(身も蓋もないようにひびくかも知れません
が)。
ただ [私] また [私]が存在している ということは すでに自己
による自己の認識が出来ているということですよね? そのトートロ
ジーだけでも 《わたし》の現実存在は 主観内においては確認し得
るとは言おうとしています。
★ この場合の内実とは、言語化された内実です。(この段階で他者
が必要になります)
☆ これは 微妙なところであるように感じます。
[私]に内実がない・つまり空虚であるというのは 自己の自己への到
来がまだ主観内だけに終わっているということですよね。だから:
★ この段階で他者が必要になります。
☆ のですが 同時にですね。同時にしかも 《他者を呼んできても
〈内実〉が充実するというわけでもない》ように思えます。
《いま・ここにある[私]》という自己による確認が そのままそれと
して内実となって他者からも確認される・・・に過ぎないのではない
かと。
それならいっそのこと ひとりの人間が自身において《人間は社会性
を帯びると見られる限りで 他者そのものではなくても他者とのカカ
ハリをも潜在的に有する》と想定しておくなら 《空虚ないし内実》
の問題はあまり大きな論点にはならないように思われます。
そして この言わば自然本性としての《社会性 ないし他者とのカカ
ハリ》は そのままこのヨコの関係をタテに立てたときには:
★ 神から対格化された人間
☆ として《わたし》は 存在が確立されるのだ。と です。絶対と
相対世界との切り結びは そのように・おのづから成っている。と。
一人ひとりが《神 対 われ》なる構造を持つ存在として 人間たる
《われ》どうしとしては 神なる絶対を迂回して 空虚だと一見して
見えるわれもすでに潜在的に・想定に成る理論じょう 内実を有して
いるのだと。
★ 大澤氏は、死=絶対的他者(との関わり)→実体化する為の名付
け=神としているようです。
☆ 《バモイドウキ神》や《祖父》もが神と成り得るとしています。
No.6
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ちょっと表現がまずかったのかもしれませんが、それぞれの個人にとって、[私]が「私」なのは自明なんですよ。
ですから、言っている事は同じなんです。(自己認識に対して、それは常に成り立つと考えて良いでしょう)
→[私]にとっての固有名詞としての「私」は成り立つんです。 主体の外の他者からは、代名詞として扱われると言う事です。
「私」と言う単語自体が同じだから、個々の識別に使えないだけなんですよ。(言葉が一緒だから、識別できないだけです)
※「犬」は動物の識別に関しては、固有名詞ですが、個々の犬に対しては固有名詞ではありません。
太郎という「犬」に対して、「太郎(犬)」→「犬」は単射ですが、「犬」→「太郎(犬)」は単射にはなりません。(「犬」は、あらゆる犬に投射されます)
同様に、[私]→「私」は単射ですが、「私」→[私]は単射になりません。 そのような意味と解釈してください。
神についての識別については、特に神の意味論は含みません。(あくまで、無限操作となる識別の例です)
単なる論理操作であって、神の属性としては、この例では、全能性だけを問題にしています。
また、神の単一性も要求していません。
ですから、キリスト教で「イエス=神」がアプリオリに成り立つのが真であれば、この識別は無限操作になります。
あくまで、識別操作だけの問題と考えてください。(無限操作になるならば、それは「世界」とか、他の対象でもかまいません)
無限操作に陥る場合は、論理哲学では、それを証明できません。(数学の自然数と実数の集合の濃度比較は、一般式と対角線論法により、無限操作が不要になるので、比較自体は可能だと言う事です)
これは、集合論の論理構造の問題ですから、これの是非は考えても意味が無いです。
方法論としては、無限操作になる場合は、集合論に基づく論理哲学は、使えないと言う事です。
対角線論法は、数論の集合論的方法ですから、数値化できるものにしか適用できません。
論理学的には、命題の対応関係を数値化した際に意味を持つと言う事です。
ですから、あくまで、そのような事が可能である場合と、無限操作が矛盾無く行える場合にのみ成り立つと考えてください。
たとえば、人間の能力の全てが、自然数と一体一対応し、神の能力が実数と一対一対応する事が成り立つのならば、人間の能力の全ての濃度と神の能力の濃度は違う事はわかります。(無限を足しても無限ですから、数の比較は意味を持ちません)
ただ、そのような対応が成り立たないならば、この比較は成り立ちません。
もし、何らかの比較を行うならば、その比較の方法が集合論で矛盾無く成り立たないと、論理哲学では証明できないわけです。
人間の能力の公式化と神の能力の公式化は不可能です。 つまり、その比較は出来ない事になります。(無限操作が必要になります)
論理哲学の枠内で、証明できない事を、論理哲学以外の方法で証明できると言っても、論理哲学は受け入れないでしょう。(まさに、レヴィナスがダリアから受けた批判もそこでした、哲学の枠外から、哲学を語っても意味が無いと言う指摘です)
論理哲学で証明できないと言う事は、論理哲学では、その真偽が保証できないと言う事です。
あくまで、限定された事項として考えてください。
別の方法論で証明できるならば、それを使えば良いだけです。(レヴィナスは、そういう方法を取っています)
ご回答をありがとうございます。
《わたし》が:
★ 主体の外の他者からは、代名詞として扱われると言う事です。
☆ おっしゃるとおりだと思います。言語学は このような前提たる哲学
としての認識内容をすでに省いて 文法を立てているのだと。
★ [私]→「私」は単射です
☆ この意味で 自同律が 同語反復であっても 現実を捉えていると考
えてよいと思います。わたしは 自己に還帰しているかぎりで 《空虚》
と断定する必要はないのだと。
名前のばあいは 人によってまちまちでしょう。自分に与えられた名前も
しくは自分で自分にあとで命名したその名前が まさに自己に到来する重
要な縁(よすが)となる場合もあれば 単なるシルシだと思っている場合
もあるでしょう。(情が移ることもあるでしょうが)。
★ あくまで、識別操作だけの問題と考えてください。
☆ どうもそのようです。
★ 無限操作に陥る場合は、論理哲学では、それを証明できません。
☆ といった問題点なのですね。
★ これは、集合論の論理構造の問題ですから、これの是非は考えても意
味が無いです。
☆ なるほど。
★ ただ、そのような(一対一の)対応が成り立たないならば、この比較
は成り立ちません。
☆ なるほど。大澤の神論は 成り立たない絶対の場合と成り立つ相対の
場合との両側面を 自明のこととしてあつかっているように感じます。
★ 論理哲学の枠内で、証明できない事を、論理哲学以外の方法で証明で
きると言っても、論理哲学は受け入れないでしょう。
☆ ちょうど最近 論理演算と哲学一般との比較が 質問されていました。
たぶん 哲学は 神については《想定――仮説法(アブダクション)》を
用いて扱う道をえらぶと考えます。
★ 別の方法論で証明できるならば、それを使えば良いだけです。(レヴ
ィナスは、そういう方法を取っています)
☆ そうですか。これは 当たってみなければなりません。ありがとうご
ざいます。
No.5
- 回答日時:
神は悪魔にもなります
ほんとうですか?
あなたは見たんですか? いつ・どこで?
あるいは そもそも神はいるのですか?
どうですかねぇ。
人間が そのように想像し物語としてつくっているのでは?
人間のつくらない(想像を超えた)神はいると思いますが。
No.4
- 回答日時:
宗教もしてない人間ほど
理屈っぽくいわれます
誠実性がないだけ
欲の固まりしかない
すべて自分に替える事ばかりして
自分はよい
利己主義誰もいやがる
陰険な人間❗で小心者
なら私があなたに直接お会いすると言えば
あなたはどうしますか❗
ご回答をありがとうございます。
★ なら私があなたに直接お会いすると言えば
あなたはどうしますか❗
☆ どうもしません。と言いますか まづその心を先に尋ねる
でしょうね。
世の中もしくは人間というものを観察して その思いを述べて
おられるようです。
たぶん――わたしが率直に反応するとすれば―― 相手の発言
や誰々の文章と直接に内容をからませて 自己表現をなさった
らさらに有効の度合いが増すのではないか。とは思いました。
《からみ》と言いますか《対話》ですね。どうでしょうかねぇ。
No.3
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
部分の結合で全体を表せないと言うのは、言語学の問題では無くて、論理哲学として、集合論の構造を使う場合です。
これは、全ての集合を含む集合と言うのが存在しない言う事に起因するので、実際の言語でそれが表現されるのは、問題無いんですよ。
ですから、あくまで、操作上の問題だと考えてください。(集合論でこの矛盾を排除する為に、内延定理のみとして、外延定理を排除しています)
集合論で、無限集合の濃度を使うのも、この為です。(数え上げでの完全な比較が不可能だからです)
神と人間の識別も、単純にアポリオリに識別は可能ですが、論理哲学でこれを行うには、外延では不可能になります。I(全能性で比較する場合)
実のところ、言語でも、「神を自称する人間」が「神」でないと言う事を証明する事は不可能です。
これは、キリスト教では、顕著でしょう。
ただし、神を絶対的他者と認識している個人にとっては、アポリオリに認識されています。
言語が論理哲学的構造で識別を行っているわけでは無いですから、これ自体には矛盾は生じません。
方法として、論理哲学を使わなければ良いだけの話です。
ただし、他の証明方法を考えなければいけません。
他の例も同等とお考え下さい。
基本的に無限操作を外延で行うと、集合論では矛盾が生じてしまいます。
「わたしがわたしする」は、同一反復ですので、ちょっと例が悪いかもしれません。
識別ならば、「私は、全ての他者では無い」の方が適当でしょう。
この場合は、論理哲学の場合は、「全ての他者」が無限集合になります。
数の比較ならば、これは自明ですね。
しかし、実際の比較はどうでしょうか?
目の前にAとBがあれば、AとBが違うのは自明です。
仮に、AとBは目の前に無くて、AとBの特性が、質問によって得られる場合に、AとBを識別する事は可能でしょうか?
仮に、能力だとします。
ここで、A又はBに神が入った場合は、その全能性から、必ず神の能力の濃度は人間と違います。
したがって、AとBの識別は、無限操作でも可能です。
しかし、両方が神だった場合は、実は困難です。(両方の濃度は一緒ですから、無限操作は終わりません)
神は一つだから、それはあり得ないと言うのは困難です。(キリスト教では、神は一つですが、神格が複数あります)
数学であれば、一般式を作れば、その濃度は比較できる可能性がありますが、それは不可能です。
これは、言語としても、アポリオリに識別するしか方法が無い事になります。
言語としては、名前で識別するしかありません。
キリスト教では、「イエス=神」は、アポリオリと言う事になります。
「私」は、言語では必ず主体に従属する代名詞です。
[A]=「私」、[B]=「私」...は、主体においては常に成り立っています。
ただし、[A]=[B]にはなりません。
代名詞とは、そのような性質のものとして定義されます。
他者にとって、意味をなさないと言うのは、言語として意味をなさないと言う事です。(他者の「私」は、[私]の「私」では無いと言う事です)
個々人にとっては、[私]=「私」は常に成り立っています。
ただし、[私(A)]=[私(B)]が成り立たないのは自明ですね。
式で書けば、識別できるように見えますが、言語としては、「私」しか存在しません。
これでは、個々を識別できません。(他者を「私」と呼ぶことは無いと言う事です)
あくまで、そういう意味です。
>>「(大澤) 死そのものは 本体 レヴィナスも述べているように
〈他者〉と類比的な存在性格をもっており 経験からは決して到達でき
ない外部をなしている。その外部としての死を 積極的な実在へと転換
した姿が 神(超越的な実体としての〈他者〉)である。(p.252)」
ここら辺は、外延と経験事象との問題だと思いますが、死自体が体験するまでわからない(実際はわかると言う事は無いような気はします)と言う意味では、経験としては、外延とは言えるでしょう。
それが、死=神となるロジックは、ここでは解説されていませんね。
レヴィナスは、死を絶対的他者としていますから、レヴィナスの説明によると言う事でしょうね。
ここで、絶対的他者を神と置き換えれば、大澤氏のロジックになります。(実際は、これもレヴィナスでしょうけどね)
これを解析するには、レヴィナスを紐解く必要があります。(「神と哲学」レヴィナス著あたりでしょうか?)
レヴィナスは、「非ー知」、「超越的な場」などの想定で、神学に切り込んでいますから、これを紐解くのも興味深いかもしれません。
ご回答をありがとうございます。
★ 言語学の問題では無くて、論理哲学として、集合論の構造を使う場合
です。
☆ なるほど。了解しました。
★ 無限集合
☆ の問題も 落合仁司の議論をからめて大澤はあつかっています。取り
扱いがたいへんむつかしく・・・。
〔ちらっと言いますと 例の対角線論法であたらしい数値が見つかるとい
うとき それはあくまで有限なる経験世界における究極の数値を扱ってい
るだけであって そのような極限は 真無限としての神(それとしての第
三者の審級)とは別であるように感じます〕。
★ 「神を自称する人間」が「神」でないと言う事を証明する事は不可能
☆ これは りゅぱんさんにして 奇異です。ひとつに 神はそもそも証
明の問題ではないこと(想定によるもの)。ひとつに 人間は 神と違っ
て例外なく移ろい行かざるを得ないものです。
★ 「わたしがわたしする」は、同一反復
☆ この言わば絶対値での自己意識は 現実だと考えます。そのとき他者
をカッコに入れていますが 排除はしていません。関係性を留保していま
す。たとえば言葉の表現なることをつうじて。
★ AとBの両方が神だった場合
☆ これは アプリオリにと言いますか最初の前提が問題です。神をどう
持ち出して来たのか? 絶対として想定したのなら その両者に差異はあ
りません。
★ 神格が複数
☆ これは 《無限》が二分の一や三分の一になるわけではなく つねに
そしていづれの神格も三つに分かれると言ってもそれぞれ 無限です。
イエスなる人間が キリストなる神の子であり神であるというのは ドグ
マです。物語です。イエスは 大嘘をついて神という想定を人びとに知ら
せました。これを超える思想は ないはずです。
★ [A]=「私」、[B]=「私」...は、・・・ただし、[A]=[B]にはなりま
せん。
☆ ただし どちらも人間です。人間それぞれの代名詞が 《わたし》で
あり その《わたし》の代名詞が 何の何べえという名前なはずです。言
語学の文法は それらに先立つことはありません。
自己確認の言葉としては 個人それぞれにとって《わたし》は 固有の名
称になるはずです。何の何べえなる名前づけは そのあとの工夫です。
★ 他者の「私」は、[私]の「私」では無い
☆ でも 同じ言葉ですよね?
補足欄へ。
No.2
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
語りえないと言うのは、完全な識別が不可能と言う意味です。
ですから、部分の結合で、全体を表現するのが、困難と言う意味だと解釈してください。
それ自体を名付ける事はできるが、それを完全に他の物と識別する事が、事実上は無理だと言う程度の論理哲学用語だと解釈されるのが適当だと思います。
人間が神では無い事は自明(キリスト教の場合は、ちょっと違いますけどね)でしょうが、これをきちんと識別する為には、神の属性をすべて数え上げて、比較する必要があります。
このような操作は、不可能と言えるでしょう。
そういう意味で、部分の連結では、そのような操作が不可能だと言う結論にヴィトゲンシュタインは到達したわけです。
これは、世界とかも同じです。
単なる、操作上の概念ですから、あまり深く考えても意味がありません。
識別とは、当然ながら、なんらかの識別者を必要とします。
ただ、自身を他者と識別するのは、ある意味自明なわけですが、きちんと言語化するとなると、やっかいです。(一般的には、アポリオリに識別されますから、そのような操作をする人はいないでしょう)
ですから、このような論理哲学構造では、不可能だと言う事で、ヴィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」をまとめたわけですが、「哲学探究」では、言語ゲームとして、アポリオリに認識される事項が存在するとの見解を示しています。
本質的に、自己と他者で共有できる概念に関しては、そこに論理的な構造を不要とする概念が存在する必要があるとの見解を示したわけです。(こうすれば、語る事が可能になります)
それは、全体性言語として、認識されますから、それ自体がある実体や概念を指し示す事が出来れば、論理的に語りつくす必要性が無くなります。(これに対立したのが、アラン・チューリングの学生時代なわけですが、これも質問とは直接関係無いですね)
[私]は、当然自明です。 それを「私」に置き換えても、語る本人にとっては自明ですね。
ですから、[私]=「私」は、自己言明では完全に一致します。
大澤氏が、文脈として、空虚と言ったのが、論理哲学的な意味なのかが、不明です。
当然、他者にとっては、空虚と言うか、「私」として語る他者として、実在はしているわけですから、こちらも、空虚では無いわけです。
となると、論理哲学的な語りえない存在としての「空虚」、完全に他者に説明しきれない=語りえないなんじゃないですかね?
いきなり、自分が空虚と言っても、単なる精神疾患だと思われてしまいます。
[私]は、アポリオリに個々人に存在しています。
当然ながら、[私]にとっては、名付けは不要です。
そういう意味では、名前は単なる他者に対する識別符号でしかありませんから、代替名称ではあるでしょう。
でも、誰でも使える代名詞と言うわけでは無いです。(代名詞とは、無条件に他でも使えるものです)
これは、言語学の問題ですから、あまり深く考える必要は無いと思いますよ。
言語としての、「私」=代名詞=空虚は成り立ちそうです。
[私]=「私」は、[私]を表現するのが、「私」しかないなら、アポリオリな固有名詞と言えます。(ただし、他者にとってはそのような意味をなさないですけどね)
これは、自ー他の関係性から生まれるものですから、自己しか存在しないならば、問題にする必要が無いし、識別する必要性もありません。(自ー他に関しての、識別は、哲学的に非常に困難な問題でもありますから、また別の質問とした方がわかりやすいかもしれませんね)
世界、神と言う言葉の全体性に関しては、哲学の究極問題とされているので、実のところ何らかの哲学的解決が論理的に可能かどうかの結論が出ていません。(これは、存在論になってしまいますから、なかなかアプローチが難しいです)
少なくとも、論理哲学では、結論が出ない形になっています。(論理哲学が、集合論的構造を持つ限りは、その結論は得られない事になります)
とりあえずは、そのようなものが概念として、全体性を意味すると解釈する事になります。
全能を数え上げる事は、不可能なわけですが、単純に全能として全体を表現する事を全体性と呼ぶと解釈してください。
「世界全体は存在するか」菅沼聡氏などを参照してみてください。
大澤氏の述べている内容に関しては、自己認識の問題では無いような感じはしますね。(確実に他者の存在が前提にありそうです)
ご回答をありがとうございます。
★ 部分の結合で、全体を表現するのが、困難と言う意味
☆ 以下は言い掛かりになりますが 奈良の一地域である《やまと》が
列島全体としての日本を意味するシルシたりえました。
★ 人間と神との識別
☆ 相対と絶対 有限と無限 朽ちると朽ちないなどによる識別ではど
うでしょう?
★ [私]は、当然自明です。
☆ それは 《わたし》という自称のことばを用いて表現し自覚し自認
することをとおしてでは?
わたしはわたしである。: 1=1
《わたしはわたしである》わたしがわたしする: (1=1)x1=1
その反復: 1x1x・・・x1=1^n=1 :《わたし》の連乗積
★ 大澤氏が、文脈として、空虚と言ったのが、論理哲学的な意味なの
かが、不明です。
☆ たとえば:
▼ 6. だが 名前を与えた瞬間に その空虚で透明な無が 何者か
として存在しうる何かに転換する(かのように見える)のだ。
★ [私]=「私」は、[私]を表現するのが、「私」しかないなら、アポ
リオリな固有名詞と言えます。(ただし、他者にとってはそのような意
味をなさないですけどね)
☆ 他者にとっても他者本人において《わたし》は 《わたしの冪とし
て生きる自己同一性》であるというのが現実であるように思います。
★ 菅沼聡
☆ 勉強してみます。
★ 大澤氏の述べている内容に関しては、自己認識の問題では無いよう
な感じはしますね。(確実に他者の存在が前提にありそうです)
☆ 例の《第三者の審級》は 超越・絶対性なる神とそして人間がイデ
アとして持つ何らかの神(つまり 相対的経験事象)との両面にまたが
っています。ので 扱いづらいです。
▼ (大澤) 死そのものは 本体 レヴィナスも述べているように
〈他者〉と類比的な存在性格をもっており 経験からは決して到達でき
ない外部をなしている。その外部としての死を 積極的な実在へと転換
した姿が 神(超越的な実体としての〈他者〉)である。(p.252)
☆ 分かりません。そもそも絶対なる神は 《外部》ではなく《超越》
です。経験世界としての内部・外部を超えており そのことはむしろ経
験世界に遍在するといった推理をさえみちびきます。
《積極的な実在》だとかそれへと《転換する》だとかが おかしいと感
じます。
No.1
- 回答日時:
なかなか難しい論理ですね。
大澤氏は、ジャン=リュック・ナンシーの論理を借用したのでしょうか?
名前が無い事が、空虚を意味すると言うロジックは似通っているように感じますね。(ジャン=リュック・ナンシーは、神殿の中の神に名前が無い事が空虚を意味すると語ったわけですけどね)
「私」自体は、言語としては、代名詞ですから、それが語る人本人を意味する以外では空虚なのはある意味正しいです。
ただし、[私]([]は、代名詞としての私では無く、自己認識としての私を意味します)は、空虚ではありません。
少なくとも、語っている本人には、自明な存在のはずです。
「私」は、何者にも語られない段階では、空虚で意味の無い存在です。
つまり、それ自体では、空虚だと言うのは、自明でしょう。
ただし、語られた場合は、瞬時に語っている本人にとっては、自明な[私]です。
そういう意味では、語る本人以外では、一時的には空虚な存在とは言えるでしょう。
ここら辺は、「世界」や「神」の全体性の問題と似通ってきます。
実を言えば、「世界」、「神」も同様に空虚なわけですが、全体性としての意味は持ち合わせているわけです。
これを突き詰めていくと、同様に、「世界」の中に存在する事物も、本質的に空虚と言える状態になるわけですが、これはヴィトゲンシュタインが、「論理哲学論考」で到達した結論となります。(空虚とは、語りえない事=言葉ですべてを説明できない状態です)
ヴィトゲンシュタインは、後期の「哲学探究」では、「論理哲学論考」とは、違った結論にいたるわけですが、これは質問とは直接関係は無いでしょう。
実を言えば、名前をつけても、それはやはり全体性としての意味しか持ちません。
ただし、「私」のような代名詞とは違って、それ自体を説明できるわけではないですが、識別は可能になります。
そのような意味では、なんとなくわかったような感じになるのは確かでしょう。
物理学的には、物理存在に関しては、その量子力学的構造から、基本的に無限操作に関する矛盾は存在しないので、実際はすべての基本構造は、数え上げる事が出来ます。
ただし、意味論としては、それだけで語りつくせる可能性は無いです。
したがって、部分の連結が無限操作に陥る可能性からは、免れません。
実際問題、「世界」とか「神」とかは、そのような存在で、全体性としてしか定義できません。
[私]も本質的には、そのような意味合いを持つとは言えるでしょう。(それは、ある意味、無限に語られる可能性があります)
単純に考えるならば、全てを語ろうとしないで、名前をつければ、識別は可能と言う事です。
[名前]は、[私]の置き換えた全体性を持った名称ですから、機能的には代名詞的ですが、固有識別名称と言う機能を持ちます。
つまり、空虚=語りえない物を固有名詞でとりあえず、識別したと言う事なんでしょうね。
※補足
「世界」の事物が、本質的に語りえないのは、「世界」の事物すべてを語らないと、個々の事物を最終的に語りつくす事が出来ないからです。 これは、「世界」が全体性でしか表現出来ない事と同等になります。(個々の事物を「世界」の事物全体と比較する操作が必要だと言う事です)
来てくださいました。ご回答をありがとうございます。
(1)
★ 大澤氏は、ジャン=リュック・ナンシーの論理を借用したのでしょうか?
■ 神殿の空虚こそが、またその暗闇こそが、神殿を聖なる場とする
☆ これを参照したのですが これは神の場合ですね。人間ではなく。
隠れたる神だとか。独り神になりまして隠れきだとか。神社には 神の像は
なくまた背後の山も 依り代でしかないといった事例。(?)
(2)
★ [私]・・・は、少なくとも、語っている本人には、自明な存在のはずで
す。
☆ これをわたしも推し出しました。
(3)
★ 空虚とは、語りえない事=言葉ですべてを説明できない状態です
☆ 疑問です。
(4) 《語り得ない》というのは そう証明できたという意味――つまり
わたしの定義では 不可知――なのでしょうか?
(5) 《言葉ですべてを説明できない》というのは まったくできないの
か? それとも 一部はできるがすべてとなると無理だという意味なのか?
(6)
★ 単純に考えるならば、全てを語ろうとしないで、名前をつければ、識別
は可能と言う事です。
☆ 《識別》というのは 本人によるものでしょうか? 第三者による場合
を言うのがふつうではないでしょうか?
(7) つまり本人にとっては《自己をほかの人と識別するため》というよ
りは《自己の存在を認識し自覚する場合》に用いる言葉としていちばん《み
づからに固有の表現》は 《わたし》ではないでしょうか?
(8) 《真幸》と名づけられこの名前を 《自己に固有のシルシ》だとす
るのは ほかにもあり得る名の中のひとつに過ぎないのでは? 可変的であ
り代替可能でさえあると思うのですが?
(9)
★ ~~~~~~~
[名前]は、[私]の置き換えた全体性を持った名称ですから、機能的には代名
詞的ですが、固有識別名称と言う機能を持ちます。
つまり、空虚=語りえない物を固有名詞でとりあえず、識別したと言う事な
んでしょうね。
~~~~~~
☆ ここでも《識別》と《自己到来としての自称表現》とは別なのでは?
(10)
★ 「世界」が全体性でしか表現出来ない事と同等になります。
☆ これは 類概念のことですよね? 種と個 そして 特殊もありました
か。プロティノスでしたか。
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言葉で表わそうとした自己が 《識別》のためではないと言うのは
言わば絶対値として自己を捉えこれを自覚するといった意味を念頭
においています。
ほかの人びとはひとまづ措いておいて おのれをおのれとして知っ
たということを表わすのが 《自己に固有の自己認識ないし自覚》
だと捉えます。
その意味で わたしにとって固有の自称は 《わたし》である。
そのわたしでは 誰もがそのように自称していては 識別しえなく
なるので 何の何某といった名前をつけて呼ぶこととしている。
というふうに考えています。したがって 文法では 固有名詞と代
名詞の規定が いま言った見方とは逆になっています。
つづき(1)
★ 個々人にとっては、[私]=「私」は常に成り立っています。ただし、
[私(A)]=[私(B)]が成り立たないのは自明ですね。
☆ それは 人格――おもには各々の自由意志がそれとして独立してい
ること――として自明です。A にも B にも《[私]=「私」は常に成り立
っています》。しかも 自由意志の専属性を傷つけません。
《[私]=「私」》という自己確認は人格の問題でもありますが この人
格ということにも 公理としてのごとく大前提があると見られます。同
じ種であるということ。それゆえ おのおのにとっては固有の名称であ
ることになっています。一般性と個別性が地続きでつながっています。
★ 「私」では 個々を識別できません。(他者を「私」と呼ぶことは
無いと言う事です)あくまで、そういう意味です。
☆ それでしたら 絶対値としての自己確認のわたしと 両立します。
つづき(2)
★ レヴィナスは、死を絶対的他者としていますから、うんぬん
☆ そうなんですか。わたしは:
★ 経験としては、外延とは言えるでしょう。
☆ に与します。
★ 死=神となるロジックは、ここでは解説されていませんね。
☆ ええ たぶん。その代わりに 人間の理性で《死を 積極的な実在
へと転換する》といったふうに《想像し操作し 酒鬼薔薇聖斗が自分の
神をこしらえたように自分でつくる》という作業を前提しているように
見られます。
★ 絶対的他者を神と置き換えれば、大澤氏のロジックになります。
☆ これは 普遍的ですね。《絶対》を前提とするかぎり。
★ レヴィナスは、「非ー知」、「超越的な場」などの想定で、神学に
切り込んでいますから、これを紐解くのも興味深いかもしれません。
☆ そうなんですか。解説本で食指がうごかなかった切りになっていま
す。ありがとうございます。
入力の間違いをただします。
☆☆ (№2お礼欄) ~~~~~
▼ (大澤) 死そのものは 本体 レヴィナスも述べているように
~~~~~~~~~~
☆ すなわち おわびして訂正します。:
○ 本来
x 本体
任意に引きます。
▼ (大澤:《顔》) ~~~~
要するに 〈他者〉は 〈私〉が知覚するとき 言わばその知覚の
裏側において この知覚から撤退していく負の知覚という形式で
顕現するのである。
このような 志向作用が自らの陰画として自らが原理的に到達でき
ないもう一つの志向作用を示してしまうメカニズムのことを 私は
――事物を捉える通常の志向作用が呈する「自己への求心化」の傾
向と対立させて――遠心化作用と呼んできた。( p.245 )
顔において表情を知覚する場面をとりあげてみよう。
顔の表情を知覚するということは まさにその顔を知覚する作用と
同権的な――しかしこの知覚には決して捉えきれないという意味で
はこの知覚とは絶対的に異なる――もう一つの知覚が顔に所属して
いることを直観することである。[・・・]( p.244 )
~~~~~
▼(大澤)
「意味」の体系としての〈虚構〉は それ自身としては 常に〔☆ 虚構でな
い《リアルで生(なま)の世界》へと〕還元されうる不安定なものでしかない。
しかし それは[・・・]世界が秩序をもち 確たる現実性(リアリティー)を
帯びるためにはどうしても必要だ。
したがって 〈虚構〉としての世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差
を無化することなく 保持することを可能にするメカニズムがなくてはならな
いはずだ。
それは どのようにして与えられるのか? 論証を省略して 基本的な構図だ
けを述べておけば 〈虚構〉が生(なま)の世界との関係で生み出す欠如は
(〈他者〉の)魂の還元できない欠如を独特な仕方で利用することによって
保持されるのである。( p.250 ~)
(つづく)
▼(大澤 つづき)
〈虚構〉の世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差を保持するためには
前者を後者の上に吊るし上げておくことができるような 固定された「フック」
が必要になる。〈虚構〉は そのフックに引っかけられることによって 生
(なま)の現象の世界へと崩落しないですむわけだ。
そのフックをもたらすものこそ 魂をもつ〈他者〉なのである。厳密に言えば
〈他者〉そのものではなく 世界から否定的に退却していく〈他者〉を それ
自身 積極的な実在へと転換し そのことによって一個の超越的な実体に変容
させたとき それが フックとしての機能を果たすのだ。
超越的な実体へと変換した〈他者〉こそが (たとえば)神である。
一度 「意味」の体系を吊るし上げるフックとしての超越的な〈他者〉が措定
されれば 「魂」そのものも一種の「意味」として把握され・・・
( p.251 )
▼
また 同時に ――超越化された〈他者〉が「魂」をも一種の「意味」とし
て把握する可能性を開いたことを考慮すれば―― そうした「意味」として
の「魂」の存在に関する想像力が支えを失い 極端な場合には 酒鬼薔薇聖
斗がまさに抱いたような 「魂」の存在をめぐる懐疑が導かれることになろ
う。
だが 酒鬼薔薇聖斗を二度目の殺害へとせきたて また実際に これを可能
にした(と本人に思わせた)ことは何か?
とりあえずは こんなふうに考えてみたらどうだろうか。少年Aは すでに
世界の現実性が破裂するのを見てしまっていたのだ と。つまり 彼は 物
の秩序がまやかしの〈虚構〉に過ぎず それは容易に変転きわまりない生(な
ま)の現象の世界の方へと崩落しうるということを また人間がとても壊れ
やすいことを すでに知ってしまっていたのだ と。
こうした体験をもたらしたものこそ・・・(大地震)・・・
▼
こうした体験をもたらしたものこそ この事件の二年前のあの大地震である。
[・・・]
先に 「意味」を付与された物は 現象的な変化に抗して恒常的な同一性を
保ちうる と述べた。だが 震災のような全的な破壊を経てしまえば もは
や住居は住居ではありえず[・・・]何よりも都市も都市ではありえなくなっ
てしまう。
それは 「意味」の〈虚構〉的な性格を暴き出すに十分な出来事であっただ
ろう。この出来事に立ち会ったとき 少年の中で 「意味」の保証人として
の(超越的な)〈他者〉の権威も 魂の自明性も 決定的なダメージを被っ
たに違いない。
もちろん震災そのものは 偶発的な出来事である。しかし 私は 酒鬼薔薇
聖斗の引き起こした事件が 偶発的な悲劇に由来する と述べたいわけでは
ない。むしろ逆である。・・・
▼
偶発的な出来事を 述べてきたような連関の内に位置づけて体験したの
だとすれば 少年の態度の方にこそ こうした体験を導かざるをえない
必然性があったはずだ。
そして 私の考えでは その少年の態度は 我々の〈現在〉を増幅して
知覚可能な閾値の水準にまでもたらしてくれる反響板のようなものなの
である。
少年の否定的な神バモイドオキは 彼がB君を殺害したタンク山の頂上
のケーブル・テレビのアンテナの位置に あるいはまた 彼が凶器を捨
てた池に 降臨したのだと考えられる。
それらの場所は 〈虚構〉の秩序によってコーティングされた 麗しい
須磨区の住宅街の真っ只中にあって なぜか「意味」を充填されていな
い空虚な間隙である。そうした空隙は 今や隠蔽されてしまった大震災
の衝撃が露呈する場所でもあろう。
「意味」の本源的な不可能性を象徴する神は こうした空隙にこそ顕現
するのだ。(完)