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哲学の宿題なのですが、
デカルトは精神の存在だけではなく身体も認めた後で、精神と身体のありかたが異なるとしていると聞きましたが、「精神と身体の区別」と比べて何が異なっているのですか?

A 回答 (2件)

デカルトの場合、まず精神(魂)とは何か、身体とは何か、というのが問題でした。


精神とは考える実体であり、身体は空間的に広がった実体です。
つまり、単に区別しただけではなく、それぞれがどういうものか、あり方そのものを問題にしたのです。


さて、この区別をした後で、ではどのように合一するのか、という問題が生じました。

デカルトは心身合一を考えることはできない、ただそれを生きるのみ、としました。
そして心身の交流は「精神の座」としての松果腺(glans pinealis)において、動物精気(« esprits animaux » 直訳すれば animal spirit)を媒介にして行なわれると考えました。

一言で言えば、合一や交流の方はあまり説得力はなかったと言えるでしょう。
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なかなかくらべづらいな。

精神と身体のありかたが異なることと、精神と身体の区別、の何が異なっているか?前者は差分がでてくるな。触れない/れるとか。後者もやっぱり差分だな。区別とは事象の間にある差異を識別し認定する事だそうだ。というわけで何も異ならない。ところで、下記質問と1個目の答えが良かった。思考上にコピーする共感とそれの否定の仏陀と物理世界の三つ巴。たしょうペシミってるな。Q:デカルトの「我思うゆえに我あり」をなぜデカルト以外の人間が理解できるのですか?https://jp.quora.com/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB …
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