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『イザヤ書』が すでに何百年か前に イエス・キリストの出現を預言
していた? とか。その 53章:1-7節です。

▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~
 1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
  主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

 2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
  この人は主の前に育った。
  見るべき面影はなく
  輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
  多くの痛みを負い、病を知っている。
  彼はわたしたちに顔を隠し
  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 4:彼が担ったのはわたしたちの病
  彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
  わたしたちは思っていた
  神の手にかかり、打たれたから
  彼は苦しんでいるのだ、と。

 5:彼が刺し貫かれたのは
  わたしたちの背きのためであり
  彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
  彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
  そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

 7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
  屠り場に引かれる小羊のように
  毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~
 1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを
  だれに現わされたか ヤハヱーの腕は

 2:        けれどもかれはヤハヱーの前に
  若芽のように伸びた
  水のない土に自らを張る根のように

  かれには形がない
  飾りもないのにわれわれはかれを見ている
  見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている

 3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者
  痛みの人であって 病いと知られる

  われわれが顔を覆う時のように さげすまれており
  われわれはかれのことを思わなかった

 4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った
  われわれの苦しみはかれが担いだ

  われわれはかれのことをこう思った

    神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると

 5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ
  われわれの過ちによって砕かれた

  その懲らしめは われわれの健やかさであって
  かれの上にある
  かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである

 6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い
  一人ひとりおのが道に突き進んだ

  ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた

 7:かれは虐げられ 苦しめられたが
  口を開かなかったから

  屠り場に牽かれていく小羊のように
  毛を切る者の前に黙っている羊のように
  口を開かなかった

■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~
 1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを
  誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が

 2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを

  それはまるで水のない土の中の根のようではないか

  かれには形などない
  飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか
  見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか

  3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である
  痛みの人である 病気と知られる

  われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを

  われわれはかれのことなど気にかけていない

  4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる
  われらの苦しみをかれは身に帯びている

  われらが思うには

    かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ

  5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ
  われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても
  その懲らしめは われわれの健やかさであって
  かれの上にある

  かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである

  6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても
  一人ひとりおのが道に向かってすすむ

  ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた

  7:かれは虐げられ 苦しめられたが
  口を開かなかったではないか
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
☆ 事後の如是我聞ではなく 事前のそれです。

(あ) 《誰にとってものアース役で そのアース役の人類史じょう
最後の人》という主題は 読み取れるかどうか。 
 
(い) この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とと
もに やがて世界から必要なくなって行くと読み取れますか?

(う) 三つ目の訳のごとく 《このうたを持ちつつ現実主義に立っ
てすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?

 
☆ これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてく
ださい。

質問者からの補足コメント

  • つづき

    ★ 人間は社会に生きるのが「野生」なのかもしれませんが
    他の社会があるのにそれを「見るな」は不自然です。
    ☆ それも 宗教の問題です。オシヘは 正解なるナゾを指し示す指です。
    阿呆シュウキョウは 指の先を問い求めよとは言わなくなり 指そのもの
    を信じよと説きからかします。

    ★ 質問者さんは「そっち系」ですよね。
    ☆ 《客観的に証明》してください。

    ★ 申訳ないが一神教の致命的に悪いところは「他を認めない」ところで
    す。
    ☆ 宗教は お呼びではありません。次の質問では キリストのキの字も
    言わないと説明しています。

    【Q:イエスが なぜキリストか? ~~併せて シュウキョウの解体に
    ついて~~】

    ★ 発祥の時点では・・・いざ権力を握ると他を認めない。
    ☆ その問題については:
    【Q:ローマ教会の欺瞞】
    を用意しています。

    組織宗教は 自己解体せよと言っています。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/01 06:17

A 回答 (5件)

お礼ありがとう。



でも、自由に書きますよ。

いろいろとご存知のようですが、
それ自体が「操作されている」ので
議論のしようがないのですが。

正当を主張する人が語る中に偽証があっても
その主張する人が展開する範疇で考慮するだけでは
偽証かどうかは判断できません。

そもそもビジネス的な商談をしているわけではない。
こういうものは無制限に語るべきです。


>☆ いま伝えられている聖書にしぼって これを受け留めるという作業
>だけで 哲学は成り立つと考えます。

現状は確かに飛躍した議論になっていますが
突っ込んで源泉を探るならば、そのようになるのは当然です。
僕は盲目的に聖書を信じる事ができません。
ウソだらけだし。
客観的に見て正しいと思えるならば文句はないですが
そうではないと主張しているのに
「正しいんだから従え!この囲いの中だけで考えろ!」
は有りえません。
大好きなフレーズ「彷徨える羊」は通用しません。
人間は社会に生きるのが「野生」なのかもしれませんが
他の社会があるのにそれを「見るな」は不自然です。

質問者さんは「そっち系」ですよね。
申訳ないが一神教の致命的に悪いところは「他を認めない」ところです。
発祥の時点では散々に周囲のものを「我が物」にしたのに
いざ権力を握ると他を認めない。
そもそもの行動が矛盾していますよ。
この時点でそれを認められないのは
ご自身が論理破綻している事を知っている、という意味です。

俗世にいる典型的な成金オヤジと同じで
オラオラ!と言っているだけ。
「わしが一番や!」と根拠なく主張しているだけです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ お礼ありがとう。
☆ いいえ。きちんと説明なさろうとするご回答をありがとうございます。

★ でも、自由に書きますよ。
☆ もちろんです。批判が大歓迎です。

★ それ自体が「操作されている」ので
議論のしようがないのですが。
☆ 何しろ 経験世界を超えたナゾについて経験存在たる人間がその持て
る言葉で表現するに過ぎないからには 想像力をたくましくするといった
《飛躍》があります。

★ 正当を主張する人が語る中に偽証があっても
その主張する人が展開する範疇で考慮するだけでは
偽証かどうかは判断できません。
☆ 中身で勝負――これに尽きます。

★ こういうものは無制限に語るべき
☆ だとしても。


>☆ いま伝えられている聖書にしぼって これを受け留めるという作業
>だけで 哲学は成り立つと考えます。

★ 僕は盲目的に聖書を信じる事ができません。
☆ 《信じる》というのは 《経験合理性にもとづき考える(また 感じ
る)》とは 別です。人知を超えたナゾを 無条件にわが心に受け容れる
ことを 信じると言います。

人間の知性にうったえるべき根拠は じつは・ほんとうには ないのです。

そのあと そのナゾ――つまり 普遍神――についてわれわれ人間は 勝
手に解釈しその説明をおのが神論として 述べることをします。

〔ふつうは ただおれはこれこれの神を信じる(信じない)といった神観
にとどまります。信教・良心の自由において それも自由です〕。



★ ウソだらけだし。
☆ 表象し得ぬもの(ナゾ)について 表象しうるかたちで無理やり表現
しようとしているのです。飛躍は ウソと重なります。


★ 「正しいんだから従え!この囲いの中だけで考えろ!」
は有りえません。
☆ それは 《信じる》の問題ではなく 神観を人びと共通のオシヘにま
で広げ ここから独自の神学を展開し これらの《囲いの中だけで考えろ》
と説く宗教の問題です。

というよりは 人間の《考える》対象としてのオシヘを あろうことか 
《信じなさい》と説く阿呆が 組織宗教です。


★ 大好きなフレーズ「彷徨える羊」は通用しません。
☆ 能力もその生も有限で経験的に生きるに過ぎない人間は 知性もその
存在も 《相対性の中を生きざるを得ない》という意味です。


補足欄につづく

お礼日時:2018/07/01 06:13

No3です、お礼ありがとう。



受け継いだのではなく
本来のユダヤ民族でない「別な民族」が
それを掠め盗って自分達のものにしたんだ
という事実は御存じないのかな?

本当のユダヤの人と
そうでないユダヤの人がいて
後者のほうは
今でいうSF商法とかが得意な連中でした。
なので
昔から嫌われていて
ゆえに
非難を避けるために
大人しいユダヤの歴史を乗っ取った。

(そういう事をしている歴史から今も諍いが絶えない)

言葉遊びの背景には
こういうものも潜んでいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 受け継いだのではなく
☆ 大雑把に言って アブラハムからのユダヤ人の社会の中では 受け
継いだと言ってよいでしょう。次に見るように その共同体の内部では
――預言の内容に飛躍があっても―― 物語の整合性があります。


★ 本来のユダヤ民族でない「別な民族」が
それを掠め盗って自分達のものにしたんだ
という事実は御存じないのかな?
☆ たぶん のちにヤコブ=イスラエルとも呼ばれるユダヤ人なる民族
は アラブ人とも同じ祖先のいわゆるセム系の一種族として存在したの
であって かれらが エジプトの神の話やシュメールの神話からパクっ
たという話は聞きます。

問題は ギルガメシュ神話などから――たとえば ノアの洪水の話など
その他――数個の話素を《掠め取った》のであって しかしながら そ
の『創世記』の物語は質と格調とにおいて 先行する神話とは 比べ物
にならない哲学を秘めていると言ってよいでしょう。


★ 本当のユダヤの人と
そうでないユダヤの人がいて・・・
大人しいユダヤの歴史を乗っ取った。
☆ いま伝えられている聖書にしぼって これを受け留めるという作業
だけで 哲学は成り立つと考えます。


★ 言葉遊びの背景には
こういうものも潜んでいます。
☆ その背景事情にかんがみると どういう不都合が出て来るか? こ
れを具体的に明らかにして 互いの問い求めをすすめたほうがよいでし
ょうよ。

前回№3のお礼欄につづったイエスまでの――まったくかんたんな――
物語のほかに どういう話の筋があって それが どういう妨げになっ
ているのか? ・・・こういうご議論を期待します。

お礼日時:2018/06/30 06:25

何百年も前に預言していた、


と書くと、
なんだかすごい事に思えてしまいますが
実は、単なる言葉遊び。

何百年ものスパンがあるなら
稀有な宗教指導者が出現しても
まったくおかしくはありません。

さも、預言だったと
全く別な意味であるものを
面白おかしく曲解し流布しないよう。

キリスト教という宗教を否定するわけではありませんが
こういう一節を持ってオカルトチックに語るのはいかがなものか?

単なる、詐欺師の戯言、にしか思えません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 実は、単なる言葉遊び
☆ ですよ。ユダヤは ことばの民として 預言と称した言葉遊びを その
歴史として来ました。

まづ人に 《非思考の庭――信仰なる動態――》が 芽生えたのです。

経験思考を超えたところの心の明けです。ナゾですが 息や風なる言葉で捉
え またこれを 霊と呼びました。神です。

アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から《故郷の地を去って行
きなさい》と言われ そのようにしました。

モーセは その神に 名を尋ねたとき 《〈わたしはある〉 それが わた
しである》という答えを得たと言います。

ダヰデは 《きょう わたしは おまえを生んだ》という言葉を その神か
ら聞いたそうです。

さて イザヤに到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史
に発展しました。

  これは主がわたしに油を注いで 貧しい者に福音を宣べ伝えることを
 ゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を
 告げ・・・るためである。(イザヤ書 61:1-3)

☆ 時は飛んで イエスが《ナザレに来て・・・会堂に入り 聖書を朗読し
ようとして立ち上がった》時のことです。

  すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
 る箇所が目に留まった。

    主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。主がわたしを
   遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を・
   ・・告げ知らせるためである。(つまりイザヤ書 61:1-2 )

  イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
 は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

    ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち
     に実現した。

  と話し始めた。(ルカ福音 4:17-21)

☆ 神と人間との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここま
で及んだのだと見られます。という歴史です。

★ こういう一節を持ってオカルトチックに語るのはいかがなものか?
単なる、詐欺師の戯言、にしか思えません。
☆ という見方もあり得ましょう。

ただし たぶん予言が当たったというよりも 預言なる言葉を民族の歴史
として受け継ぎ その内容に従っただけとも見られるのです。

お礼日時:2018/06/29 05:24

これはつねにわたしたちの目の前に現れている情景



わたしたちは見えても、見えていないようにいきている。

もし、イエスが最後のひとでないのだとすると、わたしたちはなにも学ばないものだ、と言える。


キリスト教徒でもないものが、このようなコメントをしてもよいのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリスト教徒でもないものが、このようなコメントをしてもよい
のでしょうか。
☆ キリスト教というオシヘ(また その宗教組織)は 屁の河童で
す。

キリストの〔指し示した〕神というのがあり ほかにも アミターバ・
ブッダという神も 信じられています。これらの個別の絶対性として
の神は――みな 普遍神なる同じ一つの神のもとに―― 人間にとっ
て現実であると見ます。けれども そのオシヘや宗教は ただの相対
性世界としての現象です。





★ これはつねにわたしたちの目の前に現れている情景
☆ アース役とガミガミ役 あるいは 負け組と勝ち組といった上下
関係が なおまだ 身の回りの現実だということですね。

★ わたしたちは見えても、見えていないようにいきている。
☆ 《クウキ》ですからね。でも ほんとうには 誰もが知っている。
仕組みについて どうなっているかは なかなか分からないのですが。

★ もし、イエスが最後のひとでないのだとすると、わたしたちはな
にも学ばないものだ、と言える。
☆ 理論じょうは すでに成就した。その応用ないし実現化の過程が
待っている・・・でしょうか。

お礼日時:2018/06/28 21:52

東京神学大学に入学することをおススメします。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ひとは 誰しも 何らかの神についての思いや考えを持っています。

否定する場合をふくめて それは おのおのの神観です。

おれは神を見たぞというような神観もあるわけですが このような
神観が 宇宙観や倫理規範とかかわって展開されると オシヘにも
なり そこからいわゆる神学が 築かれます。

あるいは これら神観ないし神学から 哲学の――経験合理性なる
目で捉えた理論立てとしての――神論も 問い求められて行きます。



わたしが ここでやっていることは 神論です。

学問の府なら 客観的な探究が成されるとは思いますが それでも
一般には 信仰ないしオシヘに根ざした神学を 追究するというの
が 神学部でしょう。

ですから 二の足を踏みますというのが しょうじきなところです。


あいにくのかたちになりましたが しょうじきに申し上げました。

お礼日時:2018/06/28 21:42

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