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人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

質問者からの補足コメント

  • Fragments様へ お礼の続きです。

    ・・・ところで、私の兄は哲学者であり、大学で教鞭をとっているのですが、その兄と、大阪の地下鉄に揺られながら、実存主義ってなんやねんという話をした時の事。兄は無知識の私に分かりやすいように次のように説明しました。

    「要するに実存主義とは、『磯野カツオ』や。」

    ヘーゲルの唱えたアウフヘーベンによってより高尚な存在へと進んでゆく人間像に対し、実存主義の説くところは、別に高尚な人間になる必要などどこにもないし、それが人生の目的でもないと言う。それは、大したの事のない人間、磯野カツオのままで全然かまわへんって事や。と。

    レゾンデートル、存在理由が何か大仰なものと感じてしまうのは何故でしょう。それは、人間存在や自分の人生が、日常や現実存在を離れて、何か崇高でかけがえのない特別なものと思いなす我執がそこに存在するからではないでしょうか。

      補足日時:2018/12/19 13:12

A 回答 (36件中11~20件)

別の質問でのことですが 次のフラグメンツさんのご発言には わたしは


ひじょうに驚いています。それというのも アウグスティヌスからの引用文
で 《私》と言っているのは 神じしんのことだからです。

◆(【Q:言葉の力で「自分」は変わる?】№11お礼欄=Fragmentsさん) 
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10878814.html  ~~~~~~~~~~

 >食べると言っても 肉体の食物のように

 おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

 逆に おまえが私に変わるのだ。

わたしは(・・・)本を読んでも、人と話しても、結局見出すのは自分自身
であるという考え方です。ところが、先日まで交流のあった、ある哲学ブロ
グの主は、「誰に(何に)出会っても自己にしか出会わないなんて」とわた
しの意見には真っ向から反対のようでした。

読書は、或いは人との対話は、自己の発見か?或いは自己の変革か?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ キサラギさんは どう受け取られますか? お聞きしたいと思いました。
フラグメンツさんご本人にも お聞きしたいです。




《神》という特殊な文脈ではありますが けっきょくこの場合のフラグメン
ツさんは 神と対等に向き合っている――となると思うのです。

言いかえるなら 神に似るように変わる変わらないに関係なく その変化の
以前や以後の姿つまり知性や感性の状態が すでに《われとして・人間とし
て成っている》と言っていますよね?



わたしは 触れられているところの《ある哲学ブログの主》のように 《反
対》なのではありません。しかし 驚異の出来事であるように思います。

フラグメンツさんは ひょっとしたら 本意ではなかったかも知れない。で
すが 思いがけなくも ご自身の姿勢について明らかにすることになった。
のではないか?




さらに勝手な憶測をつづりますが 以前は 言わば極北の詩人であるかのご
とく 人びとと相い対して 反発を感じることもあり そういった態度をも
示しておられました。

けれども 今回は そうではなく――反発や拒否ではなく―― 何ごとをも
ひろく(寛く)受け留めておられる。何ごとも すでにご自身の内にあった
ことであるといったようにです。


このわたしの発言には 筋が通っているかどうかがあいまいなところがある
かも知れません。とにもかくにも《おどろき》の成せるわざだと採ってもら
えるとありがたいです。
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この回答へのお礼

既に私の内なるところに大人なるものの萌芽があり、それが”大人の食べ物”(=言葉)を得ることで発現する、このようなことをおっしゃっているのではないかと思いました。

そうだとするなら、フラグメントさんのおっしゃっていることは妥当だと思いますし、猪突さんのおっしゃっていることとそう食い違いはないでしょう。

ただ一連の話は多面的です。
人は沢山の何者かであります。母親であり、近所のおばちゃんであり、兄妹であり、職業人であり、一人の女であり、また名を持つ個人であり、ある人にとっては口の軽い嫌われ者であり、また別の人にとってはいざと言うときに頼りになる人であり、また趣味の人であり、堅実な人であり、おっちょこちょいな人でもあり、上げればきりがない程沢山の何者かであります。それらはそれぞれに同質ではないために、変わって何者かになるとしても、例えば性格を丸くしたいのか、とがった発想ができる人になりたいのか、何か職に就きたいのか、結婚したいのか、誰かの知己となりたいのか、はたまた立派な人になりたいとか、自由人になりたいとか、色々と想定され、その想定によってできる回答も異なります。

言葉によって人は変わるか?と言う話で、その内実が社会適応なのか、性格改善なのか、人間関係についてか、はたまた何故生きるのか?と言ったような哲学問題なのか。これらが入り混じっておるので、回答も入り混じる事になる。ただ、質問者さんは回答は得られたと仰っているので、あれでよかったのだと思います。

お礼日時:2018/12/21 19:12

哲学としての問い求めから離れて――あるいは 離れなくても ちょっと


遊び心で自由に――対話をたのしむとすれば 存在理由を《ゆめ》と置き
換えれば どうでしょう。

ならば 娼婦にも ゆめはあるはずです。こころのかようひとに会いたい
といったような。

乞食は そのあこがれを通り抜けているかも知れません。《アウグスティ
ヌスと〈愉快な乞食〉》の話を あなたの質問に投稿したことがあります。
【Q:大人になるということ】 その回答№21です。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10375829.html




レゾンデートルのレゾンには 理性・分別と道理・理屈などの意味があり
ます。

レゾンの結婚という言い回しは 愛情を二の次にして地位や財産のために
するものです。

とは言うものの レゾンへ帰るというイディオムは 《われに還る・本心
に立ち戻る》という意味を持つようです。

幅広い意味を持つようですから 《ゆめ》と言ってもよいのではないかと。
磯野カツオにもあるはずですし。

《わがゆめ あるいは わたしのあこがれ》といった話題として語るのも
よいのではと。


と言いますか 存在理由を求めるのは あくがれの問題であるかも知れな
い。――と思われました。

かくして その主題で勝手に自分の質問を立てさせてもらいました。
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この回答へのお礼

それは外れではないと思います。
一般に、存在理由と言うものは何か良いもので、自分のためになり、自分を称揚してくれるものであると考えられていると思います。

それに対し、生まれてきたことが敗北であるという感慨について、他の回答者さんが仰っていましたが、このような感慨は、存在理由としては受け入れがたいでしょう。
しかしながら、敗北という意味がそこにあるのであるならば、その人にとってそれは存在理由となるはずでしょう。好む好まないにかかわらず。敗北の味があるはずです。むしろ、嫌と言うほど味わっているのではないかと。

自己都合に良いものだけを存在理由と考えることは私はしていないつもりですが、人間の性分からしてそれを徹底することは難しいでしょう。

お礼日時:2018/12/21 15:58

こんばんは。



要するに、これはわたしとキサラギさんの視点の相違ということでしょう。
どちらが正しい。誤っている。ということではない。
よく言うでしょう、
コップに水が半分入っている。
それを「半分しかない」と見る人と「半分もあるじゃないか」と見る人、そのどちらが正しい見方であると言えないのと同じです。

つまり誰しも「カツオ」であることは充分に可能であるという視点と、
磯野家そのものが今や恵まれた家庭であるという視点の相違です。

>レゾンデートル、存在理由が何か大仰なものと感じてしまうのは何故でしょう。それは、人間存在や自分の人生が、日常や現実存在を離れて、何か崇高でかけがえのない特別なものと思いなす我執がそこに存在するからではないでしょうか。

芥川龍之介が死の直前に認めた「或る友人に宛てた手紙」の中で、ある夜売笑婦と話をした感想を、「ただ生きるためだけに生きている人間の哀しみ」と書いています。

わたしを含めたそのような「底辺」の人間にとって、「存在理由」「存在価値」などと言う言葉はひどく虚ろに響くのです。
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この回答へのお礼

私は障害者福祉の仕事をしていた時、次のように悩んだことがあります。
重度の心身障害を持つ人は、一体何のために生きているのだろうか?と。
それに対して次のように結論付け納得することとしました。
”彼らは、生きていること自体が誇りなのである。”
彼らは出来ることは自ら努力してやっている。咀嚼し、痛くとも返事は首を傾けて頷く。そのような一つ一つが彼らをして誇りをまとわせているのだと。

またそれに対して、知り合いのうつで引きこもりの方について思うところがありました。その人は布団から出られず、風呂も着替えも食事もまともにできないと言います。若い女性なのに人並みにお洒落も出来ず、どんどんと誇りを失っていくわけです。そして、世間は私たちについて十分理解していないと嘆きます。私達は普通じゃないんだと。もっと理解してくれと言います。
確かにそうでしょう。彼らの障害は、重度心身障害に比べて微量で見えにくい。見えにくいので理解するのも難しい。それは事実です。

今疑問なのは、彼らよりもはるかに重く明らかな障害を持つ人たちが誇りを保ち得るのに、彼らはなぜ誇りを失ってゆくのかと。彼らにとって辛いのは、もっと出来るはずだとか、やれば出来るはずだとか言われることでしょう。スペクトラムの中ではどこからが健常でありどこからが障害なのかは定まっておりません。しかしどこに位置しようとも、誇りを保つためには少しだけ、自分に負荷をかけなければならないという事です。
それが生きるという事であり、時の流れの抵抗を受け続けるという事なのだと。

フラグメントさんが磯野カツオにもなれない底辺で、努力しても上辺に登る能力も資質も持ち合わせてないのならば、私の言ったお茶漬けの味に類することは嫌味に映ったことでしょう。高級ブランドのバッグを持って繁華街をうろつく女子大生の様に見えたでしょうか。

お礼日時:2018/12/21 15:49

№20、Nicoさんへ。



孤独である事と無視される事は、内容としては同質であると思いますが。

また、存在への理由や価値には、その人の精神のレベルに依って現れ方が違うと思います。
秩序、ではありません。
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他者との関係性を持たなくても、自己の存在意義を持てるという心理は、自身への信頼感に依ると思います。


自信、と云う“奴”ですね。

でも、この自信には開き直りと云うレベルの心理もあるから、要注意ですよ。

回答?を次に続けます。
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この回答へのお礼

他者との関係性を持たなくても神との関係性を持つことで自己の存在意義を得られるのがキリスト教圏の個人主義であると聞いたことがあります。
宗教観に照らした場合、それに対して日本の場合は、自己修養、修行によって自信を持つようになるのではないかと思います。世間で揉まれることも修行の一環みたいな理由付けは少なからずありますし、世間を離れて一人いることも修行の一つという解釈が可能なのが日本人の持つ文化的背景であると思います。

お礼日時:2018/12/21 14:13

度々、済みません。



お礼をいただいて、他の方のご回答も読み返して、もう一度考えてみました。

アメリカ社会で生き残ってゆく秘訣は、”理性ですね感情をコントロールし、他人の評価を考えに入れながらも、それに左右されずに、自尊感情を高めてゆくこと”だと考えます。

感情が理性を凌駕し、自尊感情の低い人が、他人の共感を得られなくて、自暴自棄になると、よくご存じの、ピストル乱射事件が起こってしまいます。共感を得たいばかりに、ギャング活動に参加する選択肢もあります。

感情や共感を存在理由にすると、危険です。理性と個人主義で、割り切って、さらに、行動を伴っていかないと、後ろ向きで、傷つくことばかりの多い、悲しい毎日が続きます。進歩のない人間には、厳しい社会です。

では、日本=優しい社会ではどうでしょうか。

仲間を持ち、助け合ってゆくことが存在理由になりうるでしょうか。優しさをもって、慰めや満ち足りた家庭が、存在理由になると思いますか。そこには、個人主義は必要ないですね。他の人に必要とされている、という、存在理由もあるかもしれません。他の方のご回答を読んで、そんな風に感じました。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます^^

どうしようもなくなると、他人を殺すのがアメリカ人で、自殺するのが日本人、みたいなことが言われるのを稀に聞きますが、日本でも自暴自棄になって他傷事件を起こすことがあります。新幹線の中で鉈を振り回して他乗客を殺傷したり、車内を燃やしたりする事件がありました。何かをしなければ自分の存在が黙殺されるという事から事件が起こるのでしょう。

日本は日本で厳しいところがあります。自分を捨てて属する集団のために生きる事が当然とされるあまり、過労死も後を絶ちません。他の人に必要とされていることは日本人の中ではメジャーな存在理由の一つになっています。しかしその事が、かえって自らの存在理由を見失う事の原因の一つになっているようにも思います。集団と個人は対等でなければならないと私は思います。法律による個人の権利の強化とその周知が必要なのでしょう。集団に属してない人の権利は非常に軽んじられているのが日本です。

お礼日時:2018/12/21 14:07

再びこんばんは。



お父様とのエピソード、よくわかります。
ただ、そういうものが「レゾンデートル」というものかと言われると、多少の違和感を感じます。サキラギXさんのお話しされたことは、まさに「人生そのもの」であり素朴な「人間の生活」であって、存在価値、存在理由という哲学用語が果たして相応しいのか、と。

キサラギXさんの言われる「レゾンデートル」とは、わたしの言葉でいえば「お茶漬けの味」といったものかなと思います。映画の中では、佐分利信が、「インティメットでプリミティヴなものなんだ」と言っています。
つまり身近で些細なもの=お茶漬けの味こそが人生の妙味だと思うのです。

それが「レゾンデートル」などと言う言葉を纏うと、途端にそれはインティメイトでもプリミティヴでもない大仰な感じに聞こえてしまうのです。

ところで、誰もが、それぞれの生活に「お茶漬けの味」を持っているかというと、わたしはそうは思えません。

病院から自宅へ迎えることのできる親を持つこと、
夫婦で差し向かいでお茶漬けを食べることができること。
これは・・・きっと恵まれた人だと思います。

わたしは自分が障害者であることから、多くの心の病を持た人のブログを読んでいますが、彼らのブログに共通して一番多く使われる言葉は何だと思いますか?「死」「安楽死」「死にたい」「自分は人間の屑」・・・

わたしにとって、そのレゾンデートルは何かといえば、母の存在です。そして母の存在が消滅すれば、わたしの生きている理由も同時に消滅します。

生きている理由が単に「簡単に死ぬことができないから」という人がどれだけ多いか。

>その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。

わたしに関していえばちょっと見当もつきません。いや。まるで見当もつきません。
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この回答へのお礼

レゾンデートルは実存主義に多く登場する言葉だそうですが、その意味でも私の出した例は存在理由、他にも存在価値と言うに相応しいもののように思います。いや、まさしくそうだろうと思います。

別にこのようなエピソードでも良いのです。
休日、やりつくしたビデオゲームを何故か八時間も通して行い、気づけば午前二時を回っていた。いささかやりすぎたと思い自己の怠惰と特段やることも無い空しさを感じつつ、雨戸を閉じるためにガラス戸を開けた。途端冬の冷えた空気が頬に触れて一瞬、生きた心地がよみがえった。見上げると、星の少ない空に、雲が流れて月を半分隠していた。

このように言えば、休日に八時間もビデオゲームができるなんて恵まれているとおっしゃると思いますが、その通り、無数にある存在理由を感じることができれば人生は恵まれているのです。そして実に、現代の日本においてはこのように恵まれているはずの人々はとても多いのです。

私も二十そこそこの頃に統合失調症に罹患したサバイバーで、酷い妄想に追われて死にかけたこともあります。しかし、当時、身体的にも精神的にも最高に苦しかったにもかかわらず、自分が人間の屑だとか、安楽死したいとか考えたことはありません。ただ、どうしようもなくなったら出家しようとは思ったことがあります。

そのような私の知り合いに、引きこもりの方が居ました。年は四十くらいです。彼は働くことも出来ず暗い不安の中で暮らしていたのですが、彼の母が亡くなったのをきっかけに郵便局でアルバイトをするようになり、今では結婚もしています。母の死をきっかけに彼はレゾンデートルを取り戻したのではないかと思っています。彼のお母さまが自らの最後を通じてそうさせたのだと思っています。喪失感によって自分を取り戻すことが往々にしてあるのではないかと思う次第です。

お礼日時:2018/12/19 13:10

キサラギXさん度々お邪魔します。



図々しくちょっと場所をお借りします。申し訳ありません。

No.2の汽笛(yy8さん)

「孤独であること」と「無視され(続けている)ていること」とは全く別ですよ。
>存在理由・存在価値と云うものも人それぞれで、ピンからキリまであるように思います。
人の存在理由に序列があると?

No.5の猪突さんの「理解すること=感じること」には全面的に賛成です。

No.10のニャンポコリンさんの冒頭の意見にも100%賛成です。
まるでわたしのことを言っているようです(苦笑)

大変お邪魔しました。お詫びいたします。
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この回答へのお礼

回答者さん同士の談論も、適度な範囲でしてもらって全然OKです^^

お礼日時:2018/12/18 23:35

こんばんは、キサラギXさん。



あくまでも主観的感想ですが、今の時代、何かしら明確な存在理由を持って生きている、ましてそれを「いくつも」持っている人ってどういう人でしょう?

現実には、「しょぼい人生の言い訳」があって、辛うじて生きることができている人をわたしは多く知っています。
わたしの好きな作家の言葉に「きょうび、まともな人間はとうに狂っている」というのがあります。

>レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている

つまりわたしを含め、生きていること自体が苦役であると考えている人たちの数をキサラギさんは見積もり違っているのではないかと思います。
狭い空間の中で、やっと生存が保たれている人の存在が、あまりに顧みられていないと感じます。

わたしの好きな(彼自身は好きではありませんが)サルトル、カミユ、ベルグソンと同時代のルーマニアの哲学者、エミール・シオランの言葉。

「・・・つまり、生まれてきたことが「敗北」なのだ」
『生誕の災厄』出口裕弘訳
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この回答へのお礼

こんばんは^_^

それは、存在理由を自分に都合の良い、心地よいものだけに限定しているから、人生が苦役に思われてしまうのではないでしょうか。

この夏、父が退院するのに、自宅裏山の病院まで車で迎えに行きました。帰り、車内で阪神タイガースは勝ったのかなどと話をしながら坂道、エンジンブレーキをかけながらゆったり下りました。
親父も歳なので、病気は仕方のない事です。まだ親父を病院から連れ帰る事ができるしあわせと、連れ帰る事が出来なくなくなる日が遠からず来るであろう事の堪え切れない寂しさとが入り混じって去来し、他愛のないスポーツの話題は遠い蝉時雨の様に聞こえました。

私は、存在理由の味とはこう言うものだと思っており、この様な事が人生には無数にあってそれは言葉にはし尽くせない程だと言うのです。

少なからずの人が、存在理由と言うと自分の人生を全肯定してくれる様な全能の理由を想定する様ですが私は違います。人生の微妙な味わいのその全てが意味であるのです。

ですから回答者さんにも、無数の存在理由があるであろう事は想像に難くない。私の言っている様な事はレゾンデートル、存在理由とは言えないと言う意見もあるかも知れませんが、その際はその旨仰ってください。その私の見解とは異なるレゾンデートルとは何かを聴きたく思います。

お礼日時:2018/12/18 04:51

いやいや、気を悪くすることなど、全くありません。

まっとうなお礼をありがとうございます。ご意見は、よくわかります。

私もたまに、日本のヤフーニュースを読みます。それで、アメリカのヤフーやハフィントンポストのニュースが、そのまま、検証もされずに、翻訳されただけで、日本に流れているのは、問題だと思います。反トランプ政権の偏ったニュースが、そのまま、日本人に間違ったアメリカ像を植え付けてしまうんじゃないか、と危うく感じます。

うちは、夫がサウジに赴任中の石油関係のエンジニアです。オバマ元大統領は、石油産業の最大の敵でした。スピーチの度に、”石油会社は、もっと税金を払え。環境破壊の責任をとれ。”と、目の敵にしていました。ですから、テキサス州は、州をあげて、トランプ氏のバックアップをしました。歴史的に共和党の独裁州ですが、今回は特に、力が入っていました。

確かに、貧困白人のイメージがあったオハイオ州が、勝敗の決め手にはなりましたが、製造業・石油精製業・建築業・保険業は、法人税と高く設置し、環境問題に厳しいオバマ氏の政治方針がこのまま続くと、海外との競争力が低下し、利益が上がらない状況でした。現にIT産業は、すでに海外に拠点を移し始めていました。ですから、それに反対するトランプ政権が誕生してから、株価高騰が続きました。ご存じのとおり、アメリカでは、利潤の追求が正義です。

日本では、なぜか、報道されなかったのは、アメリカでは、それは報道しなくても、誰もが知っている事実だったからだと思います。(もちろん、貧困白人のファクターもありました。)

ベトナム戦争についても、ご意見、ごもっともです。ただ、ブッシュ氏が志願兵だったのに比べ、ベトナム戦争では、クリントン・トランプは、兵役逃れをしたといわれています。

アメリカの戦った他の戦争は、利潤追求のためでしたが、ベトナム戦争は、キューバ危機のこともあり、”反共のため、イデオロギーのための戦争”だったといわれています。あれをしなければ、米国の駐留していない日韓を除いたアジア全体が、共産主義になっていたかもしれません。アフガニスタンは、ソビエト侵攻の後、現在でも戦争が続いています。アメリカ国内で、反対の声が多いです。(利潤の追求とは関係がないので。)でも、テロリスト養成所がある以上、やめるわけにはいかない状況のようです。養成所の資金は、明らかにロシアから出ているでしょう。

”いつの日も、大衆の気持ちは時代の表面で揺れていて、その深層には到達しないのでしょうか。”

とても、意味のあるお考えです。政治は、汚いです。汚いから政治だといえます。平和を維持するために、裏でどれだけの、裏取引が行われているか、私達庶民には、絶対にわからないでしょう。それは、幸福なことかもしれません。

そんな風に、私の心に届きました。

これだけでは、回答にならないので、最後に、アメリカ人の考える存在理由は、お金儲けをするためと、社会を変えてゆくためです。はっきりしています。
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この回答へのお礼

なるほど。日本にはアメリカの国内事情が均質に入ってきているのではなく、反トランプメディアの情報に偏っているのですね。実際にはトランプの施策にも妥当性があるのでしょう。日本のメディアではトランプ氏の派手なパフォーマンスの印象ばかりが語られています。実質を置き去りにしていて残念なことです。メディアは意図をもって報道しますから。

イデオロギーについて。何主義でも人々を幸せに導いたのならそれが正解なのだと思います。ベトナムの選択を何より優先すべきであったのではないでしょうか。

アメリカ人の存在理由はかくも単純なのでしょうか。アメリカ人と接する機会もほとんどないので分かりませんが、ciaopolpoさんが断言するほどですからそう言う面は色濃いのでしょう。その様に考えると、日本人の存在理由は何でしょうね。

お礼日時:2018/12/19 13:29

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