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背理法以外の論証法について

論証法の特殊な例として背理法がよく挙げられます。ところで、論証法は他にはどのようなものがあるのでしょうか。背理法などではない、通常(?)の論証は背理法に対して、どのように呼ばれるのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (23件中11~20件)

★(№12お礼欄) 整理した後に、なぜ神は非知なる非経験の場である


のか、それはこれこれだからだ と論拠を示すことではないですか。
☆ だから 《非知》だと――想定の定義じょう――言っています。

《無根拠にて》 そうなのだという理論です。それが 普遍神である。つ
まり絶対性とは そういうものだという理論です。
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この回答へのお礼

たとえば、神そのものが非知で非経験であったとしても、知や経験とはどういったものなのか、どういったものが非知でどういったものが非経験なのか といった方向性から思索すれば、神について直接思索せずとも、神がどういった形なのかあぶり出すことが可能でしょう。実際、カントは認識、ウィトゲンシュタインは思考に注目して、そのようなことを行なったわけです。

仮に、貴方様の仮定を受け入れるとしても、神の非知性・非経験性と貴方様が神の非知性・非経験性について雄弁に語っていることそのことが矛盾するように思われます。

お礼日時:2019/01/12 20:24

★(№11お礼欄) 私的な用語整理でしょう。


☆ 私的な用語整理をしなかった理論はないでしょう。
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この回答へのお礼

おっしゃる通り、用語整理は確かに理論に必要なものですが、それだけでは理論として十分でありません。

理論において最も肝心なことは、非知や非経験という用語を定義し、神は非知なる非経験の場であると整理した後に、なぜ神は非知なる非経験の場であるのか、それはこれこれだからだ と論拠を示すことではないですか。

お礼日時:2019/01/12 19:49

№10です。

仮説法の実際をごらんに入れます。

       *

☆ 【Q:普遍神という一般絶対性 および 信仰という個別絶対性の理論】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10907684.html

1. 《絶対》とは いかなる座標によっても規定することのできないナゾ
である。じっさいに:
 
 (あ) 経験事象としての有る無しを超えている
 (い) 因果関係から自由である

といったところの場ないしチカラである。
そのように想定しこれを 《非経験の場》とよぶ。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

 (う) 《非知》とは何か?

   経験事象(感性および理性によって知り得るか知り得ないかが知り
        得る対象)
     可知(人間の能力の十全におよぶところ)
       既知(ただし 間違っていたとあとで知る場合もある)
       未知(やがて既知となるであろうと捉えたものごと)
     不可知(知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場(絶対性・無限)
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

3. 非知なる非経験の場 これが 《神》である。普遍神である。

4. 普遍神が 一般絶対性のことだ。





5. この普遍神は: 

 (え) 具体的にはいくつか個別には分かれていてそれぞれ特定の名がつ
    けられている。ヤハヱ―とかアッラーフとか。
 (お) また 名がついていて《有る神》である場合のほかに 《無い神》
    として捉えられ受け容れられている場合もある。

6. つまり 有神論(そしてその中には ブラフマン神もブッダもヤハヱ
ーもいる)および無神論があり これらがそれぞれ 個別絶対性を成し そ
れとして個別の神である。すべてそれぞれは 普遍神のことである。

7. ふつうには 名のついた個別の神を――普遍神として――無条件で無
根拠にて心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考
の庭》が成る。信仰という動態を言いかえたものである。

8. 信仰はつまり非思考の庭は 身と心とから成るヒトの自然本性に ぷ
らす α としてやどる。と表現されるようになった。

 (か) 《信じる》と《考える》とは 別である

   【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心
   ---------------------------
   【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス





9. 非思考の庭――信仰なる動態――は 霊なる神を受け容れる人間たる
器(ミクロコスモス)とその霊という対象(マクロコスモス)との一体性と
して示される。

 (き) 信仰の形態は《梵我一如》なる類型として一般化し得る。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然および 自然。普遍神の分身として捉えられている)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ
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この回答へのお礼

1. 2. からどのようにして 3. が帰結するのでしょうか。

1. 2. において 神 について全く言及されずに、 3. において突然 神 が登場する点がよくわかりません。

仮に、神が、いかなる座標によっても規定されず、知りうるか知り得ないかが知り得ない存在だ、だから、神は非知なる非経験の場である という話なら、それは仮説ではなく、私的な用語整理でしょう。

お礼日時:2019/01/12 17:53

コメントをいただきました。



★ (№9お礼欄) 仮説演繹法は検証・反証が不可能な神に対しては
用いることができません。
☆ 仮説演繹法が 仮説法とどう違うか 知りません。

問題は:
★ 検証・反証が不可能な神
☆ というふうに 神がすでにあらかじめ規定されているということで
す。

論点先取のあやまちではないでしょうか?




問い求めるときに すでに初めにその対象は《検証・反証ができない》
と規定しています。ならば わざわざ定義する必要もありません。

検証・反証が 《仮設する想定上の定義にもとづき》――仮りに――
成し得る。はずであり そのまさに《仮設した構成において》 経験
事象との――やはり仮りの――照合ができるならば なんらかの〔議
論の〕結論が得られるはずなんです。

神を 不可知ではなく 非知として定義する場合です。
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この回答へのお礼

私は仮説法という用語をここではじめて知りましたが、仮説演繹法を省略して呼んでいるのだろうと思っていました。要するに、私が使う仮説演繹法は仮説法と同義と考えていただいて差し支えありません。

神が認識や思考の限界を超えていることは、カントやウィトゲンシュタインによって証明されました。そして、現代哲学において、これらの主張は常識(前提)となっています。

もちろん、カントやウィトゲンシュタインの主張を疑うこともできるでしょう。ただ、哲学の世界でそれをすることは、たとえば、科学の世界において、ニュートンの法則を疑うことに相当します。このレベルの常識を疑う場合、根拠を示す必要があるのは、むしろ、疑う側でしょう。神が存在するという根拠やカントやウィトゲンシュタインの論証について不備があった箇所を指摘しなければなりません。また、批判の結果、現体系よりも説明力のある体系を生み出せることも示さなければなりません。

以上の哲学の世界の常識に依らずに哲学をしている場合もあるでしょう。たとえば、東洋哲学のようにです。ただ、それでも、同じ哲学である以上、カントやウィトゲンシュタインの論証は(先輩としてではなく)ライバルとして現れるでしょう。結局、彼らの論証を説得力のある形で論駁しない限り、神の存在を共通の見解とすることはできません。

お礼日時:2019/01/12 15:52

まささんのお説に盾突くものではありません。



そもそも論証法について答えろと言われても 無知です。

仮説法について 分かっているところを確認しておきたいためのみです。

次の図式で説明しうると思います。

 Deduction: Rule→ Case→ Result
 (演繹法: 大前提→ 小前提→ 結論)

 Induction: Case→ Result→ Rule
 (帰納法: 小前提→ 結論→ 大前提)

 Abduction: Result→ Rule→ Case
 (仮説法: 結論 → 大前提→ 小前提)



☆ 仮説法は 初めに・勝手に結論を掻っ攫ってしまう方法です。誘拐
(アブダクション)から議論を始めます。

これは 《想定》するわけで その想定内容が経験事象や〔主観真実と
してのであってもそれを広く捉えた〕現実性に合っていれば 初めの結
論が 仮説として成功したことになるのだと思います。



経験科学においても用いられるでしょうけれど 超経験なる神について
哲学するときには どうしてもこの仮説法によるしかないのだと思われ
ます。

というのも 帰納法でやろうと思えば 種々の場合( Cases )をぜんぶ
集めて来なければならないかも知れません。

演繹法を用いようものなら 初めの《 Rule (大前提)》でおそらくすで
に結論の内容を持って来なければならなくなるはず。したがって それを
想定として持ち出すのでなければ 論点先取の間違いを犯すことになりま
す。





蛇足のごとく・・・。
つまり 初めの仮説(想定)とするものは 次のごとく説明されています。

▲(ヘーゲル:絶対知) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この美しき魂は 純粋な透明な統一において 自己自身を自ら知ることで
ある。

すなわちそれは 純粋自己内有についてのこの純粋知が 精神であると知
っている自己意識である。・・神的なものの自己直観でもあるような自己
意識である。

この概念は その実現に対立して固定されるときには 一面的な形態であ
る。

われわれが見たところではこの形態は 空しい蒸気となって消えてしまう
が 積極的に外化し進んで行くものでもある。
(『精神の現象学』 樫山欽四郎訳 1973 F 八 (554))

▼(アウグスティヌス:非知について) ~~~~~~~~~~~~~~

到達する人自身がそこに留まるのではなく その眼差しそのものは言わば
そこで撃退されて はね返され そして移ろい行かないもの(☆ 非知)
の移り行く思惟が生じるのである。
(『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975 vol.12 ch.14 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ すなわち: 
▼ 移ろい行かないもの(☆ 非知)の移り行く思惟が生じる
☆ その思惟を 仮説としての結論に想定するのである。その思惟は・つ
まり:
▲ この〔☆ 概念の〕形態は 空しい蒸気となって消えてしまうが 積
極的に外化し進んで行くものでもある。
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この回答へのお礼

あくまで私見ですが

まず、大前提や小前提はアリストテレスの三段論法、すなわち、演繹法において用いられる概念であり、帰納法や仮説演繹法において用いることのできる概念ではありません。

実際、具体的な推論に置き替えてみると分かると思いますが、たとえば、貴方様の図式において、帰納法の小前提と結論の違いが判然としません。また、一般的に、仮説演繹法で最終的に導出されるのは、個別のケースではなく、法則でしょう。(もちろん、その法則から個別のケースを予測することはあると思いますが、それは仮説演繹法ではなく演繹法です。)

仮説演繹法の理解については、他の回答者様のおっしゃる通りです。仮説演繹法は検証・反証が不可能な神に対しては用いることができません。というより、むしろ、このような推論法の登場は、哲学から神を排除することを後押ししたでしょう。

お礼日時:2019/01/12 14:30

論証法は、大きく分けると演繹(えんえき)法と帰納法の2つしかないと思うが。


なお、背理法、数学的帰納法の2つは演繹法に属し、仮説法は帰納法に属する、という理解でよいと思うが。
※仮説法は演繹も使っているけれど、マクロ的には帰納法。

演繹法:前提の組み合わせで結論を出す。 前提を間違えると結論はアウト。
帰納法:結論から前提を逆算で求める。  全結論を網羅していない場合、逆算が正しいとは限らない。

で、仮説法を「神のように経験事象を超えているものの場合」とか言っている御仁がいるけど、そうじゃないです。
仮説法は、科学における基本ルール。つまり、経験事象にしか通用しない方法です。
例:光は粒子か波か?(それぞれ、粒子説、波説)。 → 干渉という現象がある、これは粒子説では説明できない。
  よって、波説が正しい。 →精度を上げて測定したら、どんな条件で計測しても光速一だった。
  →相対性理論。その他類似説。 →相対性理論が正しければ、重力場で光は曲がるし、その他説が正しければ
  光は曲がらない。で、観測してみたら、確かに光は曲がった。よって、相対性理論が正しい。
相当端折っているけど、こういう順序で論証していきます。
 ※上記のうち、「相対性理論が正しければ、重力場で光は曲がる」の部分は純粋な演繹。

一方、「経験事象を超えているもの」は、定義により、正しいかどうか判別することができない、ので、
論証不能に陥ります。
論証不能の例:
 神を信じれば願いか実現する。
  実現した→神を信じたから。 実現しなかった→信仰が足りないから。
 要するに、「神を信じれば願いか実現する。」が、間違っている場合が存在しないわけで、
 命題は正しいとしか言えないけれど、こういうのを反証不能命題と言い、科学では取り扱いません。

なお、科学では取り扱わない、というのは、科学者は信仰を持っていない という意味では無いです。
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この回答へのお礼

参考になりました!
ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/12 14:31

たんぞう氏の回答にあるように 因果関係〔および 自同律〕で推論を


引っ張るのではないのですか?


◆ 宇宙の本体(真実・実体)は精神か?
☆ その場合の《精神》というのは 唯心論の究極の存在たる《第一形相》
のことです。

《世界精神》と言い ふるくは 《宇宙霊魂:プシュケー・トゥー・コス
ムー》とか《世界霊魂:アニマ・ムンディ》とも呼ばれました。

要するに 《神――普遍神――》であり それは 《超自然・超経験・無
限・絶対性》です。

人間の精神(心)とは 別です。
《実体》というのは 神のことを言います。
《真実》は 人間のおのおの主観としてのほんとうのことを言います。
神は 《真理》という言葉を当てます。


◆ 物質は千変万化して一時も停滞する事がないからです。これでは物質
を実体とは受け止められませんね。
☆ ふつうに言う物は 質料と言います。

質料をさかのぼって究極の質料を 《物質》と言います。

・ 形相( form )→第一形相:世界精神・・・唯心論
・ 質料( matter )→第一質料:物質・・・・唯物論

どちらも 究極の存在は 神のことです。ゆえに 有神論と無神論とは互
いにウラオモテを成すかのようにして 同じことです。



◆ 背理法
☆ は ここでは なじまないと思います。

◆ 直接的論証と間接的論証。
☆ よく知りません。論証は 初めに触れましたように 自己同一性と因
果律とで 議論を引っ張って行くものと思います。

ただし 神のように経験事象を超えているものの場合には 《仮説法:ア
ブダクション》を用いて理論立てるはずです。



★ 精神活動〔と〕肉体活動
☆ ヒトに生まれつきそなわった自然本性は 身と心です。身体と精神で
す。つまりまた 感性と理性です。

身と心とは 一体だと思いますよ。分析するときに分けて捉えますが。

そして 初めの《世界精神》は――あるいは 《物質》は―― 身と心あ
るいは感性と理性をも超えています。したがって 《霊》といった言葉で
表わされます。《風あるいは息》といった意味の言葉が当てられます。
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宇宙の本体は精神である事の証明を背理法で試みます。


先の私の回答?は冒頭部分からヘンテコだから。

宇宙の本体は精神ではないとするならば、それではなぜ生命に精神が存在するのかという説明が出来ない。

でも、この世は宇宙の大精神の意思・意力の働きによって存在するからだ、とすれば生命に精神が存在する事の説明になる。

☆ やっぱり変でしょうか。無理がありますかね。
☆ 自己添削です。
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ブラジュロンヌさん!


私の回答?を添削してくれませんか。

手を加えようにも、手の施しようがないと云うのなら無理は云いませんが。
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待遇法


反例法
数学的帰納法など
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この回答へのお礼

参考になりました!
ありがとうございます!

お礼日時:2019/01/11 09:41

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