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『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980 )から次の
主題を取り上げ問います。

§ 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは 弟子アーナンダの不明の
所為か?

▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 
 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだで
 も留まり得るであろう。
 
と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 
尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察するこ
とができなくて 尊師に対して

《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益
のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。

それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・

(中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか? 悪魔に取
り憑かれるという表現が 成り立つだろうか。哲学は どう見るか?


【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(豚肉?)を食べて体調をくづ
したとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしている。だが 
このアーナンダの《悪魔憑き》については どういう振る舞いと見ればよいのか? 
《おまえの罪 おまえの過失である》と言っている。何度も繰り返し言っている。

この《おまえの罪であり過失である》という咎めは 取り下げられなかった。ど
ういうわけがあるのか?

ゴータマが 弟子アーナンダを咎めるのは 筋がとおらない。阿呆である。



§ 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?

▲ (苦か楽か。涅槃?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・尊師はこのように言われた。
  ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。
  ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・
    修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・
  ・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あ
  るいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・

(中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)な
る苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》
と言っている。

つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は
楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。四苦を説くその初めそのも
のにおいてである。

あるいはむしろ 楽が地であって 苦は図であるのだと。苦説は とおらない。


【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダなる存在の
あり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》
と言っている。阿呆か。




§ 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?

▲(自灯明・法灯明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせ
  ず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあ
  れ。

(中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐5】 《島》を 灯明として解する説を採らないにせよ ここで《たよりと
する自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アート
マン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?


【Q‐6】 けれども 今度は《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 
《自らを頼りとし〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただその
ときその場での《明かりあるいは光》とするだけではないのか?
 
つまり 医学などの科学としての光明や人間としての思いやり・愛情として暖か
みは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と人生経験と心において得られ
るものである。
 
ゆえに 問題は 《みづからの心の 燈 心 を灯す》ことなのではないか? 
みづからを灯明とすることではなく。 

自灯明(あるいは 法灯明を意志する自灯明)であるなら 《自己のチカラ》は 
かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまるのではないか。 

みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 
水をどこかから引っ張って来る。あるいは その時その場で明かりを灯すという
ことは出来ても 長続きする水や光は 《わが心の 灯心そのもの を灯す》こ
ととして問い求めなければいけないはずだ。

こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?
 
《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって一隅を照らす》
こととは 違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。
前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。



☆ これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは やっぱ阿呆
である。

以上について よろしくご教授ください。

A 回答 (9件)

bragelloneさん お礼ありがとうございます。



>神とは何か? が分かっていなかった。

これこそ、ドーナンダですね。
分かっていたとは思いますけれども。
そうすると、どうしても輪廻転生や決定論から自由になることが不可能になります。
人間の能力だけで自由は得られるという経験をしたのだと思います。
確かに、人間の能力は神からもたらされたという考え方から切り離せないのですけれども。

だから、誰も理解できないとした。
でも、現実は自由になれるので、未来は非決定論なんだよと。
あるがままの認識=諸行無常→空→量子論
「現実は空想より奇妙である」と、私は思います。
私はハダカデバネズミは嫌ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

次の図式を見てください。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(自然および超自然。普遍神がその分身として捉えられている)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

☆ 普遍神が 民族とその言語の違いに応じて いくつかの名前で呼ばれます。
その神(=霊性)に人間たるわれが呼応する心の庭は これもさまざまに呼ばれ
ています。

 A. ブラフマニズム:梵我一如(=有神論)
 C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)

これらふたつは まったく同じです。名前の違いを除けば。
ゴータマ氏の神論について最大限好意的に捉えるなら:

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)

となるであろうと踏んだ解釈です。けっきょく神を否定したとしても 神はビク
ともしない。変わりない。絶対性なのですから。

したがって 《無い神》も 《有る神》と同じひとつの普遍神の呼び名でありそ
の信仰であると帰結されます。

ということですが・そのようになるのですが ゴータマ氏は 知らなかった。な
ぜなら 知っていたら わざわざアートマンを否定することはなかった。

身分制をつくった宗教のブラフマニズムを否定することと 梵我一如を否定する
こととは別なんです。


ハダカデバネズミ?

お礼日時:2019/02/27 04:25

bragelloneさん こんばんは



ブッダが自分の意志で哲学の達人に成った人だとしたら、客観的な視点から弟子に助言はできるのでしょうね。
弟子が自分の意志で学び考えて行動することが前提になりますけれども。

例えば、学問やスポーツや職業には尊敬できる先生がいらっしゃると思いますよ。いわば菩薩では。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(№7お礼欄) ① 《瞑想》は 人知を超えた場であり 
② それの認識としての表現は 経験的な思想であると。

もし:
★ ブッダが自分の意志で哲学の達人に成った人だとしたら
☆ それは とどのつまり・きわめて煮詰めた議論としては 《無い神》派
の神論でありそのような透き通った信仰のもとにあるのだと見ます。

つまり 上の①の段階については 人間としての自分においては かまうこ
とないかたちの行き方なのではないかと。

①の段階は 誰にもあることはある。のだと見ています。



ただし 端折った議論になりますが ゴータマ氏は けっきょくのところ神
論について 分かっていなかった。と見ざるを得ないと思います。

神とは何か? が分かっていなかった。

《有る神》派が出たのは・つまり梵我一如と同じ有神論が現われたのは ゴ
ータマ氏の死後に アミターバ・ブッダやあるいはマハーワイロ―チャナ・
タターガタ(大日如来)を神として掲げたブディストたちであった。

このブッダは けっきょくブラフマン神と同じ神でしょう。普遍神がそれぞ
れの名で呼ばれたというだけの違いでしょう。

ブッダター(仏性)は アートマン(霊我)のことなはずです。





★ 例えば、学問やスポーツや職業には尊敬できる先生がいらっしゃると思
いますよ。いわば菩薩では。
☆ こういう事例は 神論を抜きにして 思想や人生観を語る場合なのだと
見ます。



繰り返しになりますが ゴータマ氏は 《アン‐アートマン(無我)》を言い
ました。これが 神のことでしょう。つまり 普遍神をアナートマンと呼ん
だ。これが 《無い神》なる神です。

この《無い神》派なる信仰は ①の瞑想の段階を放っておくのですから い
ま上の《菩薩》と呼んだ場合のような・ごくふつうの一般生活に見られる努
力のことだと思われます。

お礼日時:2019/02/27 00:05

bragellone さん こんにちは



ヒラメキの問題ですね。
人間は自分が悩んでいる時や危険な時、突然何者かに助けられます。
それは、自分の意志で学び考え行動している時に訪れます。

このカテでも数名の方がおっしゃておられますけれども、どうしても、解決できない問題で悩んでいる時、何者かが降りてくる。突然ヒラメクのだと。
それは、夢うつつな時間が認識し易い、夢枕に何者かが立っている気配がする。

たぶん、自分自身が自分を観ている姿だと思います。
スポーツで言えばゾーン体験。
普段は、何者かが降りてくるヒラメキ。
危険な時は霊感。

これが、瞑想によって得られた、客観的な人間の認識能力なのかもしれません。
ミラーニューロンによる、他人からの認識を受信した自分の認識かもしれませんけれども。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ヒラメキの問題ですね。
☆ はい。つまり:
☆☆ (№6お礼欄) 《燈心をともす》のは結果として 人間たるわれが
ですが その直接の作用は 《真理=仏性》のほうがだ
☆ 同じく:
▲ (道元) 万法すすみて〔――その恩恵にて――〕自己を修証するは
さとりなり。



★ 人間は自分が悩んでいる時や危険な時、突然何者かに助けられます。
それは、自分の意志で学び考え行動している時に訪れます。
☆ ――なんですが・そうなんですが その自分の努力(および能力)とは
よく考えてみて 直接の関係がないんですよ。どこかから来たヒラメキなの
だと思います。

すなわち:
★ このカテでも数名の方がおっしゃておられますけれども、どうしても、
解決できない問題で悩んでいる時、何者かが降りてくる。突然ヒラメクのだ
と。


☆ そして確かに 夢の中ででもヒラメキが来ますね。:
★ それは、夢うつつな時間が認識し易い、夢枕に何者かが立っている気配
がする。




★ ~~~~~
たぶん、自分自身が自分を観ている姿だと思います。
スポーツで言えばゾーン体験。
普段は、何者かが降りてくるヒラメキ。
危険な時は霊感。
~~~~~~
☆ ん? ここは 片や 人知を超えたヒラメキと 片や 人間の・自分の
能力としてのハタラキとが ごっちゃになっていませんか?

ごっちゃになっていたほうが いいのかなぁ?


★ これが、瞑想によって得られた、客観的な人間の認識能力なのかもしれ
ません。
ミラーニューロンによる、他人からの認識を受信した自分の認識かもしれま
せんけれども。
☆ あぁ。なるほど。① 《瞑想》は 人知を超えた場であり ② それの
認識としての表現は 経験的な思想であると。




だけど 人びとのブディズム観は まだまだひどいですよ! つまり あま
りにも きれいにととのった規範をかかげているだけに終わっています。

てふてふさんが 何とかしてください。(わたしは 口がわるいので)。

お礼日時:2019/02/24 10:22

bragelloneさん こんばんは



▲ (アハンカーラ論(?))~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
 のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
 (ナーガルジュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされ
ているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離
れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないので
ある。
   
     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)

>流石 bragelloneさん

これは、人間の事は人間にしか解決できないという文章ですね。
だから、ブッダは人間として人類のために世界で初めて、人間として生きるにはどうしたらいいのか実践したのでしょう。
そして、彼は菩提樹の下で遂に悟った。
《わが心の燈心をともす》事によってできると。
人間は社会的動物なので、人々が私を慕って助けてくれたおかげでできたのであって、私もこの上なく嬉しい。
でも、私の言うことは誰も理解できないであろう。

しかし待てよ、人間は社会的な動物だそれならば、私が対機説法をすれば、バタフライ効果、シンクロニシティによって、やがて理解できる人間が現れるだろう。
同じ人間だから、誰にでもできるはずだ。
そして、人々は自らの姿を神として救われるのだと。

>《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって一隅を照らす》
こととは 違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。
前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。

前者と後者は違うけれども、前者は、自由は幻ではありません。確かに、生きるとは夢なのかもしれませんけれども。

bragelloneさん 自分で答えを書くとはずるいですね。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

☆☆ >《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって
一隅を照らす》こととは 違うのではないか? 

★ 前者と後者は違うけれども、前者は、自由は幻ではありません。
☆ 《後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう》という見方には 賛成
してくれたのですか? 《空として現象しているけれど それはすべて空であ
る》となります。

前者は 経験的に実証できるものではないけれど この無常ないし空であるこ
とを超えている――人知を超えている――その場(ないしチカラ)を想定して
います。そういう開かれた現実性です。

要するに ブッダター(仏性)を想定した場合の世界観・人間論です。



龍樹=中村元の説は:
★ 人間の事は人間にしか解決できないという文章で
☆ は ないですよ。それは 《一隅を照らす》説です。

つまり:
▲ 真理〔を見る・見ない〕
☆ を問うているなら 《人知を超えた・超経験世界》のことを想定した人間
論です。《わが心の燈心をともす》ほうです。

そして この表現が舌足らずだったと思われることは 《燈心をともす》のは
結果として 人間たるわれがですが その直接の作用は 《真理=仏性》のほ
うがだということです。

《恩恵》というわけです。《空》をも超えたチカラのはたらきです。《空観》
を得させるその場の実現という――想定上の――現実です。


★ 私が対機説法をすれば、バタフライ効果、シンクロニシティによって、や
がて理解できる人間が現れるだろう。
☆ これは バタフライ効果が どれだけの現実性を持つのか分かりませんが
人間の光と意志とで《一隅を照らす》方式です。

さとりとは何かについて 説明できないのは 対機説法でもなければ説法でも
ないです。

あなたは・そして多くの人は ゴータマ氏を擁護しようと汲々になっているの
ではありませんか? 事実は事実 真実は真実。間違いは間違い。ダメなもの
はダメ――です。

▲ (道元:現成公案) ~~~~~~
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて〔――その恩恵にて――〕自己を修証するはさとりなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2019/02/24 04:13

bragelloneさん お礼ありがとうございます。



>だが さとりとは何か? について終(つい)ぞあきらかにしなかった。

ブッダは人々の苦を除くために、対機説法をしました。
ここから導き出される答えは、「人間万事塞翁が馬」でしょうか。

この世界をあるがままに観れば諸行無常であって、有と無が同時に存在する空という考え方です。
物理学の相対性理論と量子論に繋がっていきます。
量子コンピューターの開発も始まっています。
ブッダの人間の視点からの思想は、神では解決できない問題を解決しそうな気がします。

>宗教も無くならないと思います。

神を信じることは人間に希望を与えてくれます。

また、人間が社会的動物であることは、ホモサピエンスが個体としては優れていたネアンデルタール人より繁栄したことで明らかです。

生き物が自分の遺伝子を残すには、子孫を残す方法と兄弟を残す方法があるそうです。
遺伝子的には、同じに観えます。
社会的動物として白アリやハダカデバネズミは、社会的な役割分担として体の作り自体も違うそうです。
社会的な分業は生き物のとっては必ずしも生存に不利ではないので、無くなりません。
むしろ、AIやゲノム編集によって、さらに加速するかもしれません。
現代の輪廻転生といえるのかもしれませんね。

>今こそ,AIやゲノム編集に対抗するために、ブッダの欲に捕らわれない思想(自由に生きる)が必要になっていませんか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ブッダは人々の苦を除くために、対機説法をしました。
☆ ところが 法華経・方便品で弟子のシャーリプトラらが ぜひさとりと
は何かをおしえて欲しいと懇願したところ これを拒否しました。
【Q:ゴータマ・《ブッダ》がペテン師だというのは何故か】


★ ここから導き出される答えは、「人間万事塞翁が馬」でしょうか。
☆ ブディズムとは関係ないですね。

★ この世界をあるがままに観れば諸行無常であって、有と無が同時に存在す
る空という考え方です。
☆ シューニャター(空)論は よろしいでしょうね。ただ ここで問題とし
ていることは 《わが心の燈心をともす》ことです。


★ ブッダの人間の視点からの思想は、神では解決できない問題を解決しそう
な気がします。
☆ いまごろそんなことを言われても。・・・



★ 神を信じることは人間に希望を与えてくれます。
☆ そう思います。

★ また、人間が社会的動物であることは、ホモサピエンスが個体としては優
れていたネアンデルタール人より繁栄したことで明らかです。
☆ 相対性――比較優劣――の問題ではなく 《わが心の燈心をともす》とい
う主題はどうか?



★ >今こそ,AIやゲノム編集に対抗するために、ブッダの欲に捕らわれない
思想(自由に生きる)が必要になっていませんか。
▲ (アハンカーラ論(?))~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
 のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
 (ナーガルジュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされ
ているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離
れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないので
ある。
   
     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2019/02/23 19:43

bragelloneさん こんばんは



ブッダは、カースト制度という身分制度に捕らわれない自由な生き方を考えたのだと思いますよ。
そのためには、自分の意志で学んで行動する(法灯明)自分の意志で考えて行動する(自灯明)ということです。

ブッダが阿保なのではなくて、今の宗教の信徒が自分の意志を蔑ろにして教えだけを守っているとするならば、信徒は阿保です。
当時、アーナンダがどのような状態だったか正確には解らないので、答えは、bragelloneさんのおっしゃる通りドーナンダです。

自分の意志を無理に主張すれば、他人にも非難されかねません。
しかし、自分の意志を蔑ろにすれば、自分にも他人にも悪です。
ブッダが個人の幸福と人類の幸福を同時に考えていたとするならば、自然と答えはでるかもしれないのですけれども、人間には無理なのでしょうね。

鍛冶工チュンダを咎めなかったのは、彼が後悔しないようにみたいですよ。
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この回答へのお礼

tefu_tefuu さん お久しぶりのこんにちは。

★ ブッダは、カースト制度という身分制度に捕らわれない自由な
生き方を考えたのだと思いますよ。
☆ 志向性としておっしゃるとおりでしょう。ただ 自分はなに不
自由のない優雅な生活をしていたわけで その身分制を社会変革と
いったかたちで変えようと思っていたか?

下層身分の人びとの生活を知りこれをあわれみ けっきょくその悲
惨さから《すくわれる》には どうすることが考えられるか?

輪廻転生として前世からの因縁だ〔から あきらめなさい〕という
説明は ブラフマニズムからすでに打ち出されていたわけで それ
に対してゴータマは 《生まれではなく おこないによるのだ》と
いう説を推し出したとは言え けっきょく《大化城》という言い方
をしているように 世界におけるおのれの位置するそのままの姿と
しての真実を見て捉えその――まぼろしであろうとも――和解した
心に拠り所を問い求めた。

だが さとりとは何か? について終(つい)ぞあきらかにしなか
った。




★ そのためには、自分の意志で学んで行動する(法灯明)自分の
意志で考えて行動する(自灯明)ということです。
☆ そんなことは誰でも考えることでしょう。それだけなら ブラ
フマニズムで用が足りるのでは?

★ ブッダが阿保なのではなくて、今の宗教の信徒が自分の意志を
蔑ろにして教えだけを守っているとするならば、信徒は阿保です。
☆ この師にしてこの弟子あり この信徒あり。

★ 当時、アーナンダがどのような状態だったか正確には解らない
ので、答えは、bragelloneさんのおっしゃる通りドーナンダです。
☆ へええ。ここは ソーナンダ。

★ 自分の意志を無理に主張すれば、他人にも非難されかねません。
しかし、自分の意志を蔑ろにすれば、自分にも他人にも悪です。
ブッダが個人の幸福と人類の幸福を同時に考えていたとするならば、
自然と答えはでるかもしれないのですけれども、人間には無理なの
でしょうね。
☆ ですから 唯我独尊なる《さとり》を看板に書くことはなかっ
た。

★ 鍛冶工チュンダを咎めなかったのは、彼が後悔しないようにみ
たいですよ。
☆ 後悔はするでしょうが 自分を咎め過ぎないように。つまり
アーナンダにしても おんなじはずなのに。・・・

お礼日時:2019/02/23 03:52

ヘラクレス、兆層、ヘラクレイトス、へーラーの質問が削除されてしまい


イオニア方言とか全然判りませんが
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この回答へのお礼

または アッティカ方言(アテナイ)。そして コイネー。

ドーリア(ドリス)方言は あのスパルタを築き イタリア南部・
シチリアにまで勢力を伸ばしたが 文語として成らなかったらしい。

お礼日時:2019/02/21 04:33

それは、あなたの感想。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


あなたの見解をのぞむのは 無理として 感想や印象なら あるかも
知れない。№1=№2のほかには もうないですか?

あったら 聞かせてください。

お礼日時:2019/02/20 07:14

それは、あなたの感想。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


同類相憐れむ。

お礼日時:2019/02/20 07:12

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