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ウパニシャッド哲学の梵我一如の悟りと仏教の悟りの
違いについて教えてください。ウパニシャッドの流れで
シャンカラという哲学者が不ニ一元論という仏教に似た
ことをいっていると聞いたことがあります。
詳しい方教えてください。
それではよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

仏教については、詳しくないのですがヒンズー教には詳しいので、答えます。


ただ、シャンカラの不二一元論と同時に二元論と条件付一元論について比較してお話した方がわかりやすいと思います。

二元論)あなたと私、自分と神、それぞれを別々に考えることを言います。

条件付一元論)あなたと私は、1つ。私と神は、1つ。
なのですがまだ、私というエゴが存在します。

不二一元論)私のみしか存在しない。神のみしか存在しない。というものです。

例えて言うと、
二元論は、ビンの中身とビンの外側の空気が違うものということで。 

条件付一元論は、ビンの中身は、空気だけだがエゴというフタがしてあり同じ空気だけど外の空気と分けられてる状態です。  

不二一元論は、ビンもフタも無い状態でただ、存在するという状態です。

以上ですが仏陀がインド全土に仏教を広めたのですがその後、シャンカラが現れヒンズーを復興し、仏教を排斥したのですがシャンカラの師ゴーウィンダパダの師ゴーダパダが大乗仏教の影響を受けてるマーンドゥキャ・ウパニシャッドを書いているのでシャンカラの思想が仏教に似てると言われています。   
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西田哲学の絶対無

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絶対実在は在るのですか?



絶対無はありえると思いますが.
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同じです。

仏陀(釈迦)はインドに昔からある
 バラモン教が釈迦の時代には堕落し教説がゆがめられて
 きたのを当時の人々に分かりやすく説きなおしました。
 なお梵我一如とは、宇宙の全存在と私やあなたという
 個別の存在が実は一体であり、それをつなぐ
 (確認する)手段としてあなたにもあり、私にもある
 共通の無意識の存在を説いた言葉です。
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シャンカラはウパニシャッドの正統な後継者であり再興者とされますので、彼の説を取り上げて簡単に書かせてもらいます。



まずは言葉の問題ですが、シャンカラの唱えた不二一元論の「不二」は、梵語ではadvaitaといって「二番目のものがない」ことをさします。要するにブラフマンだけが実在でほかのものは虚像である、という意味であって、一元論を強調するために使われている言葉です。

シャンカラは確かに、認識論では大乗仏教の唯識をとり入れるなどして、「仮面の仏教徒」と論難されました。けれども大きく見れば、彼は梵我一如の思想が二元論に流れそうになるのを抑えて、基本的にブラフマンだけを確かな実在とする、一元論の建て直しを図ったのです。

彼の説によると、無明avidyaのために、唯一の実在であり属性を持たないブラフマンが、あたかも幻影のように個別の属性をもったいろいろな存在や現象として現れているのだ、従って、一種の神秘的直感である明知vidyaによってブラフマンのみが真実であることを知れば、人は対立や差別を離れた境地を知ることができる、というのが彼の考えでした。つまり、ブラフマンへの帰入を通じて、幻にして俗なるこの世界を、聖なるものとして肯定しなおそうとした、と言えます。

一方、大乗仏教でも「不二」という言葉が使われます。よくシャンカラのそれと混同されるのですが、こちらは梵語ではadvaya、つまり「対立する二つのものが存在しない」という意味です。釈迦の悟りの根本であった「縁起」を竜樹(ナーガールジュナ)が原理的に展開し、「空」を唱えたことで大乗の悟りのあり方がほぼ決定づけられたのですが、その際に、「空」を説くために用いられたのがこの言葉です。

人は主観と客観、生と滅、増と減などといった、2つの極をもった軸を世界に投射することで認識を行っているのですが、これによって捉えられる世界は、本質的な限定性を持った言語による仮構である、というのが竜樹の思想の根底にあります。従って人は、本来空性である世界の姿を真に認識しようとすれば、必然的にこの言語の虚構性(戯論)を離れねばならない、といったことになります。二項対立を離れたところ、つまり「不二」の境地が「空」という悟りの入り口であるわけです。

大乗仏教でいう無明とは、言語によって仮構された現象や概念をあたかも実在のごとく認識してしまう不明さ、空性に目覚められない根本的な原因を指すものです。
一方、シャンカラにとっての無明は、幻影としての世界を作り出す作用、つまり普遍にして唯一の存在が現象世界に個別性として現れる働きを指したわけで、言葉は同じですが意味する内容は全く異なっています。

両者は、世界が一旦否定されながらも再び肯定される、という大枠では確かに似ているといえるかもしれません。また現象世界の実在を認めない点は共通しますし、特に密教だけをみると両者はかなり近づくのは事実です。
ただしかし総じてみれば、かたやブラフマンという世界原理の実在を前提にした「聖なる世界の回復」が狙いであったのに対し、かたや言語による認識のあり方を俎上にあげた、という点では大きく異なっていることがわかるでしょう。竜樹を中心に見れば、大乗仏教の悟りの中心には、脱・形而上学といった姿勢が明確にあります。それは聖や俗といった概念を超越することでもあったのです。
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