形式主義/機能主義的な文法論の誤りについて見解を伺うべく、「形容動詞という誤り」「接続助詞《ので》という誤まり」「形容動詞という誤り No.2」<「名詞」理解の誤り><「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?><『日本語文法事典』〔日本語文法学会 ;2014/6/25)〕の欠陥>を提起してきましたが、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
<「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?>では、名詞の指示という機能を本質と取り違える誤りを指摘しましたが、もう一つの根本的な誤りは、上に指摘した生成文法の文を話者から離れた実体、煉瓦的構成と見る、いわゆる言語実体観の誤りです。
この事実を、
西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句 (日本語研究叢書)』(ひつじ書房:2003/10/1)
http://www.hituzi.co.jp/books/180.html
から指摘しておきます。
西山は第 3 章でメンタル・スペース理論を紹介し、次のようなコピュラ文の、坂原茂の解釈を取り上げる。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
これは、役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとることを現わしている、とされる。と紹介している。
そして、この種のコピュラ文をメンタル・スペース論者は「同定文」と呼び、著者は「M‐同定文」と名付け、次のように主張する。
さて、M‐同定文「AはBだ」は、主語と述語名詞句を交換して、「BがAだ」に【(意味を変えないで)】変換できる。したがって、(101)を(104)のように変換しても【意味は変わらない】。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
(104)は、「倒置されたM‐同定文」だ。/(同書P148:【】強調は引用者)
さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実であろう。
生成文法の、話者とは独立に文という実体が存在するという錯誤が生んだ妄想に過ぎず、これを無批判に受け入れた著者の錯誤である。
そもそも、<役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとる>というメンタル・スペース理論が、文を話者から切り離し、対象世界と直結する誤った事実誤認に基づくことが理解できるであろう。
これは、現在の意味論がどの程度のものかをも示している。
このような、根本的な事実誤認に基づく非論理的な誤った論理展開がなされているのが、「日本語研究叢書」と銘打たれた本書であり、「日本語研究叢書」なるものの、根本性格である。
この事実をどのように、理解されるのであろうか?■
A 回答 (36件中31~36件)
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No.6
- 回答日時:
質問への早速の回答、有難うございます。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
(101)は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という
特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。これは、
副助詞「は」という特殊性の認識を表わす語が示しているものです。
(104)は紫式部という個人に関する言明で、個別性の認識を表わす格助詞「が」
が使用されています。そして、この紫式部という人が「源氏物語の作者だ」と
言っているのは理解できますよね。
以上のようなお答えをいただきましたが、「副助詞「は」という特殊性の認識表わす語」と「個別性の認識を表わす格助詞「が」」の、「特殊性」と「個別性」の違いがよくわかりません。
例えば、次の(A)では、「源氏物語という特殊な作品の作者」を「紫式部」だ、と言っているのだと思うのですが、これは「特殊性の認識」なのでしょうか、「個別性の認識」なのでしょうか。
(A) 源氏物語の作者が紫式部である。
また、次の(B)では、「紫式部という個人」が、「源氏物語の作者だ」と言っているのではないでしょうか。そうすると、これは「特殊性の認識」なのでしょうか、「個別性の認識」なのでしょうか。
(B) 紫式部は源氏物語の作者だ。
再びわかりやすいお答えをいただければ幸いです。
saburoo
適切な質問をありがとうございます。
(A) 源氏物語の作者が紫式部である。
の場合、「源氏物語の作者」という作者の個別性の認識を「が」が表しています。そして、その作者が「紫式部である。」と表現しています。
その作者の具体的な内容を表わしているのが、「源氏物語」で、格助詞「の」が所属の関係認識を表わしています。
(B) 紫式部は源氏物語の作者だ。
では、清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識を副助詞「は」が表し、その紫式部は源氏物語の作者だ、という表現です。
このように、格助詞「が」には比較対照の意義はなく、「は」は比較対照による特殊性の認識を表わしています。
但し、「は」には、
箱根の山は天下の嶮。
吾輩は猫である。
ニューヨークはマンハッタンに来ております。
のような、普遍性の認識を表わす係助詞があり、紫式部である人という普遍性の側面を捉えた「は」を使用し「紫式部は源氏物語の作者だ。」という場合があり、単に【形式だけからはこれを決められず】、これは話者がどちらの意義で使用したかにより決まるもので、文脈等から判断しなければなりません。
この点は形式主義者には理解不能な点であり、山田孝雄が「は」を「其の意義【排他的】にして、事物を判然と指定し、他と混乱することを防ぐために用ゐらる」と一義的に規定した原因です。
しかし、時枝は語の認定を【主体的意識】によらねばならぬと『国語学原論』で明らかにしており、その自覚の元に、『日本語文法 口語篇』では、特殊性の認識を表わす、<限定を表わす助詞>とともに、普遍性を表わす「は」を分離し<格を表わす助詞>としていることはご存じの通りです。
この「が」と「は」を、主題を表わすやら、既知/未知、旧情報/新情報などの5~6件の機能条件を並べて区分しようとするのでは混乱するしかありません。
ここでいう個別・特殊・普遍は、先にも述べた個々の事物の持つ立体的な側面で、その内のどの側面を話者が捉えるかを言っており、対象世界での事物の間の関係ではないので、誤解なきように願います。■
No.5
- 回答日時:
質問があります。
(「回答」でなくてすみません。)(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
これが下記だと、どうかわるのでしょうか。
源氏物語の作者が紫式部である。
紫式部は源氏物語の作者だ。
人によっては文末が「である」と「だ」では大き違うというかもしれません。でも、そんなに違うのでしょうか。
当方は文末の単調さをやわらげるために、「主述の入れかえ」という方法を使います。
そのため、時には下記は皆大差がないと割り切るようにしています。
これも〈これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実〉でしょうか。
源氏物語を書いたのは紫式部です。
紫式部は源氏物語を書きました。
紫式部が書いたのは源氏物語です。
源氏物語は紫式部が書きました。
#4 のお礼よりの続き。
文が話者の認識の表現ではなく、文字列、音声列として、それ自身実体として意味を持ち、語の意義が変化して意味が生まれるというソシュールパラダイム下の言語実体観という発想の誤りがここに表わされています。
慶応大学名誉教授よりも、中学生の方が正しく文の意味とは何かを無意識に理解し、使い分けているもので、西欧の哲学、言語論を崇め祭るしか能のない、~教授や~名誉教授は裸の王様でしかないということです。
>>人によっては文末が「である」と「だ」では大き違うというかもしれません。でも、そんなに違うのでしょうか。
「である」と「だ」を比較した場合、「である」は判断辞「だ」の連用形「で」+判断辞「だ」で、単純な「だ」よりも肯定判断が強調されています。これは、やはり話者の認識が異なり表現が異なっているので、意味が異なると云わなければなりません。
確かに、この部分は「そんなに違う」わけではありませんが、程度の問題ではなく、内容、質の問題です。基本的に異なるのは、「は」「が」構文の相違です。
なお、付言させていただければ、「ハの後ろは否定形になりやすい傾向はあるのでしょうか その2」(リンクは省略)で引用されている、[尾上圭介]や、野田尚史などは、意味とは何かが理解できていない、当方が欠陥事典と指摘した、『日本語文法事典』(リンクは省略)の執筆者達で、尾上圭介の主著『文法と意味 Ⅰ』を読まれれば全くピント外れの議論を展開しているのが理解できる筈?です。
こうした人達の誤りを理解することなく、無批判にその片言隻句(へんげんせきく)を寄せ集め、自己の思い込みの正統化に使用するのは事態の混乱、混迷を招くだけです。
そして、正しい回答者の応答をブロックするなどは、まったくのナンセンスな恥の上塗りでしかないことを自覚しましょう。
中学生には少し難しいお話しでしたが理解いただけましたでしょうか。■
No.4
- 回答日時:
質問があります。
(「回答」でなくてすみません。)(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、
これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実であろう。
とありますが、そのあとにその「意味の違い」が書いてありません。
そこを私としては知りたいのですが。
中学生にもわかるように説明していただければ幸いです。
saburoo
適切な質問をありがとうございます。
>>質問があります。
:
さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、
これは、回答者も良く問題にされている「は」と「が」の相違です。
そして、文の意味とは何かの問題です。
(101)は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。これは、副助詞「は」という特殊性の認識を表わす語が示しているものです。
この点は、個別・普遍・特殊という対象の持つ立体的、重層的な側面を理解できていない中学生には難しいかもしれませんが、文法を云々する大の大人なら正しく理解してもらいたいものです。
外国人には難しいですが、中学生であれば、「は」と「が」の使用法を間違えることはなく、これを間違えれば、文の意味が異なることを無意識に自覚しているので使い別けています。
(104)は紫式部という個人に関する言明で、個別性の認識を表わす格助詞「が」が使用されています。
そして、この紫式部という人が「源氏物語の作者だ」と言っているのは理解できますよね。
このように、明らかに話者は対象に対し異なる認識をし、異なる概念を抱き、表現しています。
この、表現と話者の認識の関係、さらには、それを生み出した対象との関係が意味と呼ばれるものです。
では、この本の著者で、慶応大学名誉教授である西山佑司氏は何故、「意味は変わらない」と判断したのでしょうか。
簡単に言えば、意味とは何かが理解できていないからです。これは、現在の世界の言語論の現状です。日本の学校文法や日本語学だけの問題ではありません。
そして、その根底にあるのは、文とは個別の特定の話者の認識の表現であるということが理解できていないからです。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
という文は、上にも述べた通り、それぞれ話者の対象の捉え方が異なり、意味が異なります。しかし、著者達は、この文を話者の認識と切り離し、対象世界の現実、事実と直接結びつけ、対象世界、現実は変わらないので、(101)と(104)は意味が変わらないと決め付けているわけです。 →#5へ。
No.3
- 回答日時:
>「ヒトの遺伝的認知革命」とは素晴らし妄想ですね。
>「言語の元」はアフリカ当たりで生まれたのでしょうか、「味の素」の珍種でしょうね?
ははは、文字通り「キリスト教原理主義者に進化論を説くむなしさ」を感じてしまった。
言語を進化の産物であることを否定されるとは。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教徒として、実に誇らしい。
There are more things in heaven and earth, アスナロウ,
Than are dreamt of in your philosophy.
チョムスキーの関心の対象は言語の生物学的側面である。
意味の工学的側面など、興味は無かった。
勤務先がMITで、学生が工学に関心を持っていたから、最初の本はちょっと工学っぽかったが、意味を工学的に扱ったりは一行もしていない。
もしそう思ったのなら、それはあなたの誤解に基づく誤謬である。
>「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」
話者が発したものしか分析できぬとは、なんと浅薄な理論であろうか。
古い国語学そのものではないか。
「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」が理解できぬとは、なんと修辞学的素養の無いことか。
なぜ「象は鼻が長い」も「鼻は象が長い」も言えるのに、「カキ料理は広島が本場だ」が言えても「広島はカキ料理が本場だ」が言えない理由が説明できぬとは、なんと幼稚な理論であることか。
まあ、三浦理論には解決も理解も不可能な無理難題を出した私が意地悪だった。
>不要になれば廃棄するしかない概念の累々たる屍の山がチョムスキー理論の本質です。
それまでの理論は、新しい理論を生むのに必要な理論であった。
不要になったのは、古い仮説を踏み台にして、新しいより一般性の高い仮説に行き着いたから。
単なる屍ではない。
そしてこのやり方こそが科学なのであり、アスナロウ氏の浅薄な科学理解には遠く及ばぬところなのだよ。
一応付け加えておくが、私も認知科学以外の方法論を否定しているわけではない。
生物学的側面など、言語のほんの一部でしかないからだ。
当然のことだ。
私も会話分析は大好きだ。
データの分析など、やっていて実に楽しい。
文字起こしはかなり面倒だが。
ソシュールも晩年はアナグラムという、パロール学の実践に夢中であった。
早速の応答ありがとうございます。
>>言語を進化の産物であることを否定されるとは。
言語が、人類の社会生活に伴う認識の進化であり、表現の進化であることは事実ですが、遺伝子や認知という自然科学的な進化に直結するものではありません。
科学と自然科学の区別もできずに、
福井 直樹『新・自然科学としての言語学―生成文法とは何か』〔 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2012/12/1〕
などとのたまう信者がいるので、コマッチャイマス。
「自然科学としての言霊(ことだま)論 ― チョムスキー信者の妄想」
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3U …
を参照下さい。
>>最初の本はちょっと工学っぽかったが、意味を工学的に扱ったりは一行もしていない。
結局、意味を扱うことは出来ずに、生成意味論が破綻、崩壊した事実をご存じないとは。
>>話者が発したものしか分析できぬとは、なんと浅薄な理論であろうか。
話者が発しない、猫や赤吾の無意味な文字列は絵でしかなく、何を分析するつもりなのでしょうか。
表現とは何か、に無智な浅薄なご仁が何をほざいてもどうしようもありません。
>>そしてこのやり方こそが科学なのであり
それは、単に現象と機能を本質と取り違えた素朴実証主義でしかなく、本質を前に熱いお湯の煮えたぎるストーブの上の鍋の巡りを廻る猫(レーニンの比喩です)という風情です。
ますは、自然科学と科学の相違と関連を正しく理解して下さい。ひょっとして、上の著者のように、ドットの集合や、線描や物理的な音声の物理的、自然科学的な解明が言語学であるという信仰を御持ちなのでは。
>>「カキ料理は広島が本場だ」が言えても「広島はカキ料理が本場だ」が言えない理由が説明できぬ
単なる語の移動、痴漢(おっと置換)が文だという、話者不在の非文などという非論理的な発想から生まれた偽命題であることに気付かないのでしょうか。
「自然科学としての言語学」などというボンクラには高尚すぎる問題提起ではありますが、普通の人は、「広島はカキ料理の本場だ」と難なく言っています。 以下、補足へ。
No.2
- 回答日時:
キリスト教原理主義者に進化論を説くようなむなしさを感じて、今まで黙ってみていましたが、ここまで誤謬があると致し方ない。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教徒として、もの申すことにしよう。
誤謬1
メンタル・スペース理論はチョムスキーとは関係ない。
メンタル・スペース理論は認知言語学の一つで、認知言語学は反チョムスキーの大きな潮流の一つである。
誤謬2
意味の多面性や多相性を全く理解していない。
指示を指さすことだと無理に曲解してみせる人には、「日本の大統領は禿げだ」や「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」を可能世界やメンタル・スペースなしで、すっきり説明してみせねばなるまい。その場限りでない説明を。
指示を指さすことだと無理に曲解してみせる人には、「自分」や「自分自身」が何を指すのかを説明でないし、ましてや「自分」と「自分自身」の違いを説明することもできない。
指示を指さすことだと無理に曲解してみせる人には、なぜ「象は鼻が長い」も「鼻は象が長い」も言えるのに、「カキ料理は広島が本場だ」が言えても「広島はカキ料理が本場だ」が言えない理由など説明などできるはずがない。できてもその場限りの対症療法でしかない。
指示を指さすことだと無理に曲解してみせる人には、「明けの明星は宵の明星である」の多相性など、理解の外だろう。だから、「紫式部が源氏物語の作者だ」の問題も理解できない。
誤謬3
三浦つとむの誤解をさらに曲解している。
誤解を曲解しても正しい理解にはつながらないのだなあ。
深層構造も表層構造も変形もチョムスキー理論の本質ではない。
チョムスキーは普遍文法を求めているのであって、普遍的深層構造など仮定したことはない。
深層構造も表層構造もとりあえずの仮説であって、本質ではない。
だから、不要になれば廃棄してきた。
「深層構造ですべての意味が決まる」という仮説も一時的なもので、すぐに破棄された。
長谷川が「現在の文法理論の欠陥」と呼ぶのはチョムスキー理論の本質的な欠陥のことではない。
当時の理論の欠陥であって、実際、その後の理論は「できるだけ豊富な、厳しい(しかし自然な)制約を一般言語理論に課す」方向に進んだ。
チョムスキーが求めてきたのは普遍文法であって、素晴らしい言語表現の表出方法ではない。
人間が遺伝的に持っている言語の元を探しているのだ。
できた文法で、悪口を言おうが、素晴らしい戯曲を書こうが、ここのような与太話を飛ばそうが、それは勝手だが、それはヒトの遺伝的認知革命とは無関係である。
言語表現の研究は大いに進めればいいが、だからといってチョムスキーはダメだというのは、近所のスーパーで「どうして原子炉を売っていないのか」と言うようなもので、単なるクレーマーである。
早速の応答をありがとうございます。
まさに、典型的な現在の形式主義/機能主義的言語観の限界を露呈されております。
「ヒトの遺伝的認知革命」とは素晴らし妄想ですね。
「言語の元」はアフリカ当たりで生まれたのでしょうか、「味の素」の珍種でしょうね?
>>誤謬1
メンタル・スペース理論はチョムスキーとは関係ない。
メンタル・スペース理論は認知言語学の一つで、認知言語学は反チョムスキーの大きな潮流の一つである。
認知言語学が生成文法の機械論に対する否定として生まれたのは常識です。その認知言語学もゲシュタルト心理学という非弁証法的理論に基づくソシュールパラダイム下の言語実体論に過ぎず、メンタル・スペース理論もチョムスキーとは無縁でない誤謬の論理であると云うことです。
認知心理学を説く、マイケル・トマセロ(Michael Tomasello、1950年1月18日 - )が「共同注意」などという、ロナルド・ラネカーや廣松渉ばりの概念認識とは何かが理解できないレベルでは問題外ですよね。
>>誤謬2
意味の多面性や多相性を全く理解していない。
言語の意味とは何かが理解できずに、その周りを周回し機能や現象を説くしかないのを、「意味の多面性や多相性」などとお茶を濁す風情が一丁前の口をきくのは見苦しいかぎりです。
誤謬3
>>深層構造も表層構造もとりあえずの仮説であって、本質ではない。だから、不要になれば廃棄してきた。
そうりゃそうですよね。不要になれば廃棄するしかない概念の累々たる屍の山がチョムスキー理論の本質です。
>>厳しい(しかし自然な)制約を一般言語理論に課す」方向に進んだ。
そして、不要になれば廃棄することになります。
>>チョムスキーが求めてきたのは普遍文法
これこそが、情報理論の提唱者であるクロード・シャノンが『通信の数学的理論』(ちくま学芸文庫)で、最初に「意味は物理的または概念的な実体を伴う何らかのシステムに従って、メッセージが参照したり関係したりするものである。このような、意味論的な観点かた見た通信は、工学的な通信の問題とは無関係である。」(62p)という注意を理解できずに工学的に扱えると誤認したチョムスキーの妄想です。
https://chomsky.info/wp-content/uploads/195609-. …
参照。■
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なお、生成文法の性格については、
「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …
を参照下さい。
この著書は 1972年に出版されており、大学図書館はもとより、大きな図書館には置かれていますが、無視されており、その結果が、この体たらくという現状です。
もっともチョムスキーもすでに棺桶に片足を入れており、追って自然崩壊するしかありませんが。
後世、偉大なる錯誤と評されるのでしょうか?■
なお、「「日本の大統領は禿げだ」や「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」を可能世界やメンタル・スペースなしで、すっきり説明してみせねばなるまい。その場限りでない説明を。」
これは、その場限りではなく、普遍的、本質的に話者の認識に結び付いていることを、最初に、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
と記述していますが、チョムスキーに入れ挙げたボンクラの目には留まらなかったようです。
話者のない文などというのは、猫がキーボードの上を歩き表示された文字群のことです。
チョムスキーや西山が問題にしている対象はこういうものです。■
格助詞「が」 、副助詞「は」、係助詞「は」の意義の相違が理解できずにキリキリ舞いしていては、語の品詞と意義の相違、使用法が正しく理解できません。この点は、三浦つとむ『認識と言語の理論 第2部』で解明済みです。
>>古い仮説を踏み台にして、新しいより一般性の高い仮説に行き着いたから。単なる屍ではない。
そしてこのやり方こそが科学なのであり
呆け!。
量子力学が古典力学の上に築かれており、それが一つのパラダイム転換であることぐらい理解できないのか。(奴)
量子力学が完成したら古典力学は不要になったのか。古典力学を不要で廃棄できると考える発想がナンセンスそのものであることに気づかないのか。
武谷三男「ニュートン力学の形成について」(『弁証法の諸問題』)を眼光紙背に徹するまで読み込み、武谷三段階論をちゃんと理解しましょう。↓
↓
>>ソシュールも晩年はアナグラムという、パロール学の実践に夢中であった。
実践など日々人々がパロールを発しているのが理解できないのですか、
そうではなく、ラングとは何であり、パロールの本質と、その関係を明らかにしなければなりません。
カントの物自体を不可知とする哲学に依拠していてはパロ―ルの表現過程も意味論も築くことはできません。
夏休みなので、シナイ半島でも行って、モスクで顔でもを洗ってから出直した方が良いでしょう。
老婆心ながら。■
この質問は、端無くも質問者の「は」「が」理解がいかに浅い、表面的なものであるかを明かしています。
自分自身、良く判りもしないことを人に伝授しようなどとは無理、無体というしかありません。■
他の質問に、
<ハの後ろは否定形になりやすい傾向はあるのでしょうか その2>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11235456.html
がありますが、この例からも、当方が回答の通り、なんら相関はないことがわかります。
なお、普遍性の側面に若干触れておけば、水の普遍性はH₂Oであり、「月【は】地球の衛星である。」のように普遍性を表わす科学の文や、憲法、法律に普遍性を表わす「は」が多用されます。
なお、個別・普遍・特殊については、ヘーゲルの概念論を読んでも珍紛漢紛かと思いますが、
「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-60.h …
<ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理――『法の哲学』の自由論 >
(このタイトルで検索できます。)
等を参照下さい。■
No.7の補足への続き。
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識」という言い方は若干誤解を招き易かったかもしれません。
(101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人(のような)」とすべきでした。
梅は咲いたか、桜はまだかいな。
の場合は明確ですが。
個別・特殊・普遍というのは、簡単にいえば、快挙を遂げた渋野日向子は個人ですが、それは、年齢も顔も身長も他とは異なる特殊性を持っています。そして、人、女性、動物、生物という普遍性に支えられています。
このような、個の持つ立体的、重層的なありかたを捉え表現する場合に、そのどれかの側面を捉え表現することになります。
渋野日向子自身は毎日成長し変化しますが、渋野日向子という固有性は変わらず、この固有性の側面が名前という固有名詞で表現されています。■
なお、先に、
(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。
と回答されていますが、ここでは付属【語】である語、格助詞、副助詞の意義を論じています。
語ではなく、「語」とは何かが理解できないで、一体何を論じようとされているのか、そもそもこの基本的な理解の誤りを正さないと当方の言っていることが理解できないのではと危惧します。
格助詞、副助詞、つまり助詞とは一体何なのか理解されているのでしょうか?
そして、<格助詞「で」「に」理解の誤り>で提起しているように、助動詞とは何かも。■
もう少し、補足させていただきます。
三浦の『日本語はどういう言語か』の初版は1956年に出されており、推薦の言葉に、批判者、助言者と記しているのにはその前段があります。
三浦は、その前に『言語過程説の展開』を出版しようとしましたが、出版者が時枝批判を心配し、そのプリント版を時枝のもとに持参し意見を仰ぎ、時枝が是非出版して下さいと薦めたにもかかわらず、出版はされませんでした。
これを見ているために、批判者、助言者と記しているものです。
そして、三浦はこれを焼却してしまいますが、その後『弁証法はどういう科学か』がヒットし、知名度も上がり、言語論の本も受け入れられると判断し、ダイジェスト版の前段に認識論を加え『日本語はどういう言語か』を出版したものです。
講談社学術文庫は旧版をそのまま出そう考えたのですが、その後の進展を取り入れ、改訂増補版とすることを要求し、出されたものです。■
大や抽象が問題ではなく、具体的、科学的な解明を目指すべきものです。
時枝『国語学原論』第三章 文法論の「言語に於ける単位的なもの」、三浦『認識と言語の理論 第三部』「単語の認定における形式主義」(91p~)他を参照下さい。
作業仮説としてしか語を捉えられなくて、よく、文、文章を論じ、当方の付属語批判にコメントできますね。恐れ入谷の鬼子母神というところです。
すべて、「大きな問題」「難しい問題」で、問題を回避し、権威に頼ろうとするのでは、全く進歩はなく、単なる傍観者に終始する他ありません。
ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれてこない。(時枝誠記『日本文法・口語編』)
正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)
だという警告も、この際思い出してもらいたいものです。■