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形式主義/機能主義的な文法論の誤りについて見解を伺うべく、「形容動詞という誤り」「接続助詞《ので》という誤まり」「形容動詞という誤り No.2」<「名詞」理解の誤り><「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?><『日本語文法事典』〔日本語文法学会 ;2014/6/25)〕の欠陥>を提起してきましたが、

そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。

<「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?>では、名詞の指示という機能を本質と取り違える誤りを指摘しましたが、もう一つの根本的な誤りは、上に指摘した生成文法の文を話者から離れた実体、煉瓦的構成と見る、いわゆる言語実体観の誤りです。

この事実を、

西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句 (日本語研究叢書)』(ひつじ書房:2003/10/1)
http://www.hituzi.co.jp/books/180.html

から指摘しておきます。

西山は第 3 章でメンタル・スペース理論を紹介し、次のようなコピュラ文の、坂原茂の解釈を取り上げる。

  (101) 源氏物語の作者は紫式部である。

これは、役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとることを現わしている、とされる。と紹介している。

そして、この種のコピュラ文をメンタル・スペース論者は「同定文」と呼び、著者は「M‐同定文」と名付け、次のように主張する。

 さて、M‐同定文「AはBだ」は、主語と述語名詞句を交換して、「BがAだ」に【(意味を変えないで)】変換できる。したがって、(101)を(104)のように変換しても【意味は変わらない】。

  (104) 紫式部が源氏物語の作者だ。

(104)は、「倒置されたM‐同定文」だ。/(同書P148:【】強調は引用者)

さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実であろう。

生成文法の、話者とは独立に文という実体が存在するという錯誤が生んだ妄想に過ぎず、これを無批判に受け入れた著者の錯誤である。

そもそも、<役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとる>というメンタル・スペース理論が、文を話者から切り離し、対象世界と直結する誤った事実誤認に基づくことが理解できるであろう。

これは、現在の意味論がどの程度のものかをも示している。

このような、根本的な事実誤認に基づく非論理的な誤った論理展開がなされているのが、「日本語研究叢書」と銘打たれた本書であり、「日本語研究叢書」なるものの、根本性格である。

この事実をどのように、理解されるのであろうか?■

質問者からの補足コメント

  • ムッ

    なお、生成文法の性格については、

    「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
    http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …

    を参照下さい。

    この著書は 1972年に出版されており、大学図書館はもとより、大きな図書館には置かれていますが、無視されており、その結果が、この体たらくという現状です。

    もっともチョムスキーもすでに棺桶に片足を入れており、追って自然崩壊するしかありませんが。

    後世、偉大なる錯誤と評されるのでしょうか?■

      補足日時:2019/08/04 18:38
  • なお、「「日本の大統領は禿げだ」や「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」を可能世界やメンタル・スペースなしで、すっきり説明してみせねばなるまい。その場限りでない説明を。」

    これは、その場限りではなく、普遍的、本質的に話者の認識に結び付いていることを、最初に、

    そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。

    と記述していますが、チョムスキーに入れ挙げたボンクラの目には留まらなかったようです。

    話者のない文などというのは、猫がキーボードの上を歩き表示された文字群のことです。

    チョムスキーや西山が問題にしている対象はこういうものです。■

      補足日時:2019/08/05 12:25
  • 格助詞「が」 、副助詞「は」、係助詞「は」の意義の相違が理解できずにキリキリ舞いしていては、語の品詞と意義の相違、使用法が正しく理解できません。この点は、三浦つとむ『認識と言語の理論 第2部』で解明済みです。

    >>古い仮説を踏み台にして、新しいより一般性の高い仮説に行き着いたから。単なる屍ではない。
    そしてこのやり方こそが科学なのであり

    呆け!。
    量子力学が古典力学の上に築かれており、それが一つのパラダイム転換であることぐらい理解できないのか。(奴)
    量子力学が完成したら古典力学は不要になったのか。古典力学を不要で廃棄できると考える発想がナンセンスそのものであることに気づかないのか。

    武谷三男「ニュートン力学の形成について」(『弁証法の諸問題』)を眼光紙背に徹するまで読み込み、武谷三段階論をちゃんと理解しましょう。↓

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/05 14:40

  • >>ソシュールも晩年はアナグラムという、パロール学の実践に夢中であった。

    実践など日々人々がパロールを発しているのが理解できないのですか、
    そうではなく、ラングとは何であり、パロールの本質と、その関係を明らかにしなければなりません。

    カントの物自体を不可知とする哲学に依拠していてはパロ―ルの表現過程も意味論も築くことはできません。

    夏休みなので、シナイ半島でも行って、モスクで顔でもを洗ってから出直した方が良いでしょう。

    老婆心ながら。■

      補足日時:2019/08/05 14:43
  • この質問は、端無くも質問者の「は」「が」理解がいかに浅い、表面的なものであるかを明かしています。

    自分自身、良く判りもしないことを人に伝授しようなどとは無理、無体というしかありません。■

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/06 11:54
  • 他の質問に、

    <ハの後ろは否定形になりやすい傾向はあるのでしょうか その2>
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11235456.html

    がありますが、この例からも、当方が回答の通り、なんら相関はないことがわかります。

    なお、普遍性の側面に若干触れておけば、水の普遍性はH₂Oであり、「月【は】地球の衛星である。」のように普遍性を表わす科学の文や、憲法、法律に普遍性を表わす「は」が多用されます。

    なお、個別・普遍・特殊については、ヘーゲルの概念論を読んでも珍紛漢紛かと思いますが、

    「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」
    http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-60.h …

    <ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理――『法の哲学』の自由論 >
    (このタイトルで検索できます。)

    等を参照下さい。■

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/08 00:29
  • No.7の補足への続き。

    「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識」という言い方は若干誤解を招き易かったかもしれません。

    (101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人(のような)」とすべきでした。

    梅は咲いたか、桜はまだかいな。

    の場合は明確ですが。

    個別・特殊・普遍というのは、簡単にいえば、快挙を遂げた渋野日向子は個人ですが、それは、年齢も顔も身長も他とは異なる特殊性を持っています。そして、人、女性、動物、生物という普遍性に支えられています。

    このような、個の持つ立体的、重層的なありかたを捉え表現する場合に、そのどれかの側面を捉え表現することになります。

    渋野日向子自身は毎日成長し変化しますが、渋野日向子という固有性は変わらず、この固有性の側面が名前という固有名詞で表現されています。■

      補足日時:2019/08/08 08:01
  • なお、先に、

    (私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。

    と回答されていますが、ここでは付属【語】である語、格助詞、副助詞の意義を論じています。

    語ではなく、「語」とは何かが理解できないで、一体何を論じようとされているのか、そもそもこの基本的な理解の誤りを正さないと当方の言っていることが理解できないのではと危惧します。

    格助詞、副助詞、つまり助詞とは一体何なのか理解されているのでしょうか?

    そして、<格助詞「で」「に」理解の誤り>で提起しているように、助動詞とは何かも。■

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/10 05:59
  • もう少し、補足させていただきます。

    三浦の『日本語はどういう言語か』の初版は1956年に出されており、推薦の言葉に、批判者、助言者と記しているのにはその前段があります。

    三浦は、その前に『言語過程説の展開』を出版しようとしましたが、出版者が時枝批判を心配し、そのプリント版を時枝のもとに持参し意見を仰ぎ、時枝が是非出版して下さいと薦めたにもかかわらず、出版はされませんでした。

    これを見ているために、批判者、助言者と記しているものです。

    そして、三浦はこれを焼却してしまいますが、その後『弁証法はどういう科学か』がヒットし、知名度も上がり、言語論の本も受け入れられると判断し、ダイジェスト版の前段に認識論を加え『日本語はどういう言語か』を出版したものです。

    講談社学術文庫は旧版をそのまま出そう考えたのですが、その後の進展を取り入れ、改訂増補版とすることを要求し、出されたものです。■

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/13 08:20
  • プンプン

    大や抽象が問題ではなく、具体的、科学的な解明を目指すべきものです。

    時枝『国語学原論』第三章 文法論の「言語に於ける単位的なもの」、三浦『認識と言語の理論 第三部』「単語の認定における形式主義」(91p~)他を参照下さい。

    作業仮説としてしか語を捉えられなくて、よく、文、文章を論じ、当方の付属語批判にコメントできますね。恐れ入谷の鬼子母神というところです。

    すべて、「大きな問題」「難しい問題」で、問題を回避し、権威に頼ろうとするのでは、全く進歩はなく、単なる傍観者に終始する他ありません。

    ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれてこない。(時枝誠記『日本文法・口語編』)

    正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)

    だという警告も、この際思い出してもらいたいものです。■

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/16 10:52

A 回答 (36件中21~30件)

どうもいけません。

またひどい変換ミスがありました。

  教室復讐  →  教室・復習

失礼しました。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

なお、「に」と「から」については、

<格助詞「で」「に」理解の誤り><格助詞「に」と「へ」理解の誤り>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11241370.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11246251.html

を読んでいただければ明らかかと思います。

まず、<(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。>という誤りを克服することが第一ですが。■

お礼日時:2019/08/12 23:22

『日本語はどういう言語か』の文法以外のところを少し読んでみました。


ひどいですね。

次のところ。(p.30)

   まだ十分に訓練されていない頭で、予習・教室復讐・塾と、一日の
  大半を勉強に使わなければならず、観念的な自己分裂にたえず努力
  しながら重労働を続けなければならない学生たちは、個人差がある
  とはいえ、しまいには分裂活動に異常を来すようになります。(略)
  その結果、突然自殺するということも、起ります。
   精神病の医者の理論水準は世界的に低くて、まだ人間の観念的な
  自己分裂についての正しい理解がありませんから、(以下略)

世界中の精神医学者より、自分のほうが精神病についてよく知っていると思っているようです。
現在、ツイッターでよく見る、オッサン評論家ですね。こういうのは、「唯我独尊」というより、
「夜郎自大」ということばがぴったりします。

精神的な問題を抱える学生や、自殺者、あるいはその家族への、何の配慮もなく、こういうことが書けるという点で、うーん、何というか、一緒にいたくない種類の人間ですね。


言語学がまったくわかっていないという点について。
言い逃れしようのない、決定的な間違いを発見しました。

   日本語の「書[か]ない」の音韻は〔カ〕であって、〔k〕でもなければ、
   〔a〕でもないことをここで考えてほしいのです。「か」をkとaに分解すれば、
   それはもはや音韻ではなくて、単なる音声に過ぎませんから、それでは表現も
   文法も論じるわけにはいきません。外国の文字を使って音声を示してみせると、
   なにか科学的な分析であるかのように見えるというだけのことです。
            『日本語はどんな言語か』(1976、p.145)
             (傍点による強調を[]に置き換えた:引用者)

音声と音韻の違い、定義がわかっていない!
これで言語学を論じようというのですから、速度と加速度の違いを知らずに力学を論じるようなものです。
ましてやチョムスキーの理論がわかるわけもない。 
大正時代ぐらいの市井の文法好き、言語好きの好事家ならともかく、1976年に、言語学を批判しようという人がこれではねえ。

講談社の学術文庫というのも、意外に編集者がだらしないのですね。当時(1970年代)の大修館だったら、こんなレベルの本は出せません。編集者にしっかりした人がいましたから。

saburoo
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この回答へのお礼

丁寧なご指摘をありがとうございます。

>>世界中の精神医学者より、自分のほうが精神病についてよく知っていると思っているようです。

思っているのではなく、『認識と言語の理論 第一部』で認識論を展開し、「パブロフ理論とフロイト理論の検討」をし、ジャック=マリー=エミール・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年4月13日 - 1981年9月9日;フランスの哲学者、精神科医、精神分析家)や、構造主義の誤りを指摘しているのをご存じないようですね。

当方でさえ、認知言語学者のロナルド・ラネカー(Ronald W. Langacker 1942年12月27日 - )や、マイケル・トマセロ(Michael Tomasello、1950年1月18日 -;アメリカ合衆国の認知心理学者。ドイツ・ライプツィヒのマックス・プランク進化人類学研究所の所長を務める)の共同注意などという概念認識に無智な馬鹿話の誤りは理解できます。

>>音声と音韻の違い、定義がわかっていない!

どちらが、判っていないのでしょうか?
三浦は、『認識と言語の理論 第二部』で、「音声と音韻」を論じ、佐藤喜代治、有坂秀世と時枝の音韻論を論じていますので、批判するのであればそれを熟読してからの方が良いのでは。

改訂版の解説を吉本隆明が書いているように、<「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。>などと、語の定義さえできない方が「決定的な間違いを発見しました。」などと早とちりをしない方が懸命でしょう。

「速度と加速度の違いを知らずに力学を論じるようなものです。」というのは、どちらであるかは論ずるまでもないと思いますが。■

お礼日時:2019/08/12 22:34

また書き誤りがありました。

かなり注意はしているつもりなのですが。

   客観的な立証にできない  →  客観的に立証できない

失礼しました。

saburoo
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この回答へのお礼

#13からの続きです。(当方も#13と14を誤記しました。 失礼致しました。)

さらに、『認識と言語の理論 第一部 第二部』を時枝さんの所に届けたが、この頃はガンの再発で弱っておられ、目を通していただけたか否かは判りませんということです。

こうした経緯をご存じないようで、『日本語はどういう言語か』を少し読んだくらいで、理解できそうにないのは、当方の経験に照らしても確信に近いものがあります。

ましてや、「言語哲学(分析哲学)に関しては全くの素人」では、先が思いやられます。■

お礼日時:2019/08/12 22:08

えー、けっこう長く、丁寧に、具体的な議論の内容をまとめたつもりだったのですが、内容に関しては何も触れないのですか。


そうでしょうね。具体的な内容の議論は、結局ご自分の論の行き詰まりを示すだけですからね。

   当方の説明も徒労に終わったようです

おやおや、どこに「当方の説明」の意味ある部分があったのでしょうか。「~の認識」という中身のない表現がくり返されるだけで、いっこうその具体的な内容は示されませんでした。

結局、「特殊性の認識」の「比較対照」(「比較対象」?)の例のまずさから、泥沼に落ち込み、

   「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」
   「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。」

この不可思議な問答を、「~という回答は不自然ではありません。」という強弁でごまかさざるを得なかった。(内心、忸怩たる思いではありませんか?)

いくら強がりを言っても、具体的な文法の知識のなさ、考える方法のなさは明らかです。
「言語論」や「認識」の何とかかんとかを論じるのはけっこうです。どうぞご自由に。どのみち、立証できない議論で、つまりは反証できないものです。
そういう部分には私は関わりません。時間の無駄ですから。

しかし、具体的な文法の内容に関して、中身のない、決めつけるような言い方をされると、一応反論しておかないと、と思います。

格助詞「に」の用法(「先輩に聞いた話」)をご存じなくて、

  格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表し、対象を静的に捉えています。
  「から」は始発点の認識を表しており、「に」とは異なる意義を表しているので、「に」
  という格助詞を「から」という意味では使えません。■
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10831349.html

と書いてしまったり、「と」の並列助詞と格助詞の用法の違いなど知らないために、

   私はお母さんと郵便局に行く。と 私とお母さんは郵便局に行く。どう違いますか。

という質問に、

     「私はお母さんと郵便局に行く。」
   この「は」は副助詞で、特殊性の認識を表し、兄や姉や妹ではなく、「私は」という
   比較・対照による特殊性の認識を表します。
     「私とお母さんは郵便局に行く。」
   は、私と兄や姉や妹ではなく、「私とお母さんは」という「私とお母さん」という
   比較・対照による特殊性の認識を表します。■

これで答えたつもりになってしまう。(そもそも「特殊性の認識」ではないし。一人っ子でも言える!)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11204751.html

その他、これまでに何度も見当違いの「回答」をしていることに気づかない。
決定的に、文法の基本的な知識が不足しているんですね。
(あ、形容動詞に関しては詳しいようですね。時枝理論の信奉者ですから。)

これは、三浦つとむも同じです。
週末に大学の図書館へ行って、いくつか本を見てみました。小さくて軽いので、『日本語はどういう言語か』を借り、文法のところを少し読んでみたのですが、まったくのシロウトの文法談義ですね。もう少し内容があるかと期待したのですが。助詞のところが特にめちゃくちゃです。
ハとガの所もひどい。大野晋が悪いと言えばそれまでですが、あのいいかげんな議論を批判しただけで、何か賢いことを言ったつもりになっている。
時枝の言語論を評価するのもいいし、自分でその改訂を試みるのもいい。(私はそこは議論しません。上に書いたように、客観的な立証にできない事柄をあれこれ議論するのは好みではありません。)
しかし、具体的な文法の知識、議論のしかたをもう少し勉強してから、こういう本を書くべきでしょう。(内容をチェックしてくれる、多少は文法を知っている知人はいなかったのでしょうか。)

ご希望ならば、具体的な文法のところを少し引用して批判します。

(まあ、人が大事に思っているものを、あまりひどく叩きつぶすのもいい趣味ではないと思うけど。)

saburoo
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この回答へのお礼

丁寧な応答をありがとうございます。

>>「~の認識」という中身のない表現

言語が話者の認識の表現であることを理解出来ない以上、已むを得ないですね。

>>そういう部分には私は関わりません。時間の無駄ですから。

というのは、私には理解する能力がありませんとしか聞えませんが。

<(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。>

という、寝言については、何の回答もありませんね。語でないものが、話され、聞かれるという矛盾が理解できませんか。

>>格助詞「に」の用法(「先輩に聞いた話」)をご存じなくて、

当方の回答した通りで、「に」と「から」の意義の相違を理解できていないということです。語の意義と文での意味の相違が理解できていないということです。

<「(人)から(その話を)聞く」の意味で使われるのも、ごくふつうのことです。>などという回答は、「に」と「から」の意義と意味を混同した誤りです。

その相違が理解できないため、単に例文を並べて何か論証したような気になっているだけです。

>>「と」の並列助詞と格助詞の用法の違いなど知らないために、

別に知らない訳ではなく、「私とお母さんは」と記している通りです。

>>客観的に立証できない事柄

そう信じ込んでいるだけで、事実と正しい論理を適用すれば客観的に立証できるということです。

>>多少は文法を知っている知人はいなかったのでしょうか。

三浦は、ゲラ刷りを持って出版者の担当者と一緒に時枝を訪ね、次のような推薦文を貰い、初版のカバーの折返しに記してあるのをご存じないようです。

三浦さんは私の文法学説の良き理解者であると同時に、厳正な批判者でもあり、助言者でもある。文法学は文法体系のつじつまを合わせることだけでできるものではなく、もっと根底的なものの見方、考え方すなわち科学する態度から出発しなければならないことを、三浦さんは繰返し説いている。そのむずかしい哲学を、三歳の児童でも分かりそうな図解でもって、懇切に興味深く説明する。私もさらに熟読して多くの収穫を得たいと思っている。/

そして、時枝は『日本文法 口語編』で、三浦の主体的表現、客体的表現という用語を採用しています。

以下、#13のお礼欄へ。■

お礼日時:2019/08/12 22:05

No. 11の続きです。

(No. 11は、レイアウトがどうもうまくいきませんでした。行頭の空白が反映されず、あちこち読みにくくなってしまいました。わかりにくいところは、ご面倒でも元の投稿個所をご参照ください。)


[7] それで、しつこく、No. 9で同じ質問をしました。
こちらの質問の主旨がおわかりいただけていないようです。前回の質問の中心は、
    (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]
この文の「紫式部は」が、その前の「清少納言や小野小町ではなく」となめらかにつながらず、文全体として不自然になっているのではないか。質問者はそう感じないのでしょうか、ということでした。
そして、「清少納言や小野小町ではなく」という「比較対照」の部分と素直につながるのは「紫式部が」ではないか、ということです。(今回も、「具体的に比較対象として、「清少納言や小野小町」を挙げているものです。」とありますね。)
  (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]
この(C)と(D)の、文法性あるいは文の自然さの違いを、質問者はまったく感じないということでしょうか。
その答え、

    たしかに、「源氏物語の作者は清少納言か小野小町か?」という問いの回答としては、
     清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
    が自然な回答です。

(!)やっと認めました。
しかし、その後にすごい付け足しがありました。

    しかし、
    「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」という問いの答えとして、
    清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
    という回答は不自然ではありません。
    文法的にも適切で、文は、それぞれの場面、背景のもとに発せられるもので、
    形式的に背景を無視して比較し、非文などと決め付けるのは生成文法的な発想の
    誤りです。

これは、「我が目を疑う」というレベルです。
このような日本語の語感を持っている、あるいは、語感がデタラメである、人が日本語の文法について、しかも難しい問題であるハとガについて何かを述べようとするのは、根本的に無理であろうと私は考えます。
ここを読んで、このハガ問答は打ち切ったほうがいいのだろうか、とも思ったのですが、基本的な問題をそう少し追いかけてみようと思い、次の質問をしました。

[8] No. 10の質問です。
 No. 8 の「この回答へのお礼」の中の、
        私【が】校長である。
    の場合、話者は個人としての私の地位を表わすのであり、、
       私【は】校長である、
    の場合は、他の先生と異なり単なる教員ではないという特殊的な存在として
     私を他と区別するのと同じ表現です。
というところに関してです。
「校長である」が「個人としての私の地位を表わす」のは、「は」も「が」も共通であろう、と言うより、むしろ「は」の文の場合であろう、と考えて、
   旅先で、その土地の人、例えば食堂の親父さんなどと話をしていて、「お客さん、
   お仕事は?」と聞かれてどう答えるか。
     A 私が小学校の校長です。
     B 私は小学校の校長です。
   この場合、「話者は個人としての私の地位を表わす」のであり、「他の先生と異なり
   単なる教員ではないという特殊的な存在として私を他と区別する」わけではない。

と書いたのですが、

この場合は、あなたではなく、私【は】という、私の特殊性の認識を「は」で表しています。

と、うまくかわされました。なるほど。
しかし、「小学校の校長です」の部分が「個人としての私の地位を表わす」のかどうかということは回答なしです。
どうも、「が」の「個別性の認識」というのが何だかわかりません。何の具体的な説明もないのですから、当然なのですが。結局、説明しようがないのでしょう。


以上、長く振り返ってきましたが、やはり、質問者は、名詞文の「は」と「が」の用法について基本的なところがわかっていないようです。
「特殊性の認識」と「個別性の認識」(それと「普遍性の認識」)という、文法ではない他のところから持ってきた考え方ですべてを説明しようとするので、都合のいい例を都合よく説明しているうちはいいのですが、ちょっとうまくいかない例にぶつかると、無視するか、非常に強引な「語感」で「文法的」だ、などと強弁せざるを得なくなります。
名詞文の「は」と「が」の問題は、動詞文とはまた違うところがあるので、そこに注意しなければならないのですが、そのような問題点についても知らないようです。(まして、「カキ料理構文」の問題点がわかるはずもありません)

私は、一応、文法の専門家のはしくれとして、何とかその誤りに気づかせようと思ったのですが、徒労に終わったようです。
なお、
    清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
がなぜ「が」なのかの説明をしようかと考えていたのですが、「主題名詞句」と「述語名詞句」の解説などは頭から否定されるだけでしょうから、やめておきます。
「は」に「対照」の働きがあるのはいいとして、何と何を「対照」するのかがわからないと、上述のような落とし穴にはまります。(そして、「が」の「指定」あるいは「総記」と言われる用法についての理解も必要です。)

私が「は」の問題についてまじめに勉強したのは、20年以上前のことです。それ以後、多くの研究が出版されています。今回の議論をきっかけにそれら(西山の本も含めて)を読んでいきたいと思います。その意味では、今回の「徒労」にも意味はあったように思います。

このハガ問答を読んでくださった方々にとって、何らかの参考になるところがあれば幸いです。(質問者も、ほんの少しご自分の考えの欠点について気付いてくれればいいのですが、望み薄です)

saburoo
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この回答へのお礼

丁寧な応答をありがとうございます。

>>文法ではない他のところから持ってきた考え方ですべてを説明しようとするので、都合のいい例を都合よく説明しているうちはいいのですが、

残念ながら、欠陥事典の編集者、執筆者と同じで、文法とは何か自体を理解されていないようで、当方の説明も徒労に終わったようです。

言語表現の過程的構造と、概念認識の現実の世界の持つ構造との対応などとても理解いただけそうにありません。

>>「は」の問題についてまじめに勉強したのは、20年以上前のことです。それ以後、多くの研究が出版されています。今回の議論をきっかけにそれら(西山の本も含めて)

現在の多くの研究は当方が指摘した通り、山田―時枝文法からの後退でしかないので、読まれるのであれば、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』『認識と言語の理論 第1部~第3部』『日本語の文法』他を是非理解していただき、科学的な言語論、文法論を習得下さい。■

お礼日時:2019/08/11 18:38

これまでの議論を振り返って、問題点を整理してみたいと思います。



[1] まず最初は、No 4で、次の二つの文の意味の違いについて質問しました。
  (101) 源氏物語の作者は紫式部である。
  (104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
 何らかの違いがあるのは当然として(形が大きく違います)、さて、具体的にどう違うと考えるか。

[2] それに対する答えは、
(101)は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という
     特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。これは、
     副助詞「は」という特殊性の認識を表わす語が示しているものです。
    (104)は紫式部という個人に関する言明で、個別性の認識を表わす格助詞
     「が」が使用されています。そして、この紫式部という人が「源氏物語の
     作者だ」と言っているのは理解できますよね。
でした。
それぞれ、「は」と「が」について、「は:特殊性の認識を表す」「が:個別性の認識を表す」という、基本的な違いが提示されているのですが、その具体的な説明としては、
は:清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という
     特殊な作品の作者
が:紫式部という個人に関する言明
という部分だけです。
「清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく」という部分は、いわゆる「対照のハ」の説明に近いものです。(「主題」という概念は考慮されていません)
また、「特殊な作品」という言い方が、「特殊性」と関係あるのかと思って、次の質問で尋ねてみました。(しかし、「枕草子」や「万葉集」も「特殊な作品」ではありますよね。)
「が」のほうの、「紫式部という[個人に関する]言明」というのが「個別性の認識」と関係するのかと思い、これも次の質問で尋ねました。
その後の、
この紫式部という人が「源氏物語の作者だ」と言っている
という説明は、
  紫式部    が 源氏物語の作者だ
を引きのばしただけなので、何の説明にもなっていません。

[3] No. 6での質問は
例えば、次の(A)では、「源氏物語という特殊な作品の作者」を「紫式部」だ、と言っているのだと思うのですが、これは「特殊性の認識」なのでしょうか、「個別性の認識」なのでしょうか。
   (A) 源氏物語の作者が紫式部である。
また、次の(B)では、「紫式部という個人」が、「源氏物語の作者だ」と言っているのではないでしょうか。そうすると、これは「特殊性の認識」なのでしょうか、「個別性の認識」なのでしょうか。
   (B) 紫式部は源氏物語の作者だ。 

[4] それに対する答えは、
      (A) 源氏物語の作者が紫式部である。
   の場合、「源氏物語の作者」という作者の個別性の認識を「が」が表しています。
   そして、その作者が「紫式部である。」と表現しています。
      (B) 紫式部は源氏物語の作者だ。
では、清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識を副助詞
  「は」が表し、その紫式部は源氏物語の作者だ、という表現です。
    このように、格助詞「が」には比較対照の意義はなく、「は」は比較対照
   による特殊性の認識を表わしています。
でした。
これをみても、「個別性の認識」なるものが何であるのか、何の手がかりもありません。それ以上説明しようのないもののようです。
「格助詞「が」には比較対照の意義はなく」というところが加わっただけです。
「源氏物語」に対する「特殊な作品」という説明は削除されています。「が」の説明の中で使うには都合が悪いのでしょう。結局、「特殊性の認識」の「特殊」とも関係ないようです。
一方、「は」については、新しい説明の表現が加わっていました。
清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識を副助詞「は」が
    表し、その紫式部は源氏物語の作者だ
    「は」は比較対照による特殊性の認識を表わしています。
「特殊性の認識」は「比較対照」によるもののようです。 
そこを次の質問で尋ねてみました。

[5] No. 7での質問と答えです。
 (1)    (A) 源氏物語の作者が紫式部である。
   の場合、「源氏物語の作者」という作者の個別性の認識を「が」が表しています。
ということですが、この「個別性の認識」という表現の内容がはっきりしません。
「個別性」というのは、他とは違う、ということでしょうか。
これに対する答えは、
対象を他との比較ではなく、個としての側面を云い、「が」はその個別性の側面
    を捉えることを表わします。
で、結局何もわかりませんでした。「源氏物語の作者」の「個としての側面」というのは、つまり「源氏物語の作者」であることなんでしょうが、それで何かを説明したことになるのか。
それとも、「源氏物語の作者」の「個としての側面」が「紫式部である」こと? もう、何が何だかわかりません。

 (2) (101)にも「源氏物語の作者」という語句があります。
    (101) 源氏物語の作者は紫式部である。
それは、やはり「作者の個別性の認識」を表しているとは言えないのでしょうか。
そして、それに加えて、「清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者」という「特殊性の認識」が重なるのだと考えてはいけないのでしょうか。
「個別性」と「特殊性」は重なりうるものではないのでしょうか。
この質問に対する答えは、
    個物は、普遍と特殊という調和する矛盾という対立物の統一として存在しており、
   これらのどれかの側面を話者は取り上げることになります。矛盾の統一である
   ため、この各側面は排他的に取り上げることしかできません。
哲学的な言辞で逃げられてしまいました。
哲学の話をしているのではなく、文法の説明のしかたを議論しているのですが。まあ、「認識」などということを文法の話でカギにすることに無理があるのだとは思いますが。

 (3) No. 6の答えの中の次の部分について尋ねました。    
(B) 紫式部は源氏物語の作者だ。
   では、清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識を副助詞
   「は」が表し、その紫式部は源氏物語の作者だ、という表現です。
この「清少納言や小野小町ではなく」は「比較対照」を表していますが、それに自然につながるのは、「特殊性の認識」を表す「は」を使った(B) ではなくて、「個別性の認識」を表すはずの「が」を使った(104)ではないか、という疑問を持ったのです。
   (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]
   (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]
これについて、
どちらも文法的には正しい表現になります。
という答えが返ってきました。
私としては、明らかに(C)は前半と後半がずれていて不自然だと思うので、改めて質問しました。

[6] No. 8での質問は、No. 7の(3)の繰り返しです。
「清少納言や小野小町ではなく」という形で比較対照されている「紫式部」ですが、しかし、「特殊性の認識」を表す「は」をつけた形「紫式部は~」の文は、かえって不自然になってしまう。
これはなぜなのでしょうか。
それに対する答えは、
      (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
    では、清少納言や小野小町との比較による特殊性の認識が「紫式部【は】」
    という表現になっています。
これに対し、
      (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
    では、「紫式部【が】」と個としての紫式部を取り上げています。
で、まったくこちらの質問に答えていません。
「個としての紫式部」と言いますが、「個としてデハナイ紫式部」とは何なのでしょうか。「紫式部は~」という文では、「個としてデハナイ紫式部」なのでしょうか。

(長いので、二つに分けます)

saburoo
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毎回、お答えありがとうございます。



しかし、

    「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」という問いの答えとして、
      清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
    という回答は不自然ではありません。

これ、本気ですか?(もう一度、頭を冷やして考え直したほうがよくはありませんか?) 

こんな事をまじめに主張なさるのだとすると、次の質問をする気力が失せそうですが、一応、次に予定していた質問をします。

No. 8 の「この回答へのお礼」の中の、

     私【が】校長である。
   の場合、話者は個人としての私の地位を表わすのであり、、
     私【は】校長である、
   の場合は、他の先生と異なり単なる教員ではないという特殊的な存在として
   私を他と区別するのと同じ表現です。

というところに関してです。

旅先で、その土地の人、例えば食堂の親父さんなどと話をしていて、「お客さん、お仕事は?」と聞かれてどう答えるか。

   A 私が小学校の校長です。
   B 私は小学校の校長です。

(もちろん、B で答えますよね?)
この場合、「話者は個人としての私の地位を表わす」のであり、「他の先生と異なり単なる教員ではないという特殊的な存在として私を他と区別する」わけではないでしょう。

名詞文の「が」について、

      私【が】校長である。
   の場合、話者は個人としての私の地位を表わすのであり、、

のような説明をするのは、かなり見当違いなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
(「私が校長だ」は、かなり限定された文脈の中で使われる言い方です。そのことは、名詞文のハとガを研究する者の間では50年以上前から知られていることで、当然の前提なのですが、ご存じないのでしょうか。)

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>お客さん、お仕事は?」と聞かれてどう答えるか。
(もちろん、B で答えますよね?)

その通りです。
この場合は、あなたではなく、私【は】という、私の特殊性の認識を「は」で表しています。

>>「私が校長だ」は、かなり限定された文脈の

具体的にどのような文脈を云われているのかわかりませんが、前にも記したように、「は」には特殊性の認識を表わす副助詞の「は」と、普遍性の認識を表わす係助詞があり、この区分ができないため、50年以上前から問題になりながら解決できていないものと考えます。

主題を表わすだの、既知/未知、新情報/旧情報などと機能を並べるしかない段階では、解明は論理的に不可能です。

やはり、個別・特殊・普遍の関係が理解されていないようなので、補足に挙げた、

「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-60.h

をイメージが浮かぶまで読み込んでいただきたいと思います。■

お礼日時:2019/08/09 23:15

お答えを有難うございます。



こちらの質問の主旨がおわかりいただけていないようです。

前回の質問の中心は、

  (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]

この文の「紫式部は」が、その前の「清少納言や小野小町ではなく」となめらかにつながらず、文全体として不自然になっているのではないか。質問者はそう感じないのでしょうか、ということでした。

そして、「清少納言や小野小町ではなく」という「比較対照」の部分と素直につながるのは「紫式部が」ではないか、ということです。(今回も、「具体的に比較対象として、「清少納言や小野小町」を挙げているものです。」とありますね。)

  (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]

この(C)と(D)の、文法性あるいは文の自然さの違いを、質問者はまったく感じないということでしょうか。

この点を、再度伺いたいと存じます。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答ありがとうございます。

たしかに、「源氏物語の作者は清少納言か小野小町か?」という問いの回答としては、

清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。

が自然な回答です。

しかし、

「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」という問いの答えとして、

清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。

という回答は不自然ではありません。

文法的にも適切で、文は、それぞれの場面、背景のもとに発せられるもので、形式的に背景を無視して比較し、非文などと決め付けるのは生成文法的な発想の誤りです。■

お礼日時:2019/08/09 09:55

再びお答えを有難うございます。


しかし、こちらの疑問はまだほとんど解消されていません。

論点が拡散することを避けるため、一点に絞って質問します。

「特殊性の認識」についてですが、
  「特殊性の認識」とは、「比較対照によって、他とは違う「特殊性」がある」ということだ
という理解でよいのだろうと思いますが、

     (B) 紫式部は源氏物語の作者だ。
   では、清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識を副助詞
   「は」が表し、その紫式部は源氏物語の作者だ、という表現です。

というお答えの中の、紫式部の前の部分、「清少納言や小野小町ではなく、」という「特殊性の認識」を説明しているところは、むしろ「個別性の認識」の説明になっているのではないか、というのが前回の質問の焦点でした。

   (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]
   (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]

これらの文の「認識構造」の解説の部分は、そういうものかなあ、という以上の感想はありませんが、
 
   これらは、「(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。」とは異なる新たな話者の認識の
    表現で、どちらも文法的には正しい表現になります。

のところに引っかかりを感じました。
どちらも「文法的には正しい表現」と言えるのかもしれませんが、私の感覚では明らかに(C)の文は「落ち着きが悪く」、はっきり言えばかなり不自然な文です。
おそらく、この感覚(文の適格性判断)は、中学生たちに聞いても同じでしょう。

「清少納言や小野小町ではなく」という形で比較対照されている「紫式部」ですが、しかし、「特殊性の認識」を表す「は」をつけた形「紫式部は」の文は、かえって不自然になってしまう。
これはなぜなのでしょうか。

「No.7の補足への続き。」の中に、

    「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識」という言い方は
    若干誤解を招き易かったかもしれません。

とありますが、この「誤解を招く」というのはどういう「誤解」でしょうか。
私が何か誤解しているということでしょうか。何を、どう「誤解」したのでしょうか。

そして、説明の「修正版」として、

    (101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町
    ではなく、紫式部という人(のような)」とすべきでした。

とありますが、これは、

「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人(のような)特殊性の認識」

と修正するということでしょうか。この修正で何が変わるのかどうもわかりません。

理解が悪くてすみませんが、お答えをいただけたら幸いです。

saburoo
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この回答へのお礼

鋭いご質問を有難うございます。

>>「比較対照によって、他とは違う「特殊性」がある」ということだ

言語は話者の認識の表現で、話者が対象の持つどの側面を捉えるかの問題です。

<他とは違う「特殊性」がある」>のではなく、紫式部という個人が他の人とは異なるという特殊性の側面の認識を「は」で表しているということです。

前にも述べたように、個は普遍と特殊の統一として存在しています。この特殊性の側面を捉えた表現ということです。それを特殊として捉えるのは、他との比較対照が前提になります。

(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。

では、清少納言や小野小町との比較による特殊性の認識が「紫式部【は】」という表現になっています。
そして、「清少納言や小野小町で【は】なく」の「は」は無くても、意味が通じ、ここでは格助詞「だ」の連用形「で」と組み合わされ、「この傘で【は】濡れてしまう」の「は」と同じように、山田孝雄の云う「事物を判然と指定し、他と混乱することを防ぐ」限定という機能を果たすと特性性を表わす「は」です。

これに対し、

(D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。

では、「紫式部【が】」と個としての紫式部を取り上げています。

このように、直接対象の在り方と結び付けるのではなく、話者による対象の捉え方の相違という処をきちんと理解しなければなりません。

すいませんが、

 >>(101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町

というのは当方の早とちりで、具体的に比較対象として、「清少納言や小野小町」を挙げているものです。
お詫びし、訂正させていただきます。そして、さらに「紫式部【は】」とその特殊性の側面において捉え表現していることになります。

これは、

私【が】校長である。

の場合、話者は個人としての私の地位を表わすのであり、、

私【は】校長である、

の場合は、他の先生と異なり単なる教員ではないという特殊的な存在として私を他と区別するのと同じ表現です。■

お礼日時:2019/08/08 23:09

丁寧なお答えをいただき、有難うございます。



しかし、まだわからないところがいくつかあります。

(1) まず、

    (A) 源氏物語の作者が紫式部である。
  の場合、「源氏物語の作者」という作者の個別性の認識を「が」が表しています。
  そして、その作者が「紫式部である。」と表現しています。

ということですが、この「個別性の認識」という表現の内容がはっきりしません。
「個別性」というのは、他とは違う、ということでしょうか。それとも、何かほかの意味合いを持つのでしょうか。

No. 4 の「この回答へのお礼」には、例文(104)に対して、「紫式部という個人に関する言明」という説明がありましたが、
     (B) 紫式部は源氏物語の作者だ。 
も「紫式部という個人に関する言明」だと言えないのでしょうか。言えないとするならば、それはなぜでしょうか。
     

(2) (101)にも「源氏物語の作者」という語句があります。

    (101) 源氏物語の作者は紫式部である。
  (101)は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という
   特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。

それは、やはり「作者の個別性の認識」を表しているとは言えないのでしょうか。
そして、それに加えて、「清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者」という「特殊性の認識」が重なるのだと考えてはいけないのでしょうか。
「個別性」と「特殊性」は重なりうるものではないのでしょうか。


(3) 「特殊性の認識」に関して。
 
  このように、格助詞「が」には比較対照の意義はなく、「は」は比較対照による
   特殊性の認識を表わしています。

この説明によって、「特殊性の認識」とは、「比較対照によって、他とは違う「特殊性」がある」ということだとはっきりしました。こちらは、「個別性の認識」よりもわかりやすいと思います。

 しかし、その前の説明の、

  清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識

とあるところですが、この「清少納言や小野小町ではなく」という表現の後に自然につながるのは、(B) ではなくて(104)ではないでしょうか。

  (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]

 (D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]

つまり、「清少納言や小野小町ではなく」という表現の後に自然につながるのは、特殊性の認識を表す「は」ではなく、むしろ「個別性の認識」を表す「が」ではないでしょうか。

これをどう考えたらいいのかわかりません。


今回のお答えの中には「普遍性の認識」を表す係助詞の「は」というものが出てきますが、それについての質問を始めるとまた混乱しそうですので、そちらはまたの機会に伺いたいと思います。

今回は以上の(1)~(3)について、またお答えをいただけたら幸いです。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

種々、ご検討いただきありがとうございます。
下記の通り回答させていただきます。

(1)
>>「個別性」というのは、他とは違う、ということでしょうか。

対象を他との比較ではなく、個としての側面を云い、「が」はその個別性の側面を捉えることを表わします。

固有名詞の場合は、その物の一貫した固有性の側面を実体として捉えたもので、名前などがっそれです。

>>(B) 紫式部は源氏物語の作者だ。 
も「紫式部という個人に関する言明」だと言えないのでしょうか。

この「は」は先に述べたように、他の人との比較・対照の認識を表わし、他ではない紫式部という認識を表わしています。

梅は咲いたか、桜はまだかいな。

の場合、明確に梅と桜が対比されており、それぞれの花の特殊性が「は」で表わされています。これを、個別性の認識を表わす「が」に変えることはできません。

(2)
>>「作者の個別性の認識」を表しているとは言えないのでしょうか。

個物は、普遍と特殊という調和する矛盾という対立物の統一として存在しており、これらのどれかの側面を話者は取り上げることになります。矛盾の統一であるため、この各側面は排他的に取り上げることしかできません。

(3)
>>この「清少納言や小野小町ではなく」という表現の後に自然につながるのは、(B) ではなくて(104)ではないでしょうか。

(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。[後半=(B)]

この文が表す認識構造は、「清少納言や小野小町で」という現実に相違した想像の世界が肯定判断辞「だ」の連用形「で」で肯定され、「清少納言や小野小町」という特殊性の認識が「は」で示され、それが、否定の助動詞「なく」と否定され、さらに紫式部という特殊性の認識が「は」で示されたものです。

(D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。[後半=(104)]

は、否定判断の内容は同じですが、ここでは、個としての紫式部が「が」で示されています。

このように、これらは、「(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。」とは異なる新たな話者の認識の表現で、どちらも文法的には正しい表現になります。

以下、補足へ。

お礼日時:2019/08/08 00:25

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