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神聖ローマ帝国に大空位時代というのがありますが、国をまとめる一人者が長年いなかったにもかかわらず、国が崩壊しなかったのはなぜでしょうか?

A 回答 (2件)

まず、もの凄く単純に考えて、当時の日本と同じと考えてください。



当時の日本は鎌倉時代ですが、幕府は北条氏が取り仕切り、征夷大将軍は藤原氏などに任命されていて、将軍不在の幕府でした。けれども、そんな状態でも幕府としての機能は保たれていて、元寇の際にも対応することができたのです。

ドイツの歴史は他のヨーロッパ諸国と比べれば、日本に似ています。むろん、少し細かい話になると全く違いますが、大まかな流れとしては似通っていますので、その当時の日本と比べてみると参考になることがあります(あくまで、参考になることがある程度です)。

もともと神聖ローマ帝国とは、その前進であるフランク王国(分裂前)のカール1世に対して、ローマ教会から帝位をもらったことから始まります。教会がカールに帝位を授けたのは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に対抗するために、西ローマ帝国の復興の象徴として帝位を授けたのです(むろん、同時に教会の保護もありますが)。

その後、フランク王国が分裂し、東フランク王国でのカロリング朝が途絶えると、諸侯が国王を選挙で選出し始めました。国王に選出されたオットーは諸事業(事業の内容をみるとカール大帝を意識していると思われます)により教会から帝位を授かり、東フランク王国が西ローマ帝国の正当な後継者となりました(神聖ローマ帝国の誕生)。

ただ、オットーは国王の位と帝位を世襲したものの、その後の皇帝(国王)は皆短命に終わっていました。これは、国王と皇帝の兼任にそもそも無理があるのです。皇帝というのは国王よりも位が上で、本来国王の任命権もあり、その影響は西ローマ教会の影響下にある国全てに及びます。つまり、皇帝はドイツ以外にも、仏や英、伊、西などといった地域も統治しなければいけないのです。これを今の日本に当てはめてみると、日本の総理大臣をしながら東アジア全域(韓国・北朝鮮・中国(台湾・香港なども含む))をも統治しないといけないのです。当然これは無理な話ですよね。

国王の位と帝位の無理な兼任によって皆短命に終わった結果、中央集権化ができませんでした。また、帝位は神聖ローマ帝国以外のフランスやイギリスでも授かることができるため、帝位の保持のためにイタリア政策を行うようになりました。このことがさらに国内の中央集権化を十分に行うことを妨げました。そのため、各地の諸侯の権力が高く、大空位時代でも問題なかったのです。

その後、1871年にプロイセンがドイツ帝国に統一するまで、ドイツ領内には大小300の国家や領主がいました(1868年に明治政府が誕生した時も大小300近い大名がいたといいます)。神聖ローマ帝国は連邦国家と考えてもいいと思います。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございました。
よくわかりました。

お礼日時:2005/02/05 16:04

神聖ローマ帝国の特徴として、一つに、中央集権体制が確立されてなかった事が挙げられます。



つまり、強い権力者(皇帝)が一人でリーダーシップを発揮して国をまとめていたのではない、ということです。

数多くの諸公国、地方伯領、辺境伯領などの大小様々な国家がよりあつまって神聖ローマ帝国を形成していました。
そのため、皇帝はいるにはいるが、地方の権力が強く、全く統一された国家の体を為していませんでした。

神聖ローマ帝国の起源となった東フランク王国が、そもそも、各地の諸侯の権力が強かったのです。

語弊があるかもしれませんが、要するに神聖ローマとくくられた国家(?)の中に、独立した大小の国々がたくさんあったということです。

それでも、皇帝がいたことで、一応「帝国」という面子は保てましたが、大空位時代には単なる大小300余りの独立国の集まりと言うだけのものになってしまいました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。よくわかりました。

お礼日時:2005/02/05 16:04

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