No.1
- 回答日時:
専門家ではありませんので自信はありませんが、名古屋生まれで、信長は好きですので、勝手に答えさせていただきます、ご迷惑をかけたらごめんなさい。
信長の戦略方法は桶狭間の対今川以外は、物量作戦だと思います。戦力的に勝てる目安がつくまでは我慢しているあたりは、対武田、対本願寺の戦い方が特徴的だと思います。鉄砲に代表される新しい武器の採用など、合理的な戦略が、古いしきたりを大切にする戦略を打ち破ったことになるのでしょうか。
信長があそこまで昇りつめられたのか。>
基本的には兵農分離を他の戦国大名より早くはじめたこと、地元の津島に港があり商業が盛んで経済的に近隣諸国より優位だったこと、都から適度に離れているため古いしきたりに縛られず自由な発想で戦ったからではないでしょうか
比叡山のお坊さんを焼き殺すのは、当時としてはなかなか実行できることではないと思います。ここでも合理的?なものの考え方かあるように思います。
本能寺>
戦略的には油断ですね、本人と長子が少ない護衛で近くにいては、謀反を誘っているようなもので、いまだに謎ですね。レポートの参考にはならないかもしれませんが、このあたりは堺屋太一の「鬼と人と」あたりが面白いですよ。
ありがとうございました。境屋太一著の本、機会があったらよまさせて頂きますね。すごく的確に解りやすく教えて戴いてありがとうございました。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
私もfishbowl66さんと同じで昔、或る人と織田信長の件で議論をした事を思い出して回答してみますが私の独断と偏見ですから参考にはならないと思いますが。
織田信長の戦略は若いときには美濃を攻略するまでに10回以上も兵を出し長良川に阻まれて悉く敗戦若しくは引き分け。
恐らくその時に自然を味方につける方法を身につけたのではないでしょうか。
その代表例は桶狭間(今川義元は暗君ではなく文武に優れた名将)の合戦で今川勢の大軍(軍の員数、装備)がどの道を通り何所で野営を、昼食を全てを情報により掌握しており、恐らく今川軍の通る地形等は織田信長は実際に偵察していたのではないでしょうか。
天候については小さい時から身につけていたと思いますよ。
自分の目で確かめ、自分で経験し、自分で情報を収集したから重臣と軍儀する事なく合戦の場を決めていたと思います。
その後の代表的な戦は北陸の勇の朝倉、浅井連合軍に加担した叡山の焼き討ちですが当時の武将は寺院を保護することはしても戦略的見地から焼き討ちなど考える武将などは無かったが信長は純粋に戦略的見地に組込(懐柔策も試みたと思います)み一挙に殲滅しなければ常に消耗戦に陥りまかり間違えば自分の身も危なく、当時の寺院は兵糧と財貨の山で一石二鳥を狙ったと思います。
織田信長の戦略は自分の目で確かめた事、戦いに勝つ為には自分の軍勢とを合わせて最短距離が計算でき、計算して勝てない相手には辞を低くした天才的なワンマンアミ-でしょう。
それの表れが武将とは戦に勝つのが武将で教養、名門等何の値打ちも無いので極端に言えば武に優れていれば誰でもよく家来にした事が人材が集まり最強の軍団に育てた原因でしょう。その表れは京極家と戦ったときに京極家の支城を守った蒲生家にはお咎め無しに家臣に組み込む。
それと戦は金なりを肌身で知っていたので金を得る為に楽市、楽座を設けて戦に勝つためには人、物(制度)、金、権威を利用した戦を知る武将でしょう。
何故あそこまでに昇りつめたのは天下武布の志の高さにあると思います。
恐らくこの志は多感な青春期に人身売買及び奴隷のようなあらゆる世間の矛盾を見聞きし正義感の表れではないでしょうか。
織田信長は鬼神と言われていますが女性には優しく庶民を最も愛した慈父だと思いますよ。
本能寺の変については天下武布の目処がつき人生の絶頂期で同じ頃、四国の長曽我部元親に四国安堵の朱印状を反故にした時期で家臣は道具で道具の反乱等思いも寄らぬ油断でしょう。
ありがとうございました。こんなに沢山書くの大変だったのではないでしょうか?本当にありがとうございました。私的にすごく心惹かれたのは女性には優しく庶民を最も愛した慈父だったという点です。そういったところで信長は人としても魅力があったのだろうなって思いました。ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
まず信長を語る上で頭に入れておかなければならない事は、信長と言う人間は昔からの慣例にとらわれず、序列を重んじず、良いと思うものはすべて受け入れるといった大変な合理主義者だということです。
そういう観点から見ていくと、
・秀吉を登用したこと
・朝廷に対し心理的な優位を保っていた事、また権威を否定していたこと
・比叡山を焼き討ちしたこと
・鉄砲を重視した戦法(当然相手によって変わるが・・)
などなど、すべてうなずける事ばかりです。
そして古いものを否定すれば、当然それらから反発を受けますが、古い勢力と関係があった明智光秀がその役を買って出たということです。
ただし、信長がこれらの事を予測できなかったとは考えにくく、真相については憶測の域を出ませんが、私が思うに本能寺の変は『それでも光秀が謀反を起す事はない』と思っていた信長の読みが外れた結果だと思います。
信長の生涯を一言でいいますと、『新しいものは伸びるがまた打たれもする』といったところでしょうか・・・
回答ありがとうございました。新しいものは伸びるがまた打たれもする。それは今の日本でもまだ残っていることで、信長もやはりそういう人間的な部分で討たれてしまったのかと思うと少し残念ですが。でも、明智光秀にたいしてそこまで信頼を寄せていたのでしょうね。ありがとうございました。
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