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 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が巨象に挑むがごとく、あのアメリカに正面から戦をしかけるなど、私には全く理解できません。現に、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は十分に国力の差を承知していました。「アメリカの国力を知りたいならば、デトロイトの自動車工場を見れば一目でわかる」とまで言っておりました。山本五十六は大正から昭和にかけて何度かアメリカに勤務した経験があったからだとは思いますが。
 それとも、当時の軍首脳たちは全くアメリカの国力を分析することなく、戦争になれば元寇のような神風が吹くから必ず勝てる、とでも信じて開戦に踏み切ったのでしょうか。もしそうならば、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法も知らなかったこととなり、敗戦は当然の結果となりましょう。ちなみに、開戦時の首相東条英機は訪米の経験がなかったようです。たしかに、国連脱退による孤立、ABCD包囲網、アメリカからの石油の禁輸など、日本に対する国際状況は日増しに厳しくなっており、日本としてもやむを得なかったのかもしれません。
 しかし相手が資源豊かな大国であることを考えた場合、どう見ても無謀な戦いであったような気がしてなりません。太平洋戦争はどうしても避けられなかったのでしょうか?
 ご存知の方は、どうか私の素朴な疑問にお答えくださるようお願い申しあげます。

A 回答 (21件中1~10件)

こんにちは。


>神風が吹くから・・・まさにそれではないでしょうか。

何時の世も、戦争をしたがる人達は机の上で戦争をする人達です。

強力な軍隊を持てば使ってみたくなるという欲求に駆られた結果でしょう。

本当に戦場を知り、政治家となった人は東郷平八郎(厳密にはこの人は政治家とはいえませんが)とその同僚、加藤友三郎で最後でしょう。

そしてこの二人の出した結論は不戦海軍論です。
山本五十六もこの教えをくむ一人で、太平洋戦争を締めくくった井上成美もそうです。

結局、血気にはやって戦争を始めた人達は、最後は任務を放り出して安易な戦争を戒めた人達に、その任をおわせたのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
不戦海軍論と井上成美については今後勉強します。

お礼日時:2005/03/22 22:15

歴史には、ときどき小国が国力の違いを乗り越え大国に勝利することがあります。

そのようなとき、小国は小国なりに精強な軍隊を持ち、蜂の一差しのように大国に対し勝利を収め、往々にして二つの国家の地位を逆転していくきっかけとなるのです。世界史では、エリザベス女王の艦隊がスペインの無敵艦隊を破った時のように、日本史では織田信長が奇襲により今川義元の首を挙げた時のように。

そう、小国は、必ず大国に負ける訳ではないのです。それが故に、小国の為政者は大国に軍事力で勝利する夢を見ます。滅多にないことだから歴史上のトピックになるのだと冷静に考えれば分かる筈ですが、何故かそこまで考えが及ばないのですね。勝てば次の歴史は我々が主人公になる、勝てない筈はない、島国イギリスだって日の沈まぬ国になったのだから、我々にだって出来る、と…。

ところが、第一次世界大戦以降、戦争とは総力戦を指すようになります。これは、軍事力では会戦に勝利は出来ても戦争には勝利できないというパラダイムシフトだった訳です。第一次世界大戦では、歴戦の強兵だったドイツ兵が、会戦では度重なる大勝利を収めつつ、最後にはパリを手中に収めることも出来ずに敗退しました。このことを研究すれば、アメリカ相手に会戦で勝利を収められたとしても戦争には勝てないということに気付いたかもしれませんが、日本軍人は第一次大戦を戦術的に研究しただけで、総力戦における戦争の実相というところまで研究が及ばなかった。
故に、アメリカ艦隊を叩きさえすれば、アメリカに対し日本に有利な条件の講和を押しつけられる。アメリカには時代遅れの艦載機と、時代遅れの戦艦しかない。今なら叩くことが可能だ、と思ったのでしょうね。実際の戦争とは、アメリカ艦隊を叩いても次の船がドックから出てくるだけ、時代遅れの艦載機をいくら撃墜しても、最新鋭の戦闘機が次から次に戦場に登場するだけ、なのですが。

国力の分析が出来ないほど、東条が外交音痴だったとは思いませんが、東条始め軍部の指導者層の多くはそもそも国力が戦争の勝敗を決めるという概念を理解できなかったのでしょう。そこが問題だと、私は思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。
 結局、当時の軍首脳は日本とアメリカの国力の差を十分に分析できていなかったということなのでしょうか。
 もしそうならば、大変残念なことです。
 

お礼日時:2005/03/22 22:22

 戦前のアメリカは有数の石油産出国で、当時の日本は石油の需要の大半をアメリカからの輸入に頼っていました。


 大戦前から続いていた中国侵略に批判的だったアメリカは、石油の禁輸をちらつかせながら、中国からの撤退を要求しておりましたが、1941年8月に対日石油輸出全面禁止を決定しました。
 で翌9月に御前会議で対米開戦を決め、12月8日に奇襲となるわけです。目指すは当時オランダ領だったインドネシア(パレンバン)の石油資源。その前に目の上のたんこぶのアメリカ太平洋艦隊を行動不能にしたのです。
 山本五十六は開戦前に対米戦の見通しを尋ねられて
「そりゃ、やれとおっしゃれば1、2年は存分に暴れてごらんにいれる。しかし、3年、4年となるとまったく自信が持てぬ」と言ったと言われています。
 その見通しが当たっていたのは、誰もが知るところです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
やはり、アメリカによる石油禁輸が対米開戦の大きな理由だったのですね。

お礼日時:2005/03/22 22:27

国家の主権が侵害されようとしているときに、これに対抗しない国があるでしょうか。

石油禁輸などの圧力を掛けられて、そのままではアメリカの思うとおりにされたでしょう。

もちろん、その蔭にはアメリカを第2次世界大戦に引き出したいイギリスの思惑もあります。ドイツの前に風前の灯となっていたイギリスとしてはアメリカを参戦させることは生存を掛けた戦いなのです。

日本としては、今、開戦しないとジリ貧になる状況でした。戦える内に戦う必要があったのです。それにドイツの善戦という状況もありました。(開戦時点ではドイツはすでに対ロシア戦で行き詰まります。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/22 22:29

無謀な戦いの前には無茶な要求があることが多いと思います。

まさに窮鼠猫を咬むではないでしょうか。

その無茶な要求ですがハル国防長官が日本に突きつけたハルノートと呼ばれているものがあります。

長期にわたって莫大な犠牲を払いながら中国に進出した日本には到底受け入れられる内容ではないものでした。

参考URL:http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/halnote.htm
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
ハルノートはたしかに当時の日本が受け入れることのできないものだったと思います。

お礼日時:2005/03/22 22:32

こんばんわ、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、私は歴史には全くの素人です、他の方とは別の観点から。

戦争とはけんかと同じなのではないでしょうか?やってはいけないと知りつつ、どうしても感情の高ぶりに身を任せて、手をふるってしまう

心理学の先生に、人間は感情的な動物なんですよ。説得しようとして、論理を振り回せば振り回すほど、相手は心を堅くしてしまう。

両国の正確な軍事力の分析、経済状況の分析、があっても、やりたい人にとっては、それが見えないのです。。(日米戦争も、戦後これだけ立っても、開戦時の終戦計画が出てきませんよね。私が知らないだけだったらごめんなさい)

先日も、NHKで改憲論議を討論していました、その中で、加藤周一?先生だったかな、彼の意見に驚かされました。「テロだ、侵攻だ、平和維持だ、と言って軍事力を増強したい人がいるが、ここ数十年で戦争で死んだ人の数は少ないんです。病気、餓え、で死んだ人はその数十倍(?)います。そういう人を助けるには莫大な予算は必要ないんです。」と

・・・こういった論議は、きちんと読み解かないと、感情に流されてしまいますので、加藤周一さんの著書でも探そうかな?と思っているところです。たぶん期待された答えとは異なるかと思いますが。最近考えてることでして、一言書き込ませもらいました。失礼しました・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
今後の参考とさせていただきます。

お礼日時:2005/03/22 22:35

太平洋戦争(大東亜戦争でもいいですが)だけを見ると、


なんでこんな戦争をしたのか、よくわからなくて当然と
言えよう。

太平洋戦争を知るには、その前の日中戦争から考える
必要がある。
日本と米英は、実は日中戦争の段階から間接的な戦争
をしていた。
早い話が、中国マーケットという利権をめぐって、日本
と米英が衝突していたわけである。


だったら中国政府と講和して、中国での衝突をやめれば
いいではないかと後世の私たちは考えるわけだが、当時は
いろいろとあってうまくいかなかった。

陸軍の軍人は、中国相手なら戦えば勝つから、出世の
ために軍功を上げることに必死になって、政府のいう
ことなど少しも聞かなかった。
そのうち、政府も血迷ったのか「蒋介石政府を相手に
せず」なんて声明を出したものだから、講話すること
もできなくなった。
日本の後押しで作った汪兆銘政権が相手の交渉では、
諸外国も含めて誰も納得しません。


それですったもんだしているうちに、ABCD包囲網
やら石油の禁輸などで、日本はどんどん締め上げられて
いった。
ハルノートを受諾して中国の利権をすべて手放せば、
対米衝突は避けられるかもしれない。
しかし、それまでの事情があって、国内世論はそれを
許す雰囲気ではない。

さらには、2・26事件以降、政治家は常に軍部から
命を狙われる危険があった。これは東条英機であろう
とも例外ではない。
東条は、昭和天皇が開戦に反対であり、そのために政局
を収集することを自分に託されたことを知っていました
から、悩みに悩んだ。
しかし軍部と世論の突き上げにあい、やがて開戦を決断した。

これには、ヨーロッパ戦線でドイツがソ連を圧倒して
いたことも追い風となっていた。
実際には、首都モスクワに近づくにつれ、補給線が延びて
行き詰まりつつあったのだが、日本はそれに気づかな
かった。


こうして、冷静に考えればアメリカ相手に勝てるはず
もないのに、乾坤一擲の大博打へと日本は乗り出して
いったのである。

しかし、その博打は見事に外れ、歴史に記されている
とおり、日本の負け戦となったのであった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
満州事変にさかのぼって15年戦争として考えてみれば、対米開戦の理由もよりわかるような気がします。

お礼日時:2005/03/22 22:41

アメリカが仕掛けてきた。

。。というのが歴史的解釈では正解なのではないでしょうか?この観点のアメリカの戦略は今も昔も変わりません。山本五十六に限らず、当時の知識人の間ではアメリカの国力の大きさは周知でした。基本的に勝てるわけが無いのです。
アメリカが日本に戦争を仕掛けてきた理由は幾つも考えられます。まずは、国際社会に打って出るためには、当事者として戦争に参加する事が不可欠であったこと。(今と違い、当時は欧州戦争への派兵も拒んでいました)その為に国民に戦争の必要性を理解してもらう必要があったこと。アジアの権益を遅ればせながら確保する為に日本の権益を奪う事。次の時代を考えた場合の対ソ対中との橋頭堡に日本を使う事。。。日本と直接戦争を行い、戦後の日本に対するイニシアチブを確保すること。。つまり、日本を利用してイッキに国際社会での発言権を高める為の戦略だったと思います。国家の考えている事って怖いですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
今後の参考にさせていただきます。

お礼日時:2005/03/22 22:44

アメリカとの戦争は、いろいろな原因・理由があり、一言で述べることは到底不可能です。


私は、他の人達とは、異なった点から述べてみます。

1.日清・日露戦争による軍部の拡大
2つの戦争に勝利したことにより、軍部の力が強化され、官僚機構のように自己増殖をはじめ、政府のコントロールが効かなくなってしまいます。軍部は、仮想的国を求め常に外交的に緊張関係を求めました。
アメリカともこのような状況の中で緊張をたかめます。

2.対中国戦争の泥沼化
対中戦争が泥沼化したため、中国を支援する英米をたたこうとした。

3.市場を求めて
第一次大戦で、日本企業は大発展しますが、戦争が終わり、復興が一息つくと、世界は大恐慌時代に突入します。
英・米・仏などは、植民地との経済ブロックをつくり、他国製品の締め出しを行います。これに対して植民地を持たない国は反発します。イタリアがエチオピアへ、ドイツが東欧へ、日本が中国へ。これが、英・米・仏の利害と対立します。日本は、中国でアメリカと対立します。

4.アメリカの覇権主義との対立
日露戦争までの英米の懸念は、ロシアによる極東地域の制圧でした。日露戦争やロシア革命により、ロシアの勢力が衰えると、そこに勢力を広げたのは、日本でした。
アメリカは、危機感を感じ(特に日本勢力下で孤立しているフィリピンに)、軍備を強化します。
その行為が、日本にも危機感をあおります。

5.アメリカ、カナダなどでの日系移民への危機感
アメリカなどに移民した日系移民は、勤勉さから、急速に力をつけてゆきます。それを見たアメリカの低所得階層から不満が表面化し、上流階級人達からも、異質な文化に嫌悪感をもつようになり、アメリカの対日感情が悪化します。

まだまだ沢山原因が有りますが、とりあえずここまで。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。
 結局のところは、中国という市場をめぐって日本と米英の帝国主義がぶつかりあったということなのでしょうか。
 「日系移民への危機感」は思ってもみませんでした。とても勉強になりました。

お礼日時:2005/03/22 23:02

長期的な戦略を建てられる人材が日本に居なかったか、育たない民族だったのが原因でしょう。


確かに国力差の認識を欠いていたとはおもいませんし、当時国力的にはかなりせっぱ詰まった状態でした。
それに対中戦での勝利から皇軍の実力を過大評価した嫌いはあります。  その為総力戦の認識、準備も不十分で回線に追い込まれたのです。

No8の回答のようにアメリカは参戦の口実を探しており、長期的な戦略も持っていました。
それは戦後60年たった現在も保持されています。

その相手に対し日本のとれる途は早期講和だけしかなかった筈でしたが、緒戦の勝利が災いしてその機会をつかむ事に失敗し、反攻が始まり戦局は急速に不利となって後は破滅的結末を迎えるだけとなつたのです。

少なくとも対中戦争を早期に終結させる事(講和)が出来なかった事が誤りの原因でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
対中戦争の泥沼化が対米開戦となっていったことは理解できます。
また、当時の日本には長期的な展望を持った指導者がいなかったとしたら、とても残念なことです。

お礼日時:2005/03/22 23:08

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