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冊封体制についてです。
宗主国が藩属国に下賜、冊封をし、大国の威徳を示して、藩属国は中国王朝に遣使 朝貢をする
とプリントに書いてありました。
でも、自分的には
藩属国は〜 が前にきて、宗主国が〜が後にくると思うんです。
宗主国が自分から「称号あげるよ〜」って言い出すとは思えなくて(偏見)、
自分的には倭国とかが、「称号くださいお願いします!奴隷とかあげますから!!」ってお願いしまくって、
「じゃあ、しょうがないから〜称号あげる!!」
という感じに、藩属国が宗主国のご機嫌を良くしようと立場を良くしようと、ごますった結果認めてもらえると思ってました。
宗主国が自分から「称号あげるよー」って下賜、冊封することはあったのでしょうか?
文章にまとまりがなくてすみません。
文章の前後なんて細かいこと気にするなよ!って方はスルーしてください。
どなたか教えてください。

A 回答 (4件)

既に出ていますが、鄭和。



コロンブスなどとは比較にならない
大船団を組んで、世界に乗り出し
朝貢を約束させて世界を回りました。

朝貢さえ約束すればそれでOKで、
コロンブスのように武力はほとんど
用いませんでした。



宗主国が自分から「称号あげるよ〜」って言い出すとは思えなくて
 ↑
そんなことはありません。

朝貢しろ。
しないと征伐するぞ。
すれば、お土産を沢山持たせて
あげる。

こういう感じで、支配を広げて
行きました。

朝貢てのは、軍事力はなるべく使わずに
支配を広めようとする技術です。
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この回答へのお礼

ありがとう

端的に分かりやすく書いてくださってありがとうございました。理解力の低い自分でも理解しやすかったです!

お礼日時:2022/04/08 20:35

> 【宗主国が藩属国に下賜、冊封をし、大国の威徳を示して、藩属国は中国王朝に遣使 朝貢をする】とプリントに書いてありました。



このプリントの中の《下賜、冊封をし》というのは、どのようなことを指しているのでしょう。 
日本国語大辞典には、次の説明があります。
下賜:身分の高い人が、身分の低い人に与えること。くださること。
冊封:古く、中国で、皇帝が后妃・諸侯および雄編諸国の王などを冊(勅書)によってたて、爵位、封土を与えたこと。また、その任命書。
遣使:(項目が存在しない)
朝貢:諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物をさい出すこと、来貢。
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> 倭国とかが、「称号くださいお願いします!奴隷とかあげますから!!」ってお願いしまくって、「じゃあ、しょうがないから〜称号あげる!!」という感じに、藩属国が宗主国のご機嫌を良くしようと立場を良くしようと、ごますった結果認めてもらえると思ってました。

この場合、倭国とかは(お願いしまくって、奴隷とかをあげるとかすると、《称号がもらえる》)とどうして思ったのでしょう。 そのような仕組み・システム・前例のようなものがあると思っていたので、その前例に依拠して、同じようになれると期待したのではないでしょうか。 

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.y-history.net/appendix/wh0302-082.html
冊封体制の実際
 具体的には、漢帝国の初期に、国内では郡国制をしき、朝鮮と南越をそれぞれ王と認めてたことに始まる。その後、漢の武帝は、朝鮮と南越に郡県制をしき、直轄領としたので、冊封体制は一時消滅したが、その後、儒教が国教化されると、周辺の夷狄(異民族)に対して中国の王道を及ぼすという中華思想、王化思想が強まり、高句麗との冊封関係が復活し、三韓諸国、倭国などもそれに組み込まれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

委奴王国
倭国が後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。

冊封体制の始まり
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。 全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。
秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。
冊封の事例の始めとして、衛氏朝鮮に対するものと南越国に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「朝鮮王」・「南越王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。 両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交阯郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。 一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。 この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。
冊封体制の完成 6世紀前半の東アジア国際関係
倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる。
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。
五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。
南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受け、倭もいわゆる倭の五王が南朝より冊封を受けた。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
冊封 あるいは 冊封体制 のような、大国の王朝の配下にあるという建前での体制安定や権威付けが、すでにイメージ出来ていたので、 使いに書面をもたせ、貢ぎ物や奴隷などを持って行かせて、朝貢して、~~~~をえようとしたのでしょう。  ~~~~をえようという気持ちが起きるのも、そのような状況の理解があればこそでしょう。
【宗主国が藩属国に下賜、冊封をし、大国の威徳を示して、藩属国は中国王朝に遣使 朝貢をする】 時間的な順番や前後関係の説明ではなく、仕組みの説明なのではないですか。
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この回答へのお礼

助かりました

丁寧な解説をありがとうございます!今時間ないので全部は読めてないのですが、早めにお礼はしといた方がいいと思うので先にしちゃいますね。他のインターネットのページ(なんて伝えたらいいのかわからない)を貼り付けてくださったのでより分かりやすかったです!

お礼日時:2022/04/08 12:19

両方ありますね。


明の時代の鄭和に率いられた大艦隊による遠征では、一番遠くはアフリカまで行って朝貢を求めていますからね。
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この回答へのお礼

ありがとう

返信が遅くなってしまってすみません!回答ありがとうございました。
アフリカまで朝貢をしに行ったという話は初めて聞きました。

お礼日時:2022/04/08 12:34

実際の流れとしてはおっしゃるとおりだと思います。


周辺の小国が大国にゴマをすって、権威を与えてもらい土産をもらうというものですから。

でも冊封をする主語は宗主国ですよね。
だからこの順だと思うのですよ。
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この回答へのお礼

助かりました

冊封体制!という名前がついてるからにはやっぱし冊封する宗主国が主役になるのですね。
自分的には文章に書いたような流れが頭の中で出来てしまっていてなんか悔しい、モヤモヤする…(笑)説明してって問題が出たら宗主国が〜で、頭の中では藩属国が〜ということにしときます!テストでバツもらったら嫌ですし。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/04/07 19:33

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