アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

もう、50歳に近い年齢です。

相手のことを考える
相手の気持ちに寄り添う

今まで、分かっているつもり、出来ているつもりでいましたが、ある職場で一緒になった後輩と接することで、初めてそれが間違いであったこと、人のことを思うということがどういうことなのかが、やっと感覚として分かったんです。

この後輩が、私にそう接してくれたことで、初めて分かりました。

今までに感じたことのない違和感と安心感を覚え、それがとても新鮮で、いつしか心の支えにまでなっていました。
「ああ、これが人のことを思うということだったんだ…」と、それで実感として分かったんです。

なぜ、こんな年齢になるまで気付けなかったのか。
なぜだと思いますか?

ちなみに、両親からは、そのような温かい接し方は、されたことはありません。
また、私は、物心ついた頃から、100%と言っていい確率で、周囲からは嫌われ続けています。

なぜ今まで気付けなかったのか。
なぜだと思いますか?

A 回答 (6件)

No.4 です。

お礼を読んで状況が分かりました。訂正しますね。
今回も長いのでお暇なときにお読みください。

後輩の方があなたを慕ってくれたというのであれば「仁」ではな
く、「信」にあたりますね。「仁」とは違う感覚ですが私はこち
らも大好きです。「仁」で言うならば、お母さまがあなたの窮地
に対して思いやりのない言葉を発した部分ですね。質問者さんの
お母様は「仁」を使えてなかったとなります。「仁」を使うべき
ところで合理性で説得しようとしたわけです。これは「智」が欠
ける(却って物事を悪くしてしまう)とも言えます。

「信」と言うのは真偽はともかく「この人のそばにいると決めた。
だってその方が心地よいから」と言う潔さがあるとき(清々しさ)
「信」が働いています。友達どうしで無茶をしたり、損をすると
分かっていても一緒に居たいと思うときです。「懐く」という表
現はやめましょう。「礼」に欠けているため、貴方がその様に評
したと本人が知れば、一瞬で台無しに成ります。二度と貴方を信
用しないでしょう。つまりこれが信用や信頼を失うという事に成
ります。

この様に人と人の関係と言うのは、より悪くなるか、より良くな
るかしかなく、ミスをすると一瞬で壊れてしまい中々修復できま
せん。音楽を演奏したり、歌を歌うのと似ています。

歌であってもお手本が必要です。
綺麗だなあ感じて、一緒に歌いたくなる。
そういうものが良いお手本でしょう。
実は音程感覚と言うのはお母さんが一緒に歌ってくれると育ちま
す。母親が子供と一緒に歌ってあげるのが一番の様です。そうし
て貰えなかった子供には音感が無く、つまり音痴であるというの
が確定してしまいます。普通に考えると音痴しか居ないんです。

歌を歌いますと(下手であっても)気分が良く成ったり楽しいと
感じる効果があります。道徳も同じでしてカタルシスを得たり(
何かに許されたという安心感=仁)、納得感を得たり(義)、自
分を美しいと感じたり(礼)、世の中の合理性を知り希望を感じ
たり(智)、他人を愛しいと感じたり(信)出来ます。

自己肯定感が持てない人は「礼」に欠けているという事です。
他人を敬うというのは相手を持ち上げる事ではなく、自分を嫌い
にならないように脳を調整するという意味があります。意味もな
く敬えば「礼」であり、理由をもって敬うと礼儀となります。

しかしこれらは中々イメージできないものです。

「優しくとか、敬うとか言うけど。
 う…意味は分かるよ? でもなんだろう?
 ピシッと今の自分がそうだって感じられないし。
 どういった心持ちで居れば良いのかイメージできない。
 どれだけ今が違うのかも感覚で分からないよ?」

音感というのは(簡単に言えば)音程がドレだけズレているか自
分で分かる感覚です。分るというだけで修正できるという事では
ありません。修正する方は別の技術として練習が必要です。しか
し自分でズレが分かれば楽しくなってきますよ。あてずっぽうで
歌っていた時と比べても上達スピードが違ってきますよね。道徳
の5つの要素も同様です。

歌と違いまして道徳は心の演奏でありますから、意識がある間は
ずっと鳴り響いているものです。思考をするだけで演奏が始まる
からです。この時に常に5つの快感がせめぎ合うということです。
そういう快感がずっと続き途切れないというのが正常であり健康
であるとなります。そうでない場合は生き地獄でしょう。これは
本人が知らないだけです。不憫であると思います。

常に快感を感じており、顔がにやけて仕方ない、と言う方以外は
道徳音痴が確定しており、生き地獄の度合いが違うだけです。
そのため互いに責め合っても意味が無いんです。

私が「良かったですねえ」と言ったのは、実際にちゃんと歌で言
いますと「綺麗に音程があった瞬間」を聞けたという事です。

「え? なにこれ? なんか凄いよ?」

「ああ、いま一瞬音程があってたね。ちょっと驚いた」

「え、音程ってこんな凄いの? 煩い先生が言うあら捜しとか
 思ってた。本物の歌手は気にしない物だと思ってた」

「あほか。凄い快感が走るので皆マニアに成ってるだけだ。
 プロの音程精度は凄いぞ。怪物だからな」

なので人生観が変わるほどの快感を対人関係から得られたら、そ
の瞬間だけ道徳音程があっていたとなります。歌であっても音感
が無いまま歌っている人が殆どでしょう。世の中の道徳観念もそ
うであるという事です。身近にプロ歌手がいないのと同様にお手
本に出合えることは滅多にないと思います。

「自分も音痴。多分あんたも音痴。
 何だか良かった。自分だけじゃないと知って安心した。
 でも他の人は大丈夫なのかな。
 私と同じ感じなんだとしたら、相当きついはず。
 もしかしたら我慢して外に出してないだけ?
 どんだけ凄いのよ? 我慢づよさ? 見栄?」

と思ったら上達の始まりでしょう。

「必ず苦しんでいるはず。だって道徳音痴しかいないはず。
 それが伝わってこないって事は物凄い我慢しているはず。
 その兆候を探そう。相手の我慢の限界がきそうだったら、
 助けてあげよう。だって我慢できない時は我慢できない
 んだもん。そんな時に我慢しろとか言われたら、本当に
 可哀そう。ぜったいそんな状況にはさせない。
 見たくない」

「仁」は(要約すると)上の気持ちがベースに成ります。
相手の辛さは、本人の態度からは見えないものなんですよね。
そこを読み取る力が仁となります。心(相手の感情の動き)を
読み楽にさせる力(EQ力)と考えて結構です。IQよりも根源の
力でありIQを増進させる元の力と考えましょう。

「仁」を与えられた人は感情の動きが収まり、頭が働くようにな
ります(智)。「信」を与えられた人は「仁」を発揮しやすくな
ります。人の輪と言うのはそういう循環を作るという事です。そ
して良くなった状態を維持するために「礼」があります。礼がな
いと偶然手に入れた良い瞬間(脳内の感覚)であっても、失礼が
原因となって相手の態度を変えてしまうんです。これでは意味が
ありません。「義」と言うのは為すべきことを指します。自分が
所属する環境全体が壊れてしまうようなもの。危険なものを遠ざ
けていく営みです。これを皆で分担するという発想から生まれま
す。公共の物に対する維持管理、それに対するお手伝いとか協力
関係があり、そして報酬や処遇などがある。こういう流れを維持
しようとする気持ちが「義」といいます。

「それでは皆がやる気をなくして協力しなくなるよ…」

と言う場合は「義」に欠けるという事です。
年功序列の排除と言うのが流行った時期があります。これが日本
全体の空洞化を招きました。つまり「義」に欠けていたんです。
若いうちに決着をつけようと焦る若者が増えてしまい、結果とし
て二極化を招きました。上の言う事を聞いても将来困る。こうい
う不安が「信」を失います。「信」が無ければ「仁」が生まれま
せん。そうなりますと感情的に成る人が増えてしまい頭が働かな
くなるでしょう。新しい事を考えたり発明したりする力が弱まり、
ジリ貧に成っていくんです。集団がどの様に変化をするか? 
ちょっとした事でどの様な変化を生み出すか? それを読み切る
力であるとも言えます。

道徳を用いていない集団に所属しますと、一気に自分も悪化しま
す。気が付くと他の人よりも精神状態が悪くなっており、酷いと
慢性化します。そのため今いる輪から外れるように勧められるわ
けです。これを環境を変えるとか言います。

食事で例えます。
口の中が口内炎と傷だらけで虫歯だらけ。
この人が「食べ物がおいしくないのは食べ物が悪い」と誤解をし
て「もっと美味しいものを食べたい」と願っていたらどうなるの
か? 苦しんで死ぬことに成りますよね。何を食べても痛みを感
じる状態では美味しい食べ物の意味がありません。

普通にしていて誰かを攻撃したり八つ当たりしたり、挑発したり
するというのはドレダケ心が痛いのでしょうか?

「嫉妬とか八つ当たりとかは、やっちゃいけないんだよね?
 悪い事だと教わったし」

と言う人が多いんじゃないでしょうか。
そもそも「そういう状態」が危険なのであり、一度もあってはい
けない事なのだと知らないという事です。この人達が人生の中で
幸せを求め将来に希望を抱いていたらどうなるのか?

「何を食っても(どんな良い事が起きても)口(心)が痛い」

となりますよ。食べ物が悪いのではなく口の中を治療しないとい
けなかったんです。同じ様に道徳を用いていない状態でどんなに
良い事があっても、心の痛みしか感じないんです。つまり嫉妬や
八つ当たり、不安感、疑心暗鬼、疎外感が生じてしまい苦しくな
るという事です。

いまの状態で普通に暮らしてきたのなら?
本当の道徳を知って健康を取り戻したらどう感じるのか?
その片鱗を質問者さんは味わったという事です。
他人の事はおいて置き、まずは自分の体と心の治療が先です。
世の中の事に怒りを感じて大騒ぎしている人はいずれ力尽きて大
人しくなるでしょう。しかし、その時は遅すぎるんです。
人の輪に入れないと悩んでもやはり同じです。
初心者ならば「礼」から始め体を敬うところから練習をするのが
良いと思います。そして偶然であう(部分的に道徳音程が合うシ
ーン)を見逃さずにお手本にし、味わうのです。

以上、長くなりましたがご参考になれば。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、本当に…

今の自分を招いたのは、自分の「礼」の無さが原因だったのですね…
それがどういうことなのか、自分で気づけない、分からないというのが、本当につらいですね…

今は、人と関わること自体が怖くなってしまい、完全に自信を失ってしまい、引きこもりに…
外に出ていく機会(求人)は、いくらでもあるのに、怖くてどうしても一歩が踏み出せない…
そんな自分に、さらに自信を失い…

なぜこんなことになってしまったのか。
どうしてこんなに、嫌われることしかできないんだろう。

また外に出られるようになった際には、教わったことを意識して、音程が合うシーンを楽しみにしながら、前向きに生きていきたいです。

お礼日時:2022/08/28 12:27

それが分からずに一生を終えただろうと思われる、最後の夫婦喧嘩でマグカップで奥さんに叩き殺された爺さんも居ましたから。

主様が今まで気付かなかったのは、そういう態度で人と接していても、自分としては不自由や損を感じなかったからでしょう。そういう感情の機微は考えただけで分かる物では無いでしょうし。
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この回答へのお礼

>そういう態度で人と接していても、自分としては不自由や損を感じなかったからでしょう。

そんなわけないでしょう。
ほぼ100%人に嫌われ続け、生きづらさしかない人生でした。

>そういう感情の機微は考えただけで分かる物では無いでしょうし。

だから、なぜ気付かなかったのか、その理由を問うているのですが…

お礼日時:2022/08/24 07:25

そういうモノだと思いますよ。


さすがにお手本が無い状態では無理ですよ。
しかし、ほんとに良かったですね。
希少な体験でしょう。

簡単に言えば、貴方の周囲にそういう人が居なかったという
だけですよ。他の方も同じように思いやるというのはどうい
うものか知らなかったという事でしょう。

つまり、その後輩の方と違うと思える人は、すべて貴方と同
じように苦しんでいるという事です。

いや、言い方が変ですね。

「こんなに楽なものがあると知らなかった。
 ってことは俺、苦しんでいたのか?
 普通だと思って気にしていなかった」

と言う説明が先ですね。
以降は苦しんでいたと表現しますね。

あなたが嫌われ続けていたのなら、あなたの事を嫌った人も、
(貴方の後輩と違うわけですから)やはりあなたと同じよう
に苦しんでいる最中だったんでしょう。

どちらも救われておらず、互いに攻撃しあって消耗していた
んではないでしょうか。

「体感で楽だよこれ。なんでそうしなかったんだ?
 ああ、楽に感じるものだと知らなかった。
 いや、そういう感覚を味わったことが無かった。
 単に…俺は不憫な子供だったわけだ」

昔の人はちゃんと良いものを伝えているんですよね。
質問者さんが言う感覚は道徳の五常(仁義礼智信)で言うと
「仁」にあたります。孔子は「仁」においては大変優れてい
たそうです。

でまあ、それが5つのうちの一つでしかないんですよ。
ワクワクしますよね。他に4つ(義礼智信)の感覚があるん
です。「仁」とはまた違ったフレーバー。感覚です。
知らないまま死ぬのは勿体ないですよね。
なので私はそれらを味わって生きる事にしています。

「これさえ超えればきっと・・・」

みたいにやっていた時が懐かしいです。
苦しい生き方でした。

本当の幸は、脳にダイレクトに感じる感覚であって、いま感
じている脳内感覚、その味わいなんですよね。
感覚の類ですから教えて何とかなるものじゃないんですもの。
しかし、ほんとに良かったですねえ。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

「仁」ですか…
とても興味深く読ませていただきました。
それでも(あんなに幸せを感じていたのに)、5つのうちの1つだったのですね…
後輩は、それを持っていたんだ…
それを、なぜ持っていたのか…
後輩も、そういう見本となる方との出会いがあった…
そういうご両親に育てられた…?!
博士号を持つほど、博学な方でもありました。
とにかく、穏やかで冷静で、ただただ素敵な方でした。

>あなたが嫌われ続けていたのなら、あなたの事を嫌った人も、(貴方の後輩と違うわけですから)やはりあなたと同じように苦しんでいる最中だったんでしょう。

ただ、この後輩にもその後、今まででこれ以上ないっ!というほど、容赦なく嫌われてしまっています。。。
当然といえば当然だと思います。
片や、親身になって話を聞く、片や、一方的に語り、一切話も聞かず寄り添わない。
ギブ&ギブでは、嫌になって当然だよな…と、今はやっとそれが分かります。

>お手本がない状態では無理ですよ

お手本とは、親でしょうか。
本当に…親(特に母)は、今思えば、人の心に無関心な人でした。
私が、病気で子宮全摘となり、その苦しい胸の内を打ち明けた時「良いじゃないのー」「それの何が嫌なのー」と、壊れたレコードの如く連発し、最後まで気持ちを理解しようとせず、そんな母の姿を見て、やっと母の異常性を確信したのですが(中学生の頃から、ずっと違和感は覚えていたんです)、そんな母の影響を少なからず受けていたのか…

おそらく、母と同様の言動を、何の疑いもなく私もしていたと思うのです。
心当たりも記憶もあるのです。
嫌われて当然。
それで、他の人の愛に接することなく、今まできてしまった、見本と接することができなかった…のか…

後輩とは、職場での出会い。
ろくに仕事も教えてもらえず、毎日叱責ばかりの職場で、本当につらく、後輩にだけは同じ思いをさせたくない一心で、つきっきりで教えたんです。
そんなことがあり、後輩は本当に一瞬でしたが、こちらが戸惑ってしまうほど私に懐いてくれて、私を慕ってくれて、私に普通に接してくれた…

やっと出会えた見本、しかもそれが、『仁』だった…
ということなのか。

出会えただけよかった。
でも…
嫌われ続け、本当にひとりぼっちの今、色々と考えてしまいますね…
考えても、過去を変えられるわけでなし、仕方がないのですけどね…

お礼日時:2022/08/24 08:09

愛着障害とか?

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育った環境が相手に依りそう相手の事を思いやる環境で育たなかったので身につかなかったのでは、子供の頃の体験は貴重です良く三つ子の魂百までと言う様な言葉が有りますが真にその通りではないかと思います。

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質問者様ご自身の単なる思い込みですよ。



よく考えて御覧なさい。
「両親からは、そのような温かい接し方は、されたことはありません」
本当にそうでしょうか?ご両親は質問者様を温かく優しくそして厳しく育てられたのですよ。だから今まで生活してこられたのですよ。

もし、質問者様が本当に嫌われ者ならば、とっくの昔にこの世から消えていたでしょう。今も生きながらえているのは、周囲からの思いやりや支援、後援があったからでしょう。

これからは、これまでの有形無形の支援に対し感謝の思いを持って、人生を全うしてください。
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この回答へのお礼

否定で物言われても、否定で返すほかありません。
結局、説明出来ないのですね。
それだけはよく分かりました。

お礼日時:2022/08/23 21:36

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