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日本には古代、いわゆる大陸から渡来人が多くやってきたといいます。

飛鳥の都の大半が、渡来人だったともいわれています。

それでは、もともと日本にいた人たちは、いったいどんな人たちだったのでしょうか。

文明や文化に乏しい、狩猟民族だったのでしょうか。また、抵抗なく渡来人を受け入れる、純朴な民族だったのでしょうか。

教えてください。お願いします。

A 回答 (8件)

① 日本には古代、いわゆる大陸から渡来人が多くやってきたといいます。


⇒ 日本列島でヒトに進化したということはまずないので、日本列島以外のところからやってきたヒトの子孫であることに間違いはないでしょう。

② 飛鳥の都の大半が、渡来人だったともいわれています。
⇒ 渡来人のイメージにもよるでしょう。10代前や5代前、あるいは親の一方が列島外からきた人であるというのを全部渡来人と言うのなら、たぶん、大半は渡来人でしょう。 

③ それでは、もともと日本にいた人たちは、いったいどんな人たちだったのでしょうか。
⇒ もともと日本列島にいた人たちというのが難しいです。 古事記などを読むと、行く先々で娘さんを妻にしてという話しが多いです。 九州に上陸するのでも、山陰や北陸などに上陸するのでも、たぶん、100年以上毎年上力してそれぞれ子を作って、その子達も各地にさらに移住するのです。 
https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html
単純に言えば、飛鳥時代になる前にもう混血児がたくさんいたのです。

④ 文明や文化に乏しい、狩猟民族だったのでしょうか。
⇒ 日本列島の北の地方を別にすると、弥生時代には主要な食糧は農耕で獲得していました。もちろん、魚も捕ったでしょうし、鳥や豬、鹿もとったでしょうが、ベースは定住型で農耕をしていました。
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail …
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いきなり弥生時代に、栽培の難しい稲作から始まるというのは、常識的にみてもおかしかった。それゆえ貯蔵庫や炉辺の土を水で攪拌して浮いた軽い種子を分析するフローティーション法が開発されたほか、近年では土器に残された圧痕の分析から、アズキやダイズなどの豆類のほかアワ・キピなどの穀類が、すでに縄文時代に盛んに栽培されていたことや、岡山県などの一部ではイネ(陸稲)が栽培されていたことも知られている。氷河期が終わって温暖な時代に生きた縄文人は、狩猟や漁撈(ぎょろう)あるいは採取とともに、農耕を行いながら食料を確保していたのである。
こうした縄文農耕の伝統の上に、縄文晩期に水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わり、弥生時代になって本州や九州・四国に広まっていった。また、おそらくこの時期にコムギやオオムギも伝えられ、ウメやモモなどの栽培果樹も到来したとされている。いずれにしても水田稲作という技術は、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされたもので、彼らと縄文人との混血によって今日の日本人が生まれたと考えられている。そしてハイレペルな水田稲作は、日本社会に大きな変革をもたらすところとなった。
栄資価が高くて食味に優れ、しかも生産性の高いコメは、人口支持力が大きいことから社会的剰余を生み出し、農業以外の仕事に専念する人々を抱えることが可能となって、いわゆる社会的分業を成立せしめた。それゆえ中国史書に"分かれて百余国を為す"とあったように、小さなク二が生まれ、さらには"倭国大いに乱れ"とも記されたことから、社会的剰余をめぐって戦争が始まっていたことが窺われる。いずれにしても朝鮮半島からもたらされた水田稲作によって、日本社会は新しい道を歩み始めたのである。
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⑤ また、抵抗なく渡来人を受け入れる、純朴な民族だったのでしょうか。
⇒ 純朴の意味が不明ですが、移住にはスムースに済む場合も、トラブル場合もあります。 鎌倉時代でも戦国時代でも領地を巡る紛争はありました。 自分の領地のようなところを他人にとられるのは嫌ですから、渡来人か親戚か、4世代前から一山向こうにいたのかは関係がないです。 ただ移住する方もトラブルはできるだけ避けたいので、スムーズに移動定住するところを探しています。 日本列島の内部で領地争いのあった最初は、出雲とかヤマト勢力の東進で飛鳥地方に進軍したときでしょう。
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縄文人ですか。



抵抗なく受け入れず、闘って多くが敗れ、支配下に入った。

蝦夷・熊襲・アイヌ・サンカ・エタなどの賎民。
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この回答へのお礼

kamiyamasoraさん、ご回答ありがとうございます。

やはり、戦ったのですね。

いわゆる「蝦夷・熊襲・アイヌ・サンカ・エタなどの賎民。」が、縄文人のルーツを持つ人たちでしょうか。

お礼日時:2022/12/29 18:10

それでは、もともと日本にいた人たちは、


いったいどんな人たちだったのでしょうか。
 ↑
縄文人です。

日本はアジアの端っこに位置しているので
あちこちから民族が集まり混血化します。
これが縄文人です。

その後、大陸や半島から多数移民が
押し寄せ、混血化が更に進みます。
これが弥生人です。

だから、日本人のDNAには、縄文人、
中国人、朝鮮人のが混じっています。




文明や文化に乏しい、狩猟民族だったのでしょうか。
 ↑
そうです。



また、抵抗なく渡来人を受け入れる、
純朴な民族だったのでしょうか。
 ↑
当時は、国家なんて概念に乏しかった時代です。

また、中国、韓国は当時は先進地域でした。
積極的に受け入れて、文化などを吸収してきた
わけです。
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この回答へのお礼

tanzou2さん、ご回答ありがとうございます。

大陸から渡来人がやってきたとき、「これは勝てない」といろいろな意味で考え、交流を深めたのかもしれませんね。

お礼日時:2022/12/29 18:09

NHKのドキュメンタリー日本人はるかな旅 第5集 「そして”日本人”が生まれた」



これが、現在の所、一番事実に近い説じゃないですか。

もともと、縄文人が住んでいたところに、渡来人が入ってきた。彼らは稲作技術で人口も急速に縫えた。最初は縄文人と渡来人の殺し合いなどもあったけれど濃尾平野を境に、平野で暮らす渡来人と、森林地帯で暮らす縄文人が棲み分けを始め、やがてその平和な交流も始まった
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この回答へのお礼

tukachannさん、ご回答ありがとうございます。

動画を見ました。最初から打ち解けあったわけじゃないけれど、大きな戦いは続かなかった、ということでしょうか。その理由が、棲み分けにあると考えられるのですね。

日本人は、いわゆる大陸の人たちと比べると、好戦的でない、という考えがありますが、あの戦国時代を経ています。人間は、戦わざるを得ないときがある、と考えるのが普通のような気がします。

お礼日時:2022/12/29 18:07

間違いがあるかも知れませんが、おおよそ以下のようなものと思っています。



前提として人類がアフリカ発祥であることが知られています。そこから中東を経てインドやオーストラリア大陸に広がりました。インドで色の黒い人たちやオーストラリアのアボリジ二の人たちのような人たちですね。オーストラリア大陸には4~5万年前に移住したと考えられていますが、日本にも4万年前くらい移住してきた人たちが居たと考えられています。また今の中国あたりには中東からインドなどの沿岸部からだけでなく、アジアの中央部(ヒマラヤ山脈の北側)を通ってやってきた人たちも居たと考えられています。この中国あたりに到達した人たちは1万4千年前の最終氷期が終わったころにベーリング陸橋を通ってアメリカ大陸に移住したと考えられていますが、それより前の3~4万年前くらいには日本の北海道あたりから南下するように日本に入ってきていたと思います。また朝鮮半島経由で入ってきた人たちもいたでしょう。これらの人々が4万年前から1万年ちょっと前くらいの旧石器時代と言われる時代に混ざって行ったのが、原日本人と言われる人たちと思います。

その後の展開としては、7千年前くらいに九州の南で鬼界カルデラの大噴火があり、これにより南の島の人々の流入がほぼ止まったのではないかと思っています。また縄文時代の終わりころ、いまから2~3千年くらい前から朝鮮半島由来の人々が稲作を持ってきました。人口というのは基本的に食糧事情が良い時には増えるだけ増えて食糧に困れば飢えて減るというのを繰り返すのですが、稲作が始まり弥生時代ころになると縄文時代の5倍くらいの人口になったと考えられています。つまり5人に1人くらいは原日本人の子孫で4人は稲作を伝えた渡来人の子孫ということですねw 少し前では縄文人とか弥生人などとも言われましたが、今では誤解を与えかねないとあまり言われていないかもしれませんが、それくらい変わったわけです。余談ですが、このころ『日本語』が朝鮮半島から入って来ました。つまり縄文時代に日本に居た人たちがどのような言語を話していたのか、実はよく分かっていないんですね。

参考になれば♪
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昭和30年代に小学生だった、私は歴史で縄文時代は、貧しい生活


だった、と教わりました。
縄文時代の遺跡が発掘されるに付け、貯蔵の倉庫も有、山の幸、海の幸で
食料に恵まれていた事が解って来ました。
その為か、朝鮮半島に稲作が伝わってから、すぐには、日本では稲作が
行われず、500年後に米作りが始まったと、米の遺伝子の研究から、
解って来ました。
縄文土器は日本独自の物で、世界的にも類の無いデザインだとか、
文化的に優れた感覚の人が居たのです。

飛鳥時代の頃、中国大陸から、仏教をはじめとして、色々な文化や技術
が入ってきました。
仏教普及のお寺や、政治を行う場の建物を造る為の技術者として、
来日したのが、渡来人です。
日本の大工さんにとって、渡来人は、先生ですから、必死に技術を
学んだ事でしょう。

渡来人としては、秦の始皇帝の一族が難民?として、四国に住んだ
との、古い記録があります。
新羅に滅ぼされた百済の人々が、九州や関西に移り済んだの記録が、
その後、唐と新羅に滅ぼされた、高句麗の人々が、武蔵の国(埼玉)
の高麗に移り住んで居ます、朝廷の記録には人数などが記録されてます。
坂東の地の人には、違和感が有ったと思いますよ、朝廷の命令ですから
従うしか、なかったとは思いますが。
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縄文人が日本先住人で、天孫族などの農耕民族である弥生人を渡来人と考えるならば、縄文時代の人口は最大で30万人程度だったようですから、土地にはかなり余力があったでしょう。



だからあまり戦争などする必要もなく、縄文人と弥生人が共存しつつ、次第に混血して同化していったと思われます。
比較的遅く渡来した天孫族は、渡来当初から地元民と混血・同化していった様子が記紀に描かれていますね。

〈縄文人は抵抗なく渡来人を受け入れる、純朴な民族だった〉という解釈は誤りです。弥生人は、天孫族がそうであったように舟で少人数ずつ渡来したはずですから、弥生人のほうが自分たちが持つ農耕技術等の技術を縄文人に提供しつつ仲良く暮らさせてもらっていたという形だったでしょう。

このように西日本では縄文・弥生同化が順調に進み、大和民族が形成されましたが、戦争が勃発し始めたのは、大和民族が東北に進出したときからになるでしょう。人口が巨大化した大和民族が、東北に残っていた縄文人を圧迫していったということになります。

それに対し、東北蝦夷地の縄文人は阿弖流為をリーダーとして諸部族が一緒になって大和民族に抵抗したということかと思います。
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人類がアフリカ発症なら、日本に人がいなかったかもしれません。



例えば、以下の記事は北東アジア、東アジア、東南アジアルート
https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidamasahiko/2 …
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