1. まづ 次の議論を聞きます。
▼ (吉本隆明の親鸞に見る〈非知〉) 〜〜〜〜〜〜〜~~~~~~
2. 親鸞は
念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)
学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ、尼入道ノ
無ち(無知)ノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしゃ(知者)
ノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし
(法然:「一枚起請文」)
という法然の垂訓を祖述しているだけかもしれない。けれども法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。
3. 法然では「たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ」という言葉は 自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。
4. 親鸞には この課題そのものが信仰のほとんどすべてで たんに知識をすてよ 愚になれ 知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
5. 親鸞は 〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。
6. しかし〈非知〉は どんなに「そのまま」(☆ ここに傍点あり)寂か(☆ sic )に着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。
7. なぜならば〈無智〉を荷っている人々は それ自体の存在であり 浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから じぶんではどんな〈はからい〉ももたない。かれは浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって 究極の境涯でなければならない。
(吉本隆明:《最後の親鸞》 『増補 最後の親鸞』1981 所収 pp.7-8
なお初出は 1974 )
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~
8. 女性蔑視の思想は 措いておきます。批難すべきですが。
9. [7]の段落は 分かりづらい。たとえば:
《浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段も持っていない》という判断は 《ハカラヒ》ではないのか? 《絶対》を《媒介として》捉えるところが気に食わない。
10. 人間たるわれが:
▼ 絶対の他力を媒介として信ずる
☆ とは どういうことか? 表現の上でびみょうにむつかしいところがあるのですが 《絶対性を 人間が――信仰成立のための――媒介とする》ことは ない。そんな操作は できない。
11. 《〈無智〉を荷っている人々》は:
▼ 浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠い
☆ だけではなく 《浄土そのものに 理念や思考や修行なる努力によって到ることからもっとも遠い》はずである。と言うべきではないか? なんで 《浄土の 理・念・に 近づく》などと言うのか?
12. 《浄土の理念》を掲げるところがすでに [9]に見えるように絶対他力だと言っていても どこか《人間のハカラヒ》が忍び込んでいるように見える所以である。と言えないか?
13. よって 吉本の言う〈非知〉は われわれの仮説する《非知》とは一線を画すと言わねばならない。
14. すなわち 言いたいところは:
▼ 6.・・・〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。
☆ とは どういうことか?
すなわち 《無知と知》とは 同じ地平に並立するふたつの概念であるが 《非知》はそうではないはずだ。
15. すなわち:
▼ 5.・・・〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉
☆ というのは 表現そのものが好かんのですが どうですかね。絶対を言っていて それに《近づく》というのがおかしい。絶対性こそが 《非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》なのだと思われるゆえ。
16. 要するには――カルト宗教の解体問題にからんで言って――:
▼ 4.・・・つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題
☆ とは 何だと言おうとしているか?
17. そのような《課題》を言うのであれば 親鸞なら その信仰は 理論――すなわち弥陀の悲願なり菩提心なりあるいは横超つまり即得往生なる教理――とは一歩離れているというかたちにおいて その信仰の当否や成否から自由な《度し難い愚禿なる阿呆》といったところの・この《非知》の下なる実存とその動態であるのではないか?
18. 吉本説の擁護なり第三者の視点なりのご批判をお待ちしたいのですが?
19. 実践への一歩として:
☆☆ 17.・・・《度し難い愚禿なる阿呆》といったところの・《非知》の下なる実存とその動態であるのではないか?
☆ という趣旨内容は われわれの――あやまちうるスサノヲ人間語という足で立つ――《井戸端会議》をその基礎とすると言ってよいのではないか?
A 回答 (22件中1~10件)
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No.2
- 回答日時:
春さんの住所にお手紙を書いて送ったのですが、受取拒否にも送った手紙が送り返されることもなかったので、恐らく春さんは私の手紙を受け取られたのだと思います。
春さんは自信を持とうにも自分の自信に繋がるような何かが、恐らく自分にはない❓と思われていらっしゃる筈です。
春さんの精神症状を和らげるには春さんに見合ったお友達が必要です。私とは20年の旧友でしたが、私との縁を絶縁にするなら、絶縁にするで、新たなる出会いを春さんは求めるしかないですね。
春さんの反抗心・反発心というのは自らの精神症状の改善を狙うのには実に厄介だとしか表現しようがありません。
春さんの思慮の無さ❓を書くならば、自分以外の外界は疑って掛かるが、自分の内面、例えば、存在性理論等を痛烈に批判されると春さんは精神症状が悪くなって仕舞われるのですね。それは、ある意味、自尊感情の健全な構築を春さんは意識的か無意識に考えていらっしゃるのだろうけれど。これが全く学問的ではないので、知ったかぶりを春さんはしてしまわれるのですね。
そういう態度を一貫して40年、採った、自分自身を自戒する必要性が春さんにはあるのです。
今頃、どうされていらっしゃるのでしょうか❓
座禅でも組んでいらっしゃれば、良いのですが、ね・・・。
これだけ空白が長いとなると よほど考えも決意もふかく強いのではないかと思われます。
その結果が よいほうに出ればよいと思うのですが。つまり 対話の必要と大切さに気づくことだと思います。
No.5
- 回答日時:
私の父親は東洋哲学科卒ですが。
吉本隆明は難しいと溢していました。
もっともわたしは 途中で――マスコミ論とかに移っていったとき―― 切り捨てました。
それまでに参考にしたところが かなりあります。アマテラス・スサノヲ論とか。
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20. ちょっとソクラテスっぽくなっちゃったかも知れないですが。