あるサイトの鎌倉仏教の図解に、
坐禅が臨済宗
題目が法華宗
念仏が浄土宗
たしかこんな区分けがされていました。
臨済宗系が無になるためにシーンと座っている感じでしょうか。個人的に法華は「南無妙法蓮華経」の文句を連続的に唱え続けるのが基本だと思っています(祖父の葬式の時に延々と一時間くらい聞いていた)これが題目なのでしょう。では、念仏とは、「南無妙…」を連続的に言い放つ題目と完全に異なり、文章を朗読するようなお経を唱えることでしょうか。
題目と念仏の違いがいまいち調べてもはっきりと解りません。どのように区別して考えればよいでしょうか。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
私は浄土真宗を信仰する人間なので、念仏より名回答かもしれませんが、その辺は多めに見てください。
>>坐禅が臨済宗
>>題目が法華宗
>>念仏が浄土宗
歴史の授業で習う鎌倉新仏教と呼ばれる仏教の区分で言えば、これでは不十分です。
座禅・臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)
題目・日蓮宗(日蓮)
念仏・浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)
があげられます。順番としては、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍という順番になります。あと、高校の教科書では習いませんが栄西に遅れて臨在禅を伝えた大日能忍が鎌倉新仏教の祖師といわれているようです。
>>臨済宗系が無になるためにシーンと座っている感じでしょうか。
このイメージはどちらかといえば、道元の曹洞宗の禅のイメージが強いように思います。
曹洞宗は全ての生きとしいけるものは、生まれながらに仏心(仏性)を具えていている。私たちの中に仏がいるならば、お釈迦様が菩提樹の下で悟ったときのようにひたすらに座禅するべきであり、全身心かけて座りぬくこと以外に仏法の体得はないという、それを打坐即仏法と道元は言います。曹洞宗の禅は黙々と座禅を組む黙照禅の流れを組んでいるため、ひたすら禅を組むという「只管打座」を協調して説いている。
それに対して、栄西の臨済宗は禅の中に公案というものを用います。公案とは禅問答のことで、多くの禅を説いてきた先人たちが書き残した『禅語録』というものから抜粋してクイズのようなものを出して、それの答えを考えながら坐るという形式をとります。この公案は悟りへと導くヒントのようなもので、人間の常識を超えた仏の智慧を理解するためには欠かせないものとされています。
ですから、無になってひたすら坐るというのは臨済宗の禅にもないわけではありませんが、一般的に言えばどちらか問いうと曹洞宗の禅のイメージ化と思います。
>>個人的に法華は「南無妙法蓮華経」の文句を連続的に唱え続けるのが基本だと思っています(祖父の葬式の時に延々と一時間くらい聞いていた)これが題目なのでしょう。
日蓮宗さんもそんなに長くやるんですかね?創価さんですかね?日蓮系の宗派もたくさんあるので断定はできませんが、けれどもどの日蓮系の宗派でも数を多く唱えるというよりは、日常に唱え続けるということが大切なようです。
日蓮は『観心本尊抄』の中に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」あるいは「釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり」と説いている。こう見たとき日蓮は「仏」は衆生の中にあるものと捕らえている。前方の文を読めば、心に止まらず衆生の体そのものも仏の体でできているとしている。また、注目すべきは『妙法蓮華経』如来寿量品を「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と引用して後に、「我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。」と説いて、『妙法蓮華経』如来寿量品のお釈迦様、すなわちそれは『妙法蓮華経』本門に説かれる久遠実成の釈迦も、また「己心の釈迦」と内在のものと捕らえている。このような立場であれば日蓮は、一見すると天台本学思想と同様のもののようであり、心の中にお釈迦様が永遠におられるというように読める。しかしそれほど単純ではなく、それでは「南無妙法蓮華経」の題目とはつながってはこない。
「南無妙法蓮華経」題目の意味を簡単に言えば、真実の法門たる『妙法蓮華経』には仏のエッセンスが詰まっており、さらには「妙法蓮華経」の題目の中にそういった仏のエッセンスは集約されているとしている。この「妙法蓮華経」という題目に関しては、天台大師智顗が『法華玄義』のなかで、膨大な量の解釈を施している。そして、日蓮は題目を受け取ることこそ仏の世界が展開するのであり、我々凡夫の中・凡夫の世界に仏の世界が展開される説いている。そのことについては
【本文】
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を 受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(『観心本尊抄』)
【訳文】
お釈迦様が悟る前の修行中の全てのすばらしい行い、悟り仏になった後に行った全ての徳、この二つの心理は「妙法蓮華経」の五字の中に具わっている。我々がこの五字を受け取れば自然にお釈迦様の修行中積まれた善い行いも悟りを開いた後の徳もお譲りくださるのである。
この部分が日蓮思想の中核をなすといっても過言ではない。お釈迦様の修行中のすばらしい善根も、悟りを得たあとのすばらしい善根も、要するにお釈迦様の持つすべてのすばらしい働きは丸ごと『妙法蓮華経』の中にある。その『妙法蓮華経』は「妙法蓮華経」という題目の中に納められていて、それがお釈迦様から我々に与えられているのだから、題目を受持し唱えることでお釈迦様の持つすべてのすばらしい働きを受け継ぐことができるのである。
このようにお釈迦様によってなされた題目の譲与があってはじめて衆生の中に仏の功徳が備わるものであり、仏の要素は人々の中に内在していたとしても実際に題目なくしては外に働きかけることはできないと考えられる。そのためには、数を誇るのではなく、普段から称え続けることが大切なようです。
>>念仏とは、「南無妙…」を連続的に言い放つ題目と完全に異なり、文章を朗読するようなお経を唱えることでしょうか。
鎌倉新仏教において注目された念仏は「南無阿弥陀佛」です。ちょっとこの質問の意図が読み取れず申し訳ないのですが、念仏の称え方に関しては宗派によって異なります。浄土宗さんでは「ナムアミダブ」と十回一区切りという感じでお称えします。浄土真宗では日常勤行する中では「ナンダー」「ナンダブ」「ナマダブ」や、もっと節がついたものがあります。普段称えるときは「ナムアミダブ」「ナマンダーブ」「ナンマイダー」なんでもかまいませんから称えます。時宗の場合は浄土宗さんに近いようです。節がついたお念仏が数多くあるのは浄土真宗であるようです。ですから、「お経」と「念仏」は区別するべきであると思います。文章を朗読するような念仏というのはぴんと来ませんが、節を付けずに読むことはあります。
>>題目と念仏の違いがいまいち調べてもはっきりと解りません。どのように区別して考えればよいでしょうか。
・呼ぶものの違い
まず、呼ぶものが違うことがあげられます。日蓮のいう題目は「南無妙法蓮華経」と『妙法蓮華経』の題目を唱えることで、法然・親鸞・一遍の言う念仏は「南無阿弥陀佛」と阿弥陀佛の名前を称えることです。
・目的の違い
つぎに、目的が異なっています。あくまで題目の目的は現世における成仏です。それに対して念仏の目的は極楽という阿弥陀仏の世界への往生です。往生して後に極楽という整った環境で成仏を目指すということは前提にあったとしても、現世で往生を願うことが先決であるとします。
・時代の見方の違い
時代観も違います。鎌倉新仏教の基礎になっているのは末法という時代観です。
末法とは、末世、末代、墝季(ぎょうき)、墝末(ぎょうまつ)とも呼ばれ、俗には末の世・世も末などという言葉も末法がもとになっていて、経典に説かれる三時思想の最晩年が末法となります。三時思想とはお釈迦様が入滅されて後、時代が経過するにしたがって、仏教が衰退し、それにともない邪教・外道がはびこり、衆生の機根(能力・資質)が衰えて、悪人が跋扈して、ついには仏教が滅びてしまうという歴史観です。その仏教が衰退していく過程を三つに区分したのが三時思想です。その三時とは、正法・像法・末法をの三つの時代です。
まず、正法という時代はお釈迦様がなくなってから五百年または千年の間で「教」えが正しく伝わり、それをすぐれた機根の持ち主達が正しく修「行」をする事により、正しい修行の「証」である悟りを得る者もいる時代を呼びます。この時代は「教」「行」「証」の三つが失われることなく伝わっている、いわゆる仏教の黄金期といえるでしょう。
続いて像法とは、像法の「像」という字は、何かに「似ている」とか「象る」という意味を持つ字で、ここでは正法に似ている時代ということができます。この像法という時代は正法の後千年続くとされ、いわゆる形式化した仏教が行われる時代です。教えもあり、それを修行するものもいるが、人間の素質や能力が低下してきたために形式のみにとらわれ、実際に悟りを得る者は現れなくなってしまいます。この像法という時代では、「教」「行」「証」のうち「証」がなくなってしまった時代を言います。
このように正法五百年または千年像法千年の後に末法が来ると、教えは残っているものの、出家者の資質・能力が落ち衆生は邪教に惑わされ本当の意味での修行できる者はいなくなり、そのため悟る者もないという時代です。「教」「行」「証」で言えば、「教」だけが残り「行」も「証」もなくなってしまい、それを過ぎると法滅をむかえるというのである。そして、この末法は一万年間続くとされ、末法一万年が過ぎると法滅を迎えて、ついに仏教は滅びてしまうという思想です。これを表にすると次ぎのようになります。
正法 像法 末法
教(教え)○ ○ ○
行(修行)○ ○ ×
証(悟り)○ × ×
このような時代観をどう解釈し、悟れないはずの時代の者がどうやって悟りを目指すべきかというのが、鎌倉新仏教と呼ばれる仏教の根底にあります。
日蓮は『観心本尊抄』のなかで「仏の出世は霊山八年の諸人の為に非ず正像末の人. の為なり、又正像二千年の人の為に非ず末法の始め予が如き者の為なり」と説いて、お釈迦様の教えの眼目は「妙法蓮華経」であり、それはすべての者を悟らせるためのものでなくてはならない。そもそも、お釈迦様の出現自体がすべての者を悟らせるためであって、全てのものを悟らせるためにあるのであれば仏教がもっとも衰退した末法に住む人々を悟らせることができなければ不可能であり、末法こそがお釈迦様が真実の仏法を説く目的とした時代ととらえます。末法はなげかれるべき時代ではなく、真実の教えが実現する最高の時代ということになります。そうなると、末法の混乱は最高の教えが説かれる前兆として捕らえられています。日蓮の主著ともいえる『立正安国論』には末法の混乱や天変地異は仏教を誹謗することに由来し、許されざるものとされているが、晩年になるにつれ末法の混乱や天変地異はもとより、仏教を誹謗することでさえ、『妙法蓮華経』が本当に意味で説き明かされる前兆と捉えています。そこで、説かれるのが「南無妙法蓮華経」の題目であるとして、それこそが末法において悟るべき唯一の道であるとしています。
法然や親鸞一遍は、教典に説かれているままの末法をそのまま受け入れます。人間の機根(才能とか能力と考えてください)が劣り悟りが開けなくなってしまった時代に、自力で悟りを目指す聖道門の到底及ぶものではない。悟れない時代に住む悟れない人間(凡夫)が救われる道は阿弥陀佛が第十八願に定めた阿弥陀仏の名前を呼ぶ「南無阿弥陀佛」の念仏によって極楽浄土に生まれて後に悟りを開く他力「浄土門」の教えしかありえないと説きます。また末法の後に法滅があるとすれば、末法は仏教の教えが失われていく時代ということになります。そんな時代に失われていないという保障はどこにあるかといえば、『無量寿経』の中でお釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃっています。念仏の教えこそ末法や法滅後に住むもののために経典の中で唯一お釈迦様が保障してくださった教えであるとします。
この立場は日蓮系の方々からは法華経を誹謗した立場だととられますが、凡夫の救いについて『妙法蓮華経』譬喩品には
【本文】
舎利弗よ驕慢懈怠にして我見に計する者には、この経を説くことなかれ、凡夫は浅識にして五欲に著し、聞くも解することあたわじ、亦この経説くことなかれ
【訳文】
舎利弗よ、傲慢で修行を怠けて自身の勝手な解釈に執着しているものには、この法華経を説いてはなりません。凡夫は知識が浅く五欲に執着して、聞くということもできなければ理解するこのもできない。またこの経を説かずに捨ててしまうでしょう。
と説いて、凡夫は智慧浅く、五欲(財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲)に執着するものであるから、たとえ真実の法文たる『妙法蓮華経』の教えを聞いても、経文を誤解し思い込みによって判断し正しく理解できないとしています。またそれは『妙法蓮華経』の教えを凡夫には説いてはならないということになります。けれどもそれは『妙法蓮華経』が劣っているからではなく、最高の経典であるからこそです。それを理解したり信仰できない理由は経典ではなく、自分自身に問題があるとするのが浄土教であり、そんな問題のある自分を極楽浄土で仏にまで仕立てようとするのが阿弥陀佛という仏ということになります。そうなると、問題は自分自身にあるのだから『妙法蓮華経』をはじめとする聖道門の経典への誹謗中傷ではありえないことになります。
ここで説明してきた題目と念仏との違いは一部です。全てを書き連ねていくことも可能ですが膨大な量になってしまうので、だいたい主要なところまとめて述べさせていただきました。けれども、後から読み直すとえらい長い文章になってしまいましたね。申し訳ないです。しかもめちゃくちゃな稚文です、どうぞ文意を読み取っていただきたく思います。
合掌 南無阿弥陀佛
この回答への補足
あとになって、よく考えたらわかりましたw
題目→本のタイトル
念仏→仏に祈る
こういうことだったんですね。スッキリわかりました。
ありがとうございます。
曹洞宗が静かに坐禅で、臨済宗がなぞなぞなのですね。(短絡的な解釈しかできなくてすみません)。ホウレンゲーキョーもナンマイダーも、素人解釈では似たようなものと思いきや、区別して考えられるものだということがよくわかりました。親鸞と般若心経について書かれた本を読んでいますが、もっと勉強してみることにいたします。
祖父の葬式は創価ではなく。
創価が離れていった日蓮宗であったと思います。
No.4
- 回答日時:
私は源信の「往生要集」を読んで、はじめて念仏の意味が判った気になりました。
昔の本や芝居によると、日本人が死に目に会うとほとんど例外なく念仏の「ナンマイダー」とか 「ナンマイダブ」と唱えますが、お題目の「ナンミョーホーレンゲーキョー」とは唱えません。不思議だったのです。
「往生要集」によると、横八方+縦上下=十方の各方向にそれぞれの名前のついた浄土(天国)があり、それを司る係の如来が居られるのだそうです。一つの浄土を除いて他の浄土(例えば東の浄瑠璃浄土など)では、その浄土に入れてもらうには、難しい学問をしなくてはいけないとか、過酷な修行をしなくてはいけないとか、高僧にならなくてはいけないとか、財産を寄付しなくてはいけないとか、いろいろな難しい試験に合格しなければならないそうです。
ところが「極楽」とよばれる西の彼方にある浄土だけは、何の取り柄もない人でも、悪いことをした人間でも、無試験で入れてくれるそうです。そこを管理しているのが阿弥陀様です。そこに入れてもらうにはただ「阿弥陀様万歳!」と念仏を唱えれるだけで良いのだそうです。
一方、日蓮によると、お題目「法華経万歳!」を唱えると「即身成仏」、すなわち生きたままで浄土に行けるのだそうです。
以上まとめると、念仏は死んだ後の幸せに、お題目は生きている時の幸せに関係があるようです。ですから、昔の人は死ぬ時に念仏を唱えましたが、お題目は唱えなかったのだという、私の勝手な解釈が「往生要集」を読んでいて出て来ました。
お坊さん、私の解釈は間違っていますか?
ナンミョーホーレンゲーキョー
たしかに許しを乞う時、苦しい時に言いませんね。私の中では祖父が日蓮宗だったので、ナンマイダーよりホウレンゲーキョーの方が、意味もなく体に染み言っていました。死を覚悟して恐怖するからナンマイダーと、仏に祈るのですかね。
No.1
- 回答日時:
仏教徒とは本来「仏=釈迦如来」「法=仏の教え」「僧=釈迦教団」
の3つの宝に帰依した者をいいます。仏帰依、法帰依、僧帰依です。これを三帰依といいます。これが仏教徒の正式な帰依の姿ですね。
現在ある仏教系宗派は時代の流れで三帰依から変形した形式になってますね。
南無阿弥陀仏=阿弥陀仏に帰依します。という意味ですから仏帰依の形をとっている宗派ですね。浄土三部経を基礎にしている宗派ですね。
浄土真宗系は、阿弥陀経・正信偈をお経としてますね。
南無妙法蓮華経=妙なる法である法華経に帰依します。という意味ですから法帰依の形をとっている宗派ですね。当然法華経を基礎にしてます。
各宗派のお寺さんでは基礎とするお経を唱えていますね。
一般の信徒については、
例えば、浄土系は仏帰依の形でお経は難しいから「南無阿弥陀仏」や正信偈をとなえていますね。
日蓮系は法帰依の形でお経は難しいから「南無妙法蓮華経」をお題目の形にしているのでしょう。
たしかに「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱えるだけではお題目宗教にしかなりませんからいろいろお経の解説などの努力をしているのが各宗派の現状ですね。三帰依というのは名のとおり仏の教えに依拠して生きるということですから学ぶことを放棄すれば仏教でもなんでもない宗教になってしまいますからね。
なるほど!
多くの方の回答を見ていて、視点の違いに気がつきました。日蓮宗系の方々って祈っているだけだなーと思っていましたが、無心に仏に祈る気持ちがストレス解消といってはなんですが、教えを難しく考えるよりお題目を唱える行動に出ているのですね。
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