1. 大和言葉では 《まことと思う》といった意味合いでしょうか。
2. その対象をいま別にしうるなら 《無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》と定義します。
3. 問題は これが 《思考停止》ではないということです。《条件は無い 根拠も無い》と思考しているのです。
4. それにふさわしい信じるの対象とは 何か?
5. 《非知》です。《知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾ incomprehensible incomprehensibility 》を言います。
6. 《知り得ないと証明された未知としての不可知》とは 別です。《未知・不可知》は 諸々の条件を認識し思考する対象ですから。
7. 《オシへ あるいは アイドルたる教祖》も 信じる対象ではありません。オシへの示す意味内容だとかその人物という形ある存在は 有条件ですから 信じるではなく考える(つまり 批判してただしく知る)対象です。
8. 《神》という言葉か? これは《非知》本体をしめすシルシですから その言葉を信じるわけには行かない。
9. ブラフマンとかブッダとかあるいはキリストといった神の名を 信じるのだろうか? やはりシルシを無条件に受け容れても仕方がない。
10. では ひとは何を信じるのか?
No.1
- 回答日時:
期待外れになってもガッカリしない気持ちで居ること。
それが「信じる」ということかな?
(一般的な「信じる」の裏には「私の思うとおりにやってくれよ」という期待が潜んでいて、信じてもらった側は迷惑)
ご回答をありがとうございます。
★ 期待外れになってもガッカリしない気持ちで居ること。
それが「信じる」ということかな?
☆ それは 《有条件・有根拠》の場合ですね。
本来の《信じる》を 相対的で有限のものごとについて 派生的に応用した。
つまりは 絶対でなく100%ではないが 強い確信を持つということを言おうとしている。
★ (一般的な「信じる」の裏には「私の思うとおりにやってくれよ」という期待が潜んでいて、信じてもらった側は迷惑)
☆ これも 相対的な事象に絶対性に用いる《信じる》を応用風に使った場合ですね。
No.3
- 回答日時:
火事で取り残された時
「おーい、窓から飛び降りろ、大丈夫だ、受け止めてやる」
貴方は・・・・信じますか、疑いますか
そこに信じるに足りる条件など存在しません
その時は、可能性を信じる以外ないのです
信じるとは不思議なもので
信は知恵に代わり 知識を汲み上げ 行動の移ります
信は、分からなかった事が 分かるようになります
人間は可能性を信じたからこそ、不可能を可能にしました
「幸福への知恵」「勝利への知恵」は、信のなかに含まれているのです
信じない不信は 行動を止め、簡単な事が分からなくなります
極端ですが
ペテン師の宗教でも、信じなければ分かりません
その結果、大怪我をして、初めて分かるのです。
そのため、賢い人は
怪我人ばかりの宗教には近ずきません、
信は 結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします
人は、無限の可能性を信ずるべきです
その可能性に限界を設ける宗教なら、
その宗教にも限界があるのではないでしょうか
人は、絶対、神にはなれないと言う限界を設ける
キリスト教に限った事ではありませんが。
ご回答をありがとうございます。
★ 火事で取り残された時
「おーい、窓から飛び降りろ、大丈夫だ、受け止めてやる」
貴方は・・・・信じますか、疑いますか
そこに信じるに足りる条件など存在しません
その時は、可能性を信じる以外ないのです
☆ ところが 《可能性〔があるかないか〕》は 条件なんです。咄嗟のことで 考える余裕も時間もないかも知れませんが やっぱり《根拠をも探しています》ね。
むろん それでも《信じる》という言葉を使っても間違いではないです。よく使います。
ただしそれは あくまで相対的で有限のことがらについて・だから絶対ではないが 強い確信があるというときに 本来の《信じる》を二次的に応用して用いているのですね。
ですから その定義は おそらく本来とは別の問題だと思われます。
村神様を信じるという用法は 応用編ですね。
★ 信じるとは不思議なもので
信は知恵に代わり 知識を汲み上げ 行動の移ります
信は、分からなかった事が 分かるようになります
☆ おそらくそういった体験というのは やはり相対的なものごとに応用しているのだと見ますが 問題は それでも強い確信を持つことで 心の明けが成るのです。
心が開かれているということは 自分の思考能力を解き放ち また他人の情報や助言をすなおに聞き入れることができて よい結果を生む――こういうことだと思います。
★ 人間は可能性を信じたからこそ、不可能を可能にしました
「幸福への知恵」「勝利への知恵」は、信のなかに含まれているのです
信じない不信は 行動を止め、簡単な事が分からなくなります
☆ こういう場合の《信じない》は やはり条件を捉え可能性の確率を考えているのです。
つまりは 相対性の問題の域を出ません。
本来の《信じる》は おそらくそうではないでしょう。
★ 極端ですが
ペテン師の宗教でも、信じなければ分かりません
☆ 宗教は オシへです。思想です。ならば 《考えればよい》のです。
★ 信は 結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします
★ 人は、無限の可能性を信ずるべきです
その可能性に限界を設ける宗教なら、
☆ これまでの定義のばあい そこに《限界がある》ことが分かっている。相対だからです。
No.5
- 回答日時:
人間が考えるということは、懐疑心(不安感情)が原動力になっているので、来世に何処に送られようが、救われることはないのだと私は思う。
来世がない。神・佛がいてもいいけれど。それは、律法を護っていれば、立法に抵触することはないという担保までなのですね。
科学的に律法を創れるのであれば、神仏不在でも良いとは思うが。過渡期なのでしょうね。
★ 律法を護っていれば、律法に抵触することはないという担保までなのですね。
☆ よいことをおっしゃる。
ところが 律法をことごとく守ることが出来たというひとは おそらく一人もいないでしょう。
となると 《考える(律法の自覚・自立)》ではなく おそらく《信じる》が脚光を浴びるかと思うのですが それは いったいどういうことでしょう?
No.6
- 回答日時:
日本は長らく、戦後、人間中心主義を謳歌し、神仏の俺の野心の実現のために政治利用して、己が勝つだけために、神仏に祈っていたわけだ。
主人公は己であり、脇役に神仏がいた。
それは、例えば、山田荘一氏を例に挙げるのであれば、彼の人倫の基盤は最早、変わることはないよ。
建設機械を信望する以上は、機械というデビルが神なのであろう。
仕事に無関係な個人的な思想を部下に押し付けて、それも手・脚が出ても猶、企業内の話であれば、殺傷したところで、企業が己の秘密を守ってくれるという担保を頑な誇示し、筆谷欣五郎総務課長と通じて、新人をなぶり殺しにしたところで、何の良心の呵責を覚えないところが、逆に森元首相の名を翳して、権力をチラつかせて、黙らせる、この両者に人間の感情は最早残存しているとは私には到底思えないけれど。
人間の感情がない上司に政治的に嵌められれば、人間としての心を失う部下に至るのは想像するにたやすい。
その結果、深刻な精神障害を発症することは分かりきっている話だよ。
人間のおれが 神仏に取って代わったってことですか?
しかも さらに進んで:
★ 建設機械を信望する以上は、機械というデビルが神なのであろう。
☆ というところまで行くのでしょうか。
いや かれらはいったい 何を信じていたのだろうか。
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