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1. 人は他人や自己なる人をそしてまたその侵したあやまちを赦す能力があるか

2. 次のように考えたその命題について当否を問います。

3. 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。

4. 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。
   
4-1. 悪態をつき加害者たる相手をののしったり 呪ったりすることはあり得る。だが――それによって気持ちが楽に成ったりするかも知れないが――それは 赦す赦さないとは別である。
 
5. 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。

6=4. マチガヒを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。
   
7=1. ひとの自然本性においては ひとを赦すか赦さないかの判定をするような行為能力は持ち合わせていない。

8. わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に逆らってでも――想像力によってかき立てた人間から始まって そのような気持ちもしくは心に派生した心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?

8-1. これは 例外的に持ち得た言わば延長戦といった問題ではないか。

9. 人と人とのカカハリたる倫理としては 《なんぢ ころすなかれ》という命題を得たことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての《第二の倫理》問題を生んだ。のではないか?

10. だが 自力救済は禁止されている。のである。延長戦は あって無きが如くである。

11. ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方は 見直すべき余地があるのではないか。
 


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12. おぎないが必要であると考えました。

13. けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれ自身との和解にかかわっているものと考えられます。
 
14. 言いかえると おのれの存在についてみづからが心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。

15. その意味は こうです。
人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。
分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。
ということは 赦さない能力も資格もまったくない。

16. では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?
そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガヒをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。

17. つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。
ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?

18. 批判を伝えたあとは――互いに人間存在としてのカカハリは どこまでも潜在的につづくでしょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなっているということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味ではないか。

19. というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。
 
20. その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

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