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 ニーチェのルサンチマンについて、教えてくださ
い。弱者の強者への単なる嫉妬や不満ではない、
ということは、分かるのですが・・・。なかなか、
はっきりと分かりません。
 おそらく、ルサンチマンについては正しい解釈と
いうものは存在しないのではと考えています。そこ
で、皆さんは誰のどんな解釈を評価しているので
しょうか。よければ、教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

モテない男が女の子にモテるために必要な要素として外見ではなく内面重視を美徳とする態度は、ニーチェの言う「キリスト教=奴隷道徳」と同じ価値観です。


キリスト教的価値観に支配されたドラマや小説などで使い古されたテーゼで「人間は外見なんかより心が綺麗なことのほうに価値がある」などと称して
不細工だが優しくて思いやりがある清らかな心の主人公が美人の彼女をゲットするというお伽話のようなストーリーが往々にしてありますが、現実には人間本性からそんなことは不可能です。
外見より内面を重視するように振る舞えたとしても、心ではイケメンになって美人の彼女を作りたいと神に祈っているのです。
現実でも美人・イケメンは自由に生きていても周りは認めてくれますが
ブサイクな人物は他人に気を使い周りの為に心を砕き人格で勝負するしかなく、
その結果善人と呼ばれてもきっとその人の悔しさは癒されないでしょう。
キリスト教の僧侶はそういった弱者の態度を讃えましたが、しかしニーチェは弱者の本当の望みを知っていたのです。
ブサイク男は本当はモテモテのイケメンに憧れていたのです。
このように宗教は弱者の不満を屁理屈でごまかす事に真髄があり、時の権力者のプロパガンダに利用されてきました。
それ故ニーチェは弱者をその状態のままに押さえ込もうとするキリスト教を批判したのです。

ブサイク主人公が努力してオシャレなイケメンになって可愛い彼女をゲットするという君主道徳的ストーリーの方がよっぽど健康的です。
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 全く哲学に詳しくないので、本来なら回答する資格などないのですが、自分自身について考えるためにも(自分勝手な理由で済みません)書かせて頂きたくなってしまいました。


 
 私は今まで他人への憎しみ・怨みに長いこと苦しんできて、絶望しっ放しで生きてきましたが、最近「ルサンチマン」という概念に辿りつき、自分の考え方の方向性を定められそうな予感がしてきました。
 
 間抜けな素人意見しか言えませんが、単なる「嫉妬」「不満」「怨念」は、強者に負けまいとするパワーを維持するのに必要な感情であり、「ルサンチマン」は、同じく強者に負けまいとしながらも、理性面のパワーを維持するのに必要な概念ではないかと思います。
 
 自分の経験から考えると、感情のパワーばかり強まると、どんどん苦しくなるだけで収拾がつかなくなるので、理性・理論(まさに哲学的な考え方)のパワーも同じように高めて、感情と理性を両立させる必要があるのかも知れないと思います。一方が他方の暴走に多少ブレーキをかけてくれるように思います(でも、ブレーキをかけすぎて、一方の力を萎えさせてしまっては、また不安定になってしまいそうですので、バランスが大事だと思います)。

 なんと言うか、「嫉妬」「不満」「怨念」だけでは、いつまで経っても個人的感情の中で堂々巡りして解消できないものを、「ルサンチマン」という概念による、他の回答者の方が述べていらっしゃるような「愛や同情を用いての自己正当化」や「創造的行為」「想像上の復讐」でなら解消できるような感じがします。

 これからはもっとマシな回答ができるように、是非ライフワークとして、今まで読んでなかった哲学書でルサンチマンについて考えていきたいと思っております。
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ghostbuster 様のご回答を読みながら


思い出しました。

確か、シェーラーは
ルサンチマンを発見したのは、ニーチェの功績と述べていました。

その時、考えたんです、
発見する前からあったのか、発見して、名前を付けた事により、ルサンチマンが存在することになったのか?

古代においては、奴隷と言えども、貴重な財産だったはずです、奴隷は自由と言う理念に対するのではなく、隣の奴隷と比較して、自分を評価していたような気がします。

この件に関しては、保留と言いますか、判断中止しています、それ自体が、ルサンチマンそのものかもしれませんが。

何度も、駄文を書き込んでしまい、申し訳ありません。
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この回答へのお礼

たびたび、ありがとうございます。今後も何か分かったら、遠慮なく教えてください。よろしくおねがいします。

お礼日時:2005/05/07 21:07

ルサンティマンは『道徳の系譜』での鍵概念です。



そもそも文献学者であったニーチェは、哲学に「系譜学」の方法を持ち込みます。
わたしたちが持っている道徳感情というものは、自然発生的に成立したものではない。
成立した意識からは隠された真の原因がある。それを発見しなければならない。
道徳の系譜を遡ることによって、「道徳」という概念にもたらされたゆがみを見つけようとしたわけです。

「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンが創造的になって価値を産み出すようになったときに始まる。本来の反応、つまり行為における反応が拒まれているため、想像上における復讐によってだけその埋め合わせをする者たちの抱くルサンチマンが、である。すべての高貴な道徳が自己自身に対する勝ち誇った肯定から発するのに対して、奴隷道徳は最初に外のもの、他のもの、自己でないものに対して、否と言う。この否定こそが、その創造行為なのである」(『善悪の彼岸・道徳の系譜』信太正三訳 ちくま学芸文庫)

以下、この部分を中心に永井均『これがニーチェだ』、『ルサンチマンの哲学』をおもな典拠としつつ、簡単に書いてみたいと思います。

まず「善い―悪い」に対して。
ニーチェは
「高貴な人々、力ある人々、高位の、高邁な人々が、すべての低級な者、卑小な者、野卑な者、的な者と対比して、自分を『よい』と、つまり第一級のものと感じ、そのように評価したのである」(引用同)

この、自分をよいもの、と感じる自己肯定の感覚、やったことなしたことや他人の評価に基づかないところの、自分の存在そのものに対する自己肯定的な感覚を、「貴族的価値評価」と呼びます。

それに対して

「僧侶的価値評価の源泉は、直接的に自己肯定している強者に対する、それができない弱者の羨みと僻みにある。だから、その本質は他者を否定することによる間接的な自己肯定である。このとき、弱者は強者を直接的に否定するのではない。つまり、『あいつは本当は力がない』といったかたちで、すでにある価値空間それ自体を実質的に否定できるような、別の空間をつくりだすのである」(永井『これが…』)

ルサンティマン自身は、一般的に言われているように「深い怨念」として理解することで問題はないと思います。

自分の存在を意味に奉仕させず、他者からの評価からも自由で、完全に自己を肯定し、自分自身の存在を楽しむことができる人々に対する「怨念」です。

ここで押さえておかなければならないのは、このルサンティマン自身は、羨みとか妬み、僻みといった日常的な感覚であるわけです。

ところがここで、ニーチェの言う「僧侶」(キリスト教)によって、「創造的になって価値を産み出」された、つまり、貴族的価値評価を根こそぎひっくり返し、新たに別の価値体系、卑小な者、貧しい者、弱い者こそが神に愛されるのだ、と、ものごとをとらえる概念体系自体をつくり変えられます。この「創造的行為」が「能動的ニヒリズム」の原型であり、ルサンティマン的弱者は、僧侶の示す新たな価値空間に救いを見出し、すがりつくのです。

「行為における反応が拒まれ……想像上の復讐」というのは、たとえば福音書のこんな箇所です。

「『目には目を、歯には歯を』と言われている。しかし私は言う。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬も向けなさい」

「行為における反応」とは、右の頬を打たれたことに対する反応です。それに対して憤ったり、ことによっては殴り返すこともあるかもしれない。
福音書ではそうするな、という。それでいて、何もするな、と言っているわけではない(ニーチェは仏教をそのような教えであるとして理解しています)。

そうではなく、左の頬も向けよ、という。つまり「自分たちが勝てる新しい空間を捏造し、その中で手向かえ、という教えではないか」(引用・永井前掲書)

そうして、わたしたち自身もその「僧侶的価値体系」のなかに生きているのだ、それが「道徳」の本質なのだ、とニーチェは言っているわけです。

永井さんの『これがニーチェだ』(講談社現代新書)は、このあとからおもしろくなっていくのですが、ご質問の内容からは離れていきますので、回答としてはこれで切ります。あとはぜひご一読なさってください。
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この回答へのお礼

 永井均ですか・・・。私もだいぶ昔に読みましたが、当時はなかなかおもしろい、と思っていたのですが、現在ではやや懐疑的です。その原因は、内容にあるのではなく彼の研究スタイルにあります。
 簡単に言えば、彼のニーチェ研究は論文に引用しにくいということです。彼のニーチェ理解はあまりに主観的すぎて、学問的客観性にやや欠ける気がするのです。また、先行研究を軽視する態度もあまり好きになれません。
 結局、確かに娯楽としては十分に楽しめるとおもいます。過激な発言が多いですし、挑発的で呼んでいておもしろいです。ただ、自分の論文の参考文献には、はずかしくて掲載することはできないということです。それと最後に誤解しないでほしいのですが、回答者の方には、真剣にお答えいただいて感謝しています。ありがとうございました。もし、永井均以外に参考になるルサンチマン解釈がありましたら、お教えください。

お礼日時:2005/05/07 13:28

そして厭世的.虚無的.ニヒル



崖から落とされたライオンの子のうちで
絶望の淵から這い上がる事が出来なかった者の叫び.
 


 
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孔子は直似報怨といい


老子は徳似報怨という.

ここでの徳はキリストの言う愛に近いが,老子の思想は後に法家によって”権力者の平和”の為の支配と搾取の政治哲学に利用されてしまう.

乾道も坤道も根底には同じものがあるが,孔子は天道に則って徳に正義を付加させた.

邪悪なる者は人の愛を利用して自らの欲に溺れる者
そこに胡坐をかき坤道に生きるものを省みない者だ.

ニーチェがルサンチマンを通して何を言いたかったかは知らない.性格的にはニーチェは陽というより陰というイメージではある.そこから察すればキリストの言う愛に生きようとしながらも強者に対する不満を持ち続け,正義によってそれを昇華できないままであったかもしれない.

 
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私もニーチェを詳しく知る者ではありませんが。


察するに、単に「弱者が強者を妬むこと」ではなく、「弱者が愛や同情を用いて、善悪の尺度で自己を正当化すること」を言いたいのだと思います。
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No.4のvagabond_0710です。



単に恨みや嫉妬とは違う点があるからこそ、ルサンチマンという言葉を定義したんだと思ってます。
僕の意見だと、支配関係の身分的上下がそこにあるように思えます。社会の組織の中では、どうしても支配者と被支配者ができると思いますが、組織という時点で、自分と違う意志にも従わなければならない。これは社会に出れば誰でも経験すると思うし、それが自己疎外の問題も引き起こしています。つまり、ただでさえ、被支配者は納得できないこともやらなきゃいけないし、支配者のご機嫌もとらなきゃいけないし、一見、まとまって丸く収まっているように見える組織の中を覗いてみれば、実は、支配者に対する憎悪やねたみがある、そういう条件の中での感情のことを言っているのだと僕は思ってます。

さらに、昔だと身分は固定されていたり、強い存在やその階級に憧れがあるけど、しかし現実はそうじゃない。オレは下っ端だ。だから憧れるんだ。そういう心理だと、永遠に自分に納得ができず、満たされることもありません。その心理を超えたところに、愛とか同情とか満たされる心がある。それなのに、多くの人は、強い者に対しては畏怖と不信があり、またそこには自分を卑下したり狡猾な態度がある。逆に弱い立場や自分と同じ立場の人に対しては同情する。そういう卑しい奴隷的な道徳から、生まれる怨恨のことをニーチェはルサンチマンと言ったのではないでしょうか。僕はそんな感じに思えます。
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この回答へのお礼

 そうしますと、ニーチェの弱者と強者というものは、社会的弱者と強者と同義ということになるのでしょうか?

お礼日時:2005/05/03 12:24

素人意見です。

ニーチェの書物も読んだことがありませんが、辞書に載っている内容ではダメなのでしょうか?

ルサンチマン 2 [(フランス) ressentiment]
〔哲〕 ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。
→奴隷道徳

三省堂提供「大辞林 第二版」より

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A5%EB …
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この回答へのお礼

私も辞書に載っていることは、何とか知っていたのですが、はたして、ニーチェの真意はなんだろうかと疑問に思ったもので。もし、辞書程度の意味ですと、ルサンチマンなんて大そうな物言いをしなくても、単に恨みや嫉妬でいいんじゃないかと思いまして、質問しました。どうなんでしょうね、ルサンチマンって?

お礼日時:2005/05/02 11:01

お礼拝見しました。


ジンメルさん、素人に無理難題はいけません(笑。

シェーラーはルサンチマンを表題にして大部の論文書いていますから、直接当ってください。

さしあたり、私の読書ノートには

「一として、ただ一としてのみ」の価値を持ちたいと思うものはいないであろう。ベンサム
こういう要求は、自己自身をもっとも価値なき者と感じて、他の人間も自分とできるだけ等しい者にしたいと願っている人間からのみ発しうるのである。
「一」とは、あいも変らずそれっきりでそれ以上のなにものでもないときの人間のことである。

理解不足でしょうね、これだけの記録しか残っていません。
もう逆立ちしても、何も出てきませんよ。
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この回答へのお礼

重ねてお礼を申し上げます。

お礼日時:2005/05/02 10:58

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