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Aさんという人がいるとします。
Aさんの長所は「人に優しいところ」です。
ではなぜAさんが「人に優しい」のかと言うと、
それはAさんの親の教育が良かったためだとします。
誰かが「Aさんは本当に優しいですね。これも親御さんの教育が良かったからでしょうね。」と言ったとします。
この場合、僕にはAさんではなくAさんの親だけが褒められているような気がします。
じゃあAさんには褒められるところはないのかと思ってしまいます。
「人に優しい」のはAさん自身なのに。

ある人の長所の原因が親(必ずしも親でなくとも、本人以外の何か)だとしたら、
原因に価値があって、その人自身には何の価値も無いように思えてしまうんです。

確かに、人は親の教育で性格もかなり左右されると思います。
この例にしても、Aさんが人に優しい原因は親の教育のためでしょう。
「だから親には感謝すべき」という理論も分かりますが、そういう問題ではなくて…
Aさんには何の価値も無いのかと。

具体例を出します。
僕の身の回りでも、すごいと思える部分を持った人はいます。
その人がなぜすごいかと考えたときに、「親の教育がよかったから」ということになったら
僕は落胆します。僕はその人をすごいと思いたいのであって、その人の親をすごいと思いたいのではありません。

本人には何の価値もないんでしょうか???

変な悩みだと自分でも思いますが、答えていただけたらありがたいです。
年代・性別で考え方が違うと思うので、年齢と男性か女性かも良かったら書いてください。よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

当方20代前半,男.



そのような考え方が分からないでもありませんが,その考え方に固執するとネガティブになっていってしまうかもしれません.
では「何に価値があるのか?何をすれば価値があるのか?」という“~ある”という視点でものを見るのもいいかと思います.

話はさておき,あなたの考え方について考えてみます.
これまで育ててこられた外的要因によって,Aさんは“優しい”という他人からの支持を得た,ということですね.
しかしそれは与えられたものであって,与える人に価値がある,つまり原因にもっとも価値があるという考え方です.
すると本人には価値が無いということになります.
しかし,では純粋に価値がある人などいるのでしょうか?
多くの人は,誰かから与えられたり奪われたりする価値の中で生きているのではないでしょうか?
私は以前そんなことを毎日考えていました.
例えば,児童虐待やアルコール依存症などは世代連鎖をすると言われています.
これは負の価値が親から子へと伝わっていく現象ですね.
一方,どこかの会社の社長の下に生れた人間は社会的に成功しやすいといいますか,例えば金を儲ける方法など親から自然に教わって身につけるわけです.
これは正の価値が親から子へと伝わっていく現象といってもいいかもしれません.
このように,自分の生活している周りに居る人というのはおおよそ自分と同じ価値を与えあったり奪い合ったりしている人間なのではないかと思います.
類は朋を呼ぶといいますか,やはり似たもの同士は居心地がよく,いつまでも一緒に居るものです.

こうやって見ると,価値は結局先代から受け継がれてきたり,周りから教えられたりして得られるものごとの方が多いですね.
そうなるとあなたの言い分だと,価値のある人は大元を辿らない限り居ないという事になります.

しかしです.先ほども言いましたが,大元になる人間には価値があったのではないかと思われます.
そのような人間は外的要因に全く影響されずに内的要因から自ら価値を生むことが出来た人間なのではないでしょうか?
これを例えば“天才”などというのではないでしょうか?

先ほどの大方の人間についてもそうですが,人は外的要因だけでは決して価値を得ることは出来ません.
価値を得るには必ず内的要因があってこそ身につくのです.
ですから,あなたが例に挙げた“親から与えられて優しい”という人は価値の無い人ではないと私は思います.
確かにその様な優しさという素晴らしい価値を与える人が周りに居た事は幸いとしかいいようがありませんが,やはり自分でも優しくなろうと思う内的要因がなければ決して“優しい”人間になれなかったと思うのです.

話は変わりますが,私は塾で講師をしております.
生徒を教えていてつくづく思うのは,幾ら講師がいろいろな知識があって丁寧に分かりやすく教えても,生徒側が講師へ手を伸ばそうとしない限り知識は単なる情報でしかなく,定着されないということです.
これを先ほどの話に照らし合わせて言うならば,外的要因がどんなに豊かであったとしても,本人の内的要因が乏しければ決して本人は価値を得ることが出来ません.
同様に,我々は他人から価値を与えられて自分の物にしているように見えますが,価値を得ることが出来た人というのは皆,内的にも努力した人たちばかりです.
即ち,価値を沢山持っている人というのは内的にハードな心の運動をし,日々の喜怒哀楽の苦しみと楽しみの感動の中で,沢山の価値を身につけようと努力した人でしょう.

ですから,Aさんには価値が無いのではありません.
人に優しく出来るということは,親から与えられた優しさという知識を自分の中に取り込み,実践できる智恵に変えることができたということだからです.
そして価値が無い人などはこの世に存在しません.
価値を決めるのは,価値を与えてくる人間が投げかける価値を自分が受け入れることができるか出来ないかによって決まるものです.

数学で三平方の定理という価値を,その生徒が自分の中へ受け入れなければ価値の“か”の字にもなりません.
価値を決めるのは常に受け入れる側の人間の問題です.特に内的要因がそれを決めます.
このような考え方をするならば,この世のあらゆるものに価値を見出す事が出来る人間こそが,実は価値のある人間なのだということが分かるのではないでしょうか?

話はだいぶ逸れてしまいました.
これが私がいままで考えてきて到達した考え方です.
あなたも自分自身であなただけの考え方をして,私とは違う考え方をしてみて下さい.
新しい価値を自分の中から生み出してみてはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

こんなに長い文章で回答していただけるなんて。
すごく参考になります。ありがとうございます!

お礼日時:2008/05/19 20:40

>それが本当であってほしいと思います。



あっ・・
あの、誰がなんと言おうが、世間からみたらそれが間違っていようがどうしようが、あなたにとっての本当の価値判断はあなたがやるんですよ。

ただの石ころにダイヤモンドの価値を見いだすのもあなたです。
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この回答へのお礼

自分の考え方に自信が無いからここで質問したんですが(笑)

お礼日時:2008/06/02 23:04

優しさとかすごいと思える部分を価値判断する場合、原因系に価値があるのか結果系に価値があるかで悩む必要はありません。



今まさに現存する物事にこそ価値があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>今まさに現存する物事にこそ価値があります。

それが本当であってほしいと思います。

お礼日時:2008/05/29 21:25

 すべての人は 互いに対等だと考えてください。


 AさんもBさんも Xさん Yさん そしてZさんも みな 互いに同じ価値だと考えてください。
 価値以上に見える人もいれば 価値以下の人もいるように見えると言ってもいいですが――そう思えるということがあってもいいですが―― 例外なく 人は どの人も 同じ価値だと思ってください。そこから出発してください。植物人間の人も まったく同等だという意味です。あとは おのづから答えが出てくるでしょう。いいですか 寸分違わず 同じ価値ですよ。
 根拠を示さずに すまない気もしますが 感覚で判断してください。
 61歳・男。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 21:24

親でも教育者でも本人にとって環境だと考えます


「環境」が抽象的であれば、育つための材料

人は生物。生まれ、食べ、成長し、糞をする
これを心に置き換えます

生まれ、親に教えられ、成長し、忘却すべき事柄を忘れる
この繰り返しで大人になってゆくのでしょう

親でも本でも他人の言葉でも、それは本人の成長のなかで、材料となる
それをどのように吸収し、自分の命にかえてゆくか、それは本人次第

絵画や陶器。どんなに良い材料があっても、作品は完成しない
たとえ悪い材料であっても、すばらしい「形」は出来上がる
「形」としたのは、悪い材料だと、長持ちしなかったり、不安定だったりする

人は物ではないが、モノに宿る心は人の心の中の一部と同じだと思います
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

原因のみに価値があるわけではない、という事ですね。

お礼日時:2008/05/29 21:23

主人自慢の陶器を披露されがてら、食事をご馳走になっているときに、


「さすがに、いい器に盛られた料理はいい味がしますね。」
というのは、社交辞令でもあり、事実でもあります。

器がいいのでおいしく感じると言っているのは事実ですが、
器が悪ければ料理が不味いと言っている訳ではないでしょう。
料理がおいしいということは、既成事実として、あるいは暗黙の了解としてあらかじめあるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 21:17

質問者さんの疑問はもっともだと思います。



これはそもそも『私』とは何かという疑問ではないでしょうか。

私の車
私の財産
私の特技
私のやさしさ

私に付随するものはたくさんありますが、それは付属品であって私そのものではありません。
私の車は私ではありませんし、私の特技も私ではありません。
一般に価値といわれているものの対象はその付属品のことではないでしょうか。
いい車、たくさんのお金、秀でた能力、良い性格等々。
故に質問者さんの質問に答えるなら、

私というものは価値という尺度で測ることは出来ない存在

という回答になるんじゃないかと思います。
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この回答へのお礼

>質問者さんの疑問はもっともだと思います。

有難う御座います。

>私というものは価値という尺度で測ることは出来ない存在
という回答になるんじゃないかと思います。

確かにそれも言えますね。

お礼日時:2008/05/29 21:15

Aさんの価値は誰が決めるか。



当然 Aさん以外の人が決めます。
Aさんがどういう人であろうと、他人がAさんの価値を定めます。
Aさん自身では決めることが不可能。

で、日本は遠まわしな言い方を好みます。
例えば、自分は弟を優秀だと思っていても、他人に紹介するときは「愚弟」とか言います。
他に愚妻。

「奥さんは綺麗だ」と言われ、自分も世界一だと思っていても、「とんでもない」と否定するし、豪華な品物でも「つまらないものですが」と渡す時に言います。

そのお上品な図式でいけば、Aさんを直接誉める<湾曲表現>は、Aさんの両親を誉めること。

Aさんの両親を誉めることは、すなわちAさんの価値を高く評価していること。

日本には若者より年配を大事にするという儒教の精神が入っています。
子供と親が同時に溺れていたら、子供を見捨てて親を救いに向かうってのが、儒教の教え。

親孝行なんて、典型的な儒教の教え。
親を誉めててもらうために、人に尽くす人間になるのは、儒教では当然のこと。
親孝行が善行になるから。


ってことで、親を誉めることは、本人が親孝行をしている つまり善行を積んでいるってわけです。

というわけで、別に変でもなんでもないですけど。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 21:12

よく考えてみてください。


「価値」という概念は人間が勝手に作ったものです。
何かに価値があるかどうかといわれても、
そもそも「価値」という概念自体が勝手に作られたものにすぎません。
根本的に前提が覆されてしまえば、質問自体に意味は無くなります。
この社会は「価値」という概念が実際に存在するという洗脳を
我々に行っているので、「価値」という概念を使わないという
選択肢を多くの人が思いつきません。
「価値」という概念が何かを知り、その上でツールとして使う人と、
「価値」という概念が実際に存在すると思い込み、
使う以外の選択肢を持たない人、がいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「価値」という概念は人間が勝手に作ったものです。

確かにそうだと思います。ただし、「価値」というのはあくまで僕が他にいい言葉が思いつかなかったから「価値」という言葉を使っただけで…
その人のすごいと思える部分もすごいと思えなくなるじゃん!って事を言いたかったんです。

お礼日時:2008/05/19 20:56

その人の価値というものは、いかに霊的に高い境地にいるかで決まります。

親のせいではないのです。
この地球系霊団の総霊人口の440億人いる中での、あなたの、そしてその方の霊的な境地の違いなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。



霊…ですか?

お礼日時:2008/05/19 20:57

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