プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

藤原隆家は、刀伊の入寇の際、公家であるのになぜ軍事指導者としての手腕を発揮することができたのですか?またなぜ朝廷は、藤原隆家と現地の武士団が刀伊を撃退したにもかかわらず十分な恩賞を与えなかったのですか?

A 回答 (5件)

> 公家であるのになぜ軍事指導者としての手腕を発揮することができたのですか?



刀伊が4月8日に筑前の能古島を占領し、9日に警固所を襲撃してきた際に、大宰権帥である藤原隆家が警固所に防戦軍を派遣する命を下すことは、当たり前の行為のように思います。 前少監大蔵種材・藤原明範・散位平爲賢・平爲忠・前監藤原助高・傔杖大蔵光弘・藤原友近らを即刻動かせたという点では、大したものだという気はしますが、
元々、北九州各地の武将たちは個人的にも強かったようです。
http://nekomasho-ji.sblo.jp/article/189573439.html
刀伊は、攻めるけれども撤退させられていたようです。 
能古島占領の前に4月7日には、筑前国怡土郡を経て志摩郡や早良郡を襲った刀伊は、志摩郡住人の文室忠光にやられて、撃退されて能古島に移ることになったようです。9日に刀伊が警固所を襲撃してくるときに、大宰権帥が声さえ懸ければ、一斉に各地の頭領がはせ参じるとはなりそうです。 藤原隆家の個人的資質や中央公家ということの要素はあったにしても、それほどのことではなさそうに思います。
短期間に38隻も兵船を用意させたり、陸路と海路で船越津に攻め込んだのは、「刀伊との戦いは、こっちが強い」と7日の時点で自信を持った頭領・武将たちがいたからできたことでしょう。
https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d10001 …
刀伊軍は(各人楯を持ち、前陣は鉾、次陣は大刀、弓箭による戦陣を組み、弓矢を中心とした集団戦術)、武者は(弓矢が中心の矢戦で、将をねらう)、結果、刀伊軍が恐怖を強く感じたのでしょう。
刀伊が攻めてきたのは、奴隷を獲得して連れ帰ることと、穀物を奪い帰ることが目的だったようですから、得ることが少なく、危険の多い戦いは避けて、ダメなら帰るというのは、基本姿勢でしょう。

⇒ 藤原隆家は、軍事指導者としての手腕を発揮してなどないのではないでしょうか。

> 朝廷は、藤原隆家と現地の武士団が刀伊を撃退したにもかかわらず十分な恩賞を与えなかったのですか?

鎌倉時代であっても、自分の領地は自分で守り固めるのが基本姿勢でしょう。
平安時代でも、「攻められたのを撃退したので恩賞を求める」というのは基本的におかしいと思われたでしょう。 
朝廷が出陣を命じたとか防衛を命じていたのであれば、その労や功績に報いて恩賞を下すというのは、自然な流れですが、それも将のような立場の人に対してだけです。兵卒に挑発された人に対しても恩賞など考えません。
海賊や盗賊への対策は主要任務ではなかったので、将に対してでも恩賞の対象とはしないのがまともです。 
https://www.jfss.gr.jp/article/437
こういう考えの人や、「恩賞を与えないなら、今後は、誰も外敵に向かわなくなるだろう」というような考えは、まともな思考ではないです。 
外敵がないときには、良い身分・良い待遇を得ていたのに、「戦わずに逃げ隠れしていたら、罰則」という思考をする方が普通です。
「軍人・自衛官・警察官・守衛が、自分の身をも顧みずに働いたときは恩賞が必要だ」と考えて徴兵制や警邏団・自衛軍・防衛軍をつくるものではないです。
「藤原隆家は、刀伊の入寇の際、公家であるの」の回答画像5
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/10/30 23:53

藤原隆家は、刀伊の入寇の際、公家であるのに


なぜ軍事指導者としての手腕を発揮することが
できたのですか?
 ↑
当時は、武士と公家の境が明確
では無かったからでしょう。

神道を宗とする公家は、殺傷を
嫌います。
それで、武を専門に担当する武士が
出て来た訳です。

当時は、黎明期で、その区別がまだ
明確で無かったと思われます。



またなぜ朝廷は、藤原隆家と現地の武士団が刀伊を
撃退したにもかかわらず十分な恩賞を与えなかったのですか?
 ↑
当時の恩賞は土地でしたが、外国からの
侵略ですから、勝利しても与える土地が
ありません。

それで、不十分なモノになったのです。
    • good
    • 1

テレビで見た限りでは、若い頃の暴走行為。



まず喧嘩慣れしているので争いが怖くない。

次に、暴走行為を繰り返す中で、部下の心を掌握するすべを体得して言ったこと。
どうすれば部下を心服させられるか、実地に学んだのだろう。

そして戦闘指揮。
敵味方の力量判断、効果的な作戦立案、指令が直ちに過たず伝わる下知法。
実際に先頭に立って喧嘩をしていたのだから、そういうことを実地に学ぶ機会も多かっただろう。

恩賞の件も、テレビ以上のことはなにもない。
現在だって、日本企業の平社員や中間管理職など、どんなに功績を建てても大した褒賞にはありつけない。
青色発光ダイオードの中村修二など、それが不満で外資に移籍してしまった。
広い視野と長期的視点がないと、自分の利益しか見えなくなるのである。
    • good
    • 1

当時の上級公家には家司として文官武官の中級下級貴族が仕えていました。


例えば、藤原道長には有名な安倍晴明の他に清和源氏の源頼光・頼義・頼信の三兄弟も仕ており邸宅の警備や外出時の警護も行っています。
当然、隆家にもそのような家司がいて、彼らを引き連れて大宰府に赴任していたと思われます。当時国司は随身として武士も引き連れてて任地に赴くのが普通で、在地豪族である在庁官人などと対立して武力衝突に発展する例がけっこうありましたので。また、職権を行使して大蔵種材などの在地豪族を動員していますので、在地豪族とは良好な関係を築くことができたのでしょう。
隆家自身が軍事指揮を執ったというより、随身と在地豪族を掌握して彼らの意見を上手く取りまとめる才能に長けていたのでしょう。大宰府に引きこもらずに前線に出て鼓舞するなど武人としての素養もあったのでしょう。平安時代の貴族は結構ワイルドな人がいましたからね。
隆家は上手く九州の豪族たちを手懐けたので、その後もその関係が九州の武士の間では伝説的に語り継がれるようになりました。もし、隆家の子孫が代々大宰権帥に任官されて土着化まではいかなくてもしばしば九州に下向していれば、隆家流は九州の武士をまとめる大武士団に発展していた可能性があります。残念ながら、息子の代で九州とは縁が切れてしまいましたけど。
隆家自身はやはり中央貴族社会にしがみついていきたかったのでしょうが、すでに叔父の道長との政争には完全に敗北しており、その辺が隆家への論功賞となる官職の昇進には繋がらなかったと思われます。
    • good
    • 1

貴族といっても、全ての人が「なよなよ」した人ではありません。

武勇に優れた人もいました。平氏も源氏も元をただせば中央の貴族です。

藤原隆家は従者の武士を連れて花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜くという事件を起こしたりしています。当時の記録でも天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名で、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬など『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられています。

また隆家は太宰府に左遷されますが、大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服したといわれています。

本人も武勇に優れていた、善政を施したなどから、ここ一番の戦いのときには中心的に活躍できたのでしょう。

藤原隆家(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F …
    • good
    • 2

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A