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初歩的なことですいません。太政大臣と征夷大将軍の違いがわかりません。どなたかお願いします。

A 回答 (6件)

太政大臣は天皇を頂点とする朝廷(律令によった統治機構)の最高地位、


征夷大将軍は武士が朝廷より許されて開いた幕府(軍政の為の現地行政府)の長、
と考えれば分かりやすいと思います。

中国の唐では、節度使という各地へ派遣された将軍たちが軍の力を背景に、常設的な軍政府=幕府を開いていました。
日本とは異なり複数の幕府がありました。

日本へは、律令制度の導入や遣唐使などを通してこう言う軍事制度があることが伝わっていたようです。

日本では平安時代になると東北地方にしか軍事的な敵対勢力がなかったため、自然幕府は征夷大将軍府だけになっていきます(この段階では、戦争のたびに任命され解任されています)。

これが、後に「武士政権=常設的な幕府」となり、その長が征夷大将軍職を引き継ぐ流れへと続いていくわけです。
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太政大臣になった人と征夷大将軍になった人とでは、官位が違います。

官位は朝廷が与えるものです。江戸時代で言うと、徳川の将軍は、征夷大将軍ですが、官位は右大臣くらいかと思います。徳川家康は、関ヶ原の戦い時代、内大臣でした。内大臣は、右大臣の下の位です。太政大臣は、左大臣の上の位です。官位では、征夷大将軍になった人よりも太政大臣になった人の方が上です。武家出身の平清盛は、最後は、太政大臣になりました。
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こんにちは。


もう10年以上も前に大学で史学を専攻して以来の話題なので、
間違っていたらごめんなさい。
できれば、WEBでググッて確認してみてください。

今の役職で言うと、太政大臣は総理大臣,征夷大将軍は郵政事業
民営化特別委員の委員長のような関係です。
なんかガッカリくるような表現ですが、法制上ではのような
位置づけでした。本当は公社の総裁と言いたいところですが、
公社は既にありませんからね。
うーん、でもこの表現では伝わらないし、突っ込みが入りそうです。


この役職を説明するにあたり、時代背景を説明しなくてはなりません。
太政大臣は、律令(大宝律令などがありますよね)政治の中枢たる
太政官(もうひとつは紙祇官)の役職のひとつです。
トップは太政大臣、それに左大臣・右大臣が続きます。
大納言や中納言,少納言,左弁官・右弁官は太政大臣直下という
役職体系となります。よって、形而上では太政大臣はバリバリの
トップということとなります。
もともとは、これらの役職の人間だけで政治が廻るような仕組み(律令制度)
でしたが、そのうちに廻らなくなりました。

そこで作られたのが「令外の官」です。
律令制度の外にある役職という意味です。
律令制度は偉大なる中央集権国家・中国(当時は唐)をモチーフにしていたこともあり、日本に合わなくなったようです。
これらの役職には、ご質問の征夷大将軍も含まれます。
その他の有名どころでは、蔵人や検非違使があります。
検非違使など刑部省と同じことが仕事でしたから、役人同士で
ぶつかってしまう事態もあったようです。

仕事がかぶってしまうような令外の官をなぜ配置したかというと、
1.藤原氏の面々が役職を欲したので、役職の数を増やさなくては
  ならなくなったこと。
2.大臣などのお偉いさんが、面倒な仕事をおしつけたくなったこと。
といった理由があったようです。

征夷大将軍はほかの官職と任務が被っていなっていたため、
それなりの人物の794年に大伴弟麻呂が(名誉職として)任ぜられ、
実際の現場長として坂上田村麻呂(たしか大納言だったはず)が
副長に任じられて東征を行うこととなりました。
著名なアテルイなどとの戦いを経て、田村麻呂は東征を成功させます。
実際には弟麻呂はなにもしていなかったため、誉高い本当の意味での
大将軍として田村麻呂が後世に名を残す結果となりました。

ちなみに、この田村麻呂。
項羽と劉邦でおなじみの劉邦の子孫と言われています。
本当の血統かはわかりませんが、名乗っている分においては
三国志の劉備と縁者となると言えます。
これまた、へっ?って話ではありますが。。。
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ちょっと補足。


征夷大将軍は当初は東国に対する純然たる軍事司令官でした。鎌倉幕府成立後、一種の軍政的な形で関東の支配権を握りますが、結局関東の支配権は征夷大将軍というより幕府が握っていました。なにしろ木曽義仲から源実朝まで4人は源氏の将軍ですが、そのあとは藤原氏や親王が将軍で、実権は北条氏(まあこれは平氏ですから武士ですが将軍ではないし)。
結局武士の棟梁として清和源氏が将軍になるというのは南北朝期に任命された足利尊氏以後、ということになります。それとともに征夷大将軍職の権威も高まっていったと思われますが、なお源氏長者の地位のほうが実質上であったり、また対外的に日本国王・国主を名乗れるかどうか、という点から見てなお最高の地位とは言い難いものがあるようです。
最終的に江戸幕府、ひょっとすると三代目あたりから征夷大将軍がトップ、ということになったようです。それでもなお親王を将軍に迎えようという動きがあったようですし。

一方太政大臣はいわゆる「位人臣を極むる」というやつで、天皇制において最高の地位です。(天皇は人ではないあつかいなので地位ではなくその上の存在、という考え方)。
最高なので、常設ではありません。その地位にふさわしい人が現れたときに限りおかれる職です。

征夷大将軍も本来は常設ではなく、文字通り関東に対する軍事行動のときに任命されたものですが、鎌倉幕府以降はほぼ常設になりました。
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まず摂政は天皇が幼少のときに置かれる


特別な役職で常設ではありません。
関白は天皇を補佐する最高職ですが
実務には関わりません。
摂政を経験し太政大臣を兼ねる者が関白に就任できました。
摂関はともに天皇の代理です。

太政大臣も一種の名誉職で、通常の最高位に位置します。
この役職も常設ではなく、担当者なしという場合もありました。
摂政、関白、太政大臣、すべて宮廷の最高階級ですが
実権はなく、現在の日本の役職に照らすと
衆参両院議長のような地位です。
総理大臣のような実権のある地位に相当するのは
左大臣です。

摂関政治で有名な藤原道長は左大臣でした。
摂政や太政大臣を務めたのはたった2年だけです。
その後は息子教通らを左大臣として政治の実権を動かします。

征夷大将軍は平安初期、蝦夷征討のために
派遣された将軍。
七九四年に大伴弟麻呂が任命されたのが最初で
その後の坂上田村麻呂が有名です。
これはもともとは宮廷内では低い地位でしたが、
源頼朝が東国を支配すると武家の棟梁の証と
されるようになっていき性格がかわります。

鎌倉以後、武家政治の時代になると
律令体制が崩壊し、朝廷が機能しなくなるので
天皇も左大臣も実権を失って儀式や儀礼のみを
行うようになっていきます。
いわゆる幕府が直接各地の行政を束ね
守護地頭を配置する権限を持って
税金を徴収し、それで宮廷を養うようになりました。

ここまで説明すれば違いは明瞭だと思いますが、
要するに太政大臣は朝廷の最高官位で名誉職、
征夷大将軍は元は蝦夷征伐軍の免状で
鎌倉以後は武家の棟梁の証です。
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太政大臣とは、左大臣右大臣の上というか取りまとめ役のような役職です。

朝廷における総理大臣みたいなものです。摂政(天皇に代わって政治を行う)→関白のほうが上ですのでわかりにくいかもしれませんが…

それに対して征夷大将軍とは、「征夷(蝦夷に遠征)」からもわかるようにもともとは坂上田村麻呂が蝦夷に遠征をしたときに与えられた称号です。蝦夷とは一般的には北海道を指すことが多いですが、平安前期の日本では東北地方や関東ぼ一部も蝦夷という位置づけでした。ようは都から遠く離れた野蛮人(当時の朝廷からの視点)が住む土地を制圧するための役職、それが征夷大将軍の始まりです。
それが時代を経て、「武士の棟梁」=「征夷大将軍」となっていったわけです。朝廷における防衛庁長官みたいなものですね。

ところが、ようは武力を持っているのは武士ですから、実質的に国家の治安維持をその棟梁たる征夷大将軍に朝廷がまかせましょうということで開かれるのが幕府ということになります。ですから、幕府とは朝廷の下部組織のようなものです。ただし、幕府が実質的な支配権を持っており、朝廷はそれにお墨付きを与えているという感じですね。
やっぱり軍隊を持っているほうが強いということですね。
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