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 日本の地図を見て思ったことですが、廃藩置県前の行政区画で、現在の東北地方に当たる2国が異様なまでに広いことに気が付きました。これは何故なのでしょうか?分かる方、詳しく教えて下さい。

A 回答 (8件)

もう遅いかな?


時代考証を元に意見を述べます。

私はNo6の方と同じ背景にたちます、

(1)~平安時代
東北地方(以下奥州)は朝廷の支配下ではなく、独立した地方政権だった。
公式に語られる史実は天皇を中心とした朝廷の史観で記載されていますが、
奥州が日本に組み入れられたのは、1189年の源頼朝による奥州征伐で、
平泉藤原氏の滅亡まで待たなくてはなりません。

朝廷と蝦夷(えぞ、えみし)の抗争は明らかに朝廷=侵略者、蝦夷=抵抗者
であり、西部開拓史の白人とインディアンの抗争といえば解りやすい。

平安時代までは、律令制の元で、地方管理は国郡制により朝廷が国司を
任命し管理していました。
支配権の確立していない奥州で国司を細分化して任命する必要性は無く、
段階的に支配下に置いた段階で出羽、陸奥、津軽と征服した土地を一括して
国司を任命すれば(=国の命名)事足りたと思います。

つまり、国の単位が大括りなのは、未開の地という意味ではなく。抵抗勢力
のすむ、敵地だったと言うことです。
史実の記録は、敵、従わない者は全て蔑視した言い方になりますし、征伐の
目的は奥州の豊かな、金を求めた侵略だったのかも知れません。

朝廷史観は坂上田村麻呂、源義家等の奥州征伐として史実は残ってますが、
蝦夷の側の記録は殆ど残されていません。
(研究が盛んに行われています調べるのも面白いかも)

(2)鎌倉時代~

源頼朝により奥州が政権下におかれてからは、国を細分化しそうですが、
政権の管理単位は、律令制の国郡制から守護地頭制→江戸時代の幕藩
体制→明治以降の都道府県制になり、国は管理単位ではなくなりました。
こうなれば、国を細分化する必要が無くなります。よって今に至るまで国の
は細分化は必要なくなりました。
事実、藩は弘前、津軽、南部と分かれても、だれも弘前国、津軽国、南部国
とは呼びません。国郡制ではなく藩制度だったからです。

新説の金山/馬ですが、、、、
(申し訳ない)否定するようですが、
・金は金山だけ中央政権が直轄し、地方行政官には決して委ねません
・石高を増やし国力を高めるため本当に必要だったのはむしろ牛です。
 馬は、歴史的に重要視されたのは軍事目的に尽きるのです。
   機動力なら馬、輸送力なら牛。
   馬-乗用車/新幹線、牛-トラック/貨物列車といったところ
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こんばんわ。

少し違った意見を言います。けっこう自信アリです。
詳しい数字は忘れましたが、太閤検地で日本の石高が出されたとき、陸奥と出羽の石高はずば抜けています。少なくとも面積に見合った石高です。時代が新しいと言われればそれまでですが...。

この地域が広い理由は、江戸時代以前の東北地方の産業構造が他の地域と全く違うからです。他の地域は農業を基盤としていますが、奥羽は特産品である金の採掘に重点を置いています。
奥州藤原氏の頃の日本は金の産出量世界一といわれ「黄金の国ジパング」としてマルコ・ポーロらによって世界中に紹介されるほどです。その日本の金の八割が奥羽で産出されています。もしかしたら藤原清衡は世界一の大富豪だったかも知れません。無論この前後の時代も奥羽の金の力は絶大です。金を産出しなくなったのは平和になった江戸時代からです。人々が金よりも平和選んだからかも知れません。
このような地域を未開の地と蔑むでしょうか。むしろ逆です。少なくとも本音の部分では絶対にほしい地域です。陸奥と出羽の行政区が広いのは金産出の特別区扱いで、中央政府がこの地域の農業を全く必要としていなかったからです。

農業が基本ならば、地形や気候、人口などを把握しておおよその生産量を割り出します。当然行政区が狭いほうが正確ですし、生産力を落とす自然災害にもすばやい対応ができ被害を最小限に抑えることが可能です。しかし金の採掘だけが目当ての奥羽ではそんなものは必要ありません。地形はまだしも気候や人口がどうであれ埋蔵量に変化はありませんし、自然災害で人が多少死んでも金は死にません。
私は当時の中央政府には他の行政区のように、この地域を「開発が進んだら分ける」などという発想は無かったと思います。

また、奥羽は日本一の金産出地域であると同時に、日本一の馬産地でもあります。平安時代、中央では馬は大変貴重で一部の特権階級しか使えません。今の感覚で言ったら自動車はおろかジェット機や新幹線に匹敵するぐらいの性能だったと思います。このようなものを奥羽では、身分問わず金持ちから貧乏人までみな持っていたわけです。
馬を安く大量に生産できる奥羽の行政官は当然この力をフルに活用したと思います。つまり中央とは機動力や輸送力のケタが違うわけです。

馬を腐るほど持っており自由に使える彼らの感覚にしてみれば陸奥や出羽の広さは、中央からみた摂津や和泉などよりもずっと狭いぐらいに思っていたかもしれません。
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#5であります。

大和朝廷とよぶ政権は律令国家成立以前ですが、この時代はまだまだ奥羽地方には十分な勢力をもっていません。このことは律令体制に入ってから実施された条里制の遺構が奥羽地方にほとんど分布しないことからも明らかです。
「未開の地」といった状況は近世には随分変化したことでしょうが、逆に「国」の持つ政治的意味が失われたため、改めて細分化する必要性がなかったことと推察できます。
 それから国名は現在でも廃止されていないように思います。廃藩置県は文字通り藩を廃止して府県を置くことですので、役所の話でしょう。行政上の意味を持たない国はこれとは無関係です。昭和20年代でも地名総覧付き分県地図をみると各市町村の見出しに国名が書かれています。例えば「攝津国 大阪市」などのようになっています。現在でも「信州」は一般的に使いますし、大阪では「泉州」や「紀州」、「播州」などは頻繁に耳にする地名です。国名は今でも生きています。小学校~高校で使用する地図帳でも国名が記載されていないものはありません。
 以上追記いたします。私は地理学出身ですので史学的に誤った表現、記述があるかも知れません。どなたかのご指摘を期待します。
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「ここ」が指す場所の範囲と「あっち」の指す地域の範囲はどっちが大きいですか?


 よく知らないところ、関心のないところ、自分に関係のないところに対して、細かく分けてそれぞれに地名を付することはしないでしょう?陸奥という地名からわかるようにそこに住む人々が呼んだ地名ではありません。中央である上方の人々がつけた地名であり行政区分ですから面積が広くてあたりまえです。
 ある市町村の内部をみても同じようなことがわかります。平野に屋敷が存在する町や村(集落)部分では町丁字の範囲は狭く、山間部に行けば行くほど町丁字域が広くなるはずです。

この回答への補足

返信ありがとうございます。

 疑問に思ったのですが、東北地方はそんなに最近まで所謂「未開の地」だったのでしょうか?平安時代後期には東北地方は奥州藤原氏の勢力範囲だったのですから、もうこの頃には大和朝廷の支配は本州全域にまで達していた筈です。
 にもかかわらず、出羽・陸奥両国が明治時代に入るまで国土が細分化されずに来た特別な理由は何なのでしょうか?

補足日時:2004/08/27 22:37
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No.3の70633です。


>それにしても大き過ぎだと思いませんか?

そんなことはないと思います。
前にも書いたように、人口の多い開発された地方は細かく分かれていますが、それ以外の地方は大きな区分で分けられていました。

それが、開発が進むにつれて分けられていったのです。
例えば、越の国は、越前と越後に分けられ、その後越中ができ、さらに加賀と能登に細分化されました。

同様に、吉備の国は備前と備中と備後に分けられました。
これらの国が細分化されたのはまだ、公家が力を持っていたときなので、律令制に載せられましたが、その後天皇の権力がなくなり、誰も国の制度になんか関心がなくなったものだから、そのままにされたのでしょう。(藩で分けることで問題がなかったから)

明治に入り、天皇に権力が戻ったとき、昔の律令制の国の大きさに矛盾があることから、出羽を2つに、陸奥を5つに、蝦夷地を渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の10ヶ国に分けたのでした。

アメリカ本土で一番大きい州のテキサス州(696000km2)と一番小さいロードアイランド州(4000km2)では、174倍の差があることを見れば、差が大きいとはいえないと思います。
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今の北海道があんなに広いのと同じと考えてよいと思います。


また、アメリカ合衆国の発祥地である東部13州と、西部の例えばカリフォルニア州とがあんなに面積に差があるのと同じようなものだと考えれば判りやすいと思います。

国の制度ができた頃は、奥羽地方は未開発で、人口密度も少なく、耕作地も少なかったのです。
だから、人口密度の多い畿内地方は小さな面積の国が多く、辺境である奥羽地方は大きな面積の国となったのです。

この回答への補足

返信ありがとうございました。

ですが、それにしても大き過ぎだと思いませんか?

補足日時:2004/08/26 15:25
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近代以前の国制は、律令制の制定時期に明確に区分され、近代終了まで基本的に同じ状態のまま続きました。

(律令制のうち、行政法に相当する令制で規定されました。)

この当時、出羽国・陸奥国は律令国家から見て非常に遠隔地にあることからか、蝦夷(えみし)という律令国家の意に服さない勢力が存在していました。これを討伐するために、出羽・陸奥両国には柵や城という軍事拠点を多く作った経緯があります。

意に服さないが、そこに土地があることがわかっている(けど、奥の方はよくわからない…)ことからか、まとめてしまったものと思います。日本海側と、太平洋側と…。

平安中期以降、蝦夷が討伐され、更に時代が下っても、国を細分化することなく終わったのは、その時々の政権担当者の問題なのか、微弱化してしまった朝廷の問題なのか、よくわかりません。いずれにしても、行政手続き上、お金が掛かるのでしょう。一方で、国内の郡の数は増えています。
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広くないと「米」がとれない。


気候は寒いし平野は少ないし。
当時の大名は「石高」でランクされましたから(多いから偉いわけでないが、物差しとして)。
同じ「10万石」でも四国と東北では必要な面積が違います。
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