No.5ベストアンサー
- 回答日時:
書かれたのは、もう40年近くまえだと思いますが、私の持っている本(中公文庫「日本の歴史 7 鎌倉幕府 石井進著)では、「『主上御謀反』という言い方が一般的に言われるようになったのは、鎌倉末期の正中の変から。
そういう考え方、つまり、『武家が正当な主権者である』という考え方が生まれるきっかけは、承久の乱であり、鎌倉末期にはそれが広まっていた」という説明がされています。承久の乱の際には、義時追討の宣旨が出た事に対して、東国武士の動揺が激しかったからこそ、北条政子の有名な「演説」があったわけですから、この時点では、「武家政権と天皇とを比べて、武家政権がより正当である」という考え方は一般的ではなかった、と思います。因みに、吾妻鏡によれば、承久の乱での鎌倉側の公式見解は、「上皇側についた武士が逆臣であって、その逆臣の讒言によって義時追討の院宣がでた。よって、上皇側の武士を打つべし」というものです。
(参考URL)
尚、そういった「人々の意識」ではなく、実質的な支配権、という意味でも、「承久の乱以前の武家政権の力は、西国では非常に弱く、承久の乱以降武家の全国政権が成立した」と考えた方がよいと思います。
例えば、参考URLにあるように、承久の乱の院側は、幕府側の勢力圏である関東&東北以外の地域に対して、軍事動員をかけています。
そもそも、武家政権の本質は、「将軍が武士に所領を安堵し、その恩顧に対して武士が将軍に忠誠を誓う」という事ですから、荘園領主の勢力が強く、(No.2の方が指摘されたように)武家政権が指名する地頭が広まっていなかった西国は、天皇あるいは公家側の勢力圏だった、と考えた方がよいと思います。
尚、鎌倉時代になると、知行国主が特定の公家に固定するなどにより、「国の中に、文字通りの荘園と、国衙領という名前の荘園(=国主の家領)が存在する」という感じになってしまっています。従って、律令体制的な国司・郡司の実権は、南北朝よりもずっと前に分解していた、と考えるべきでしょう。
ところで、「反乱」という言葉を使えば、どちらかが正統な統治者か、という概念は絶対にあるはずですが、「乱」という言葉だけであれば、単に「乱れている」という意味もあります。「壬申の乱」も、天武天皇に対する近江朝廷の反乱ではないし、応仁の乱は、細川・山名のどちらが反乱側かはっきりしません(っていうか、さして気にしてない)。また、鎌倉時代から「承久の乱」という言い方がされたのでしょうか?(私は知りません)
もし「承久の乱」という名前と、「いつから、武家政権が正当な全国政権になったのか」という疑問を結び付けるには、「乱」の定義と「いつから承久の乱と言われたのか」という点を確認されてからの方がよいと思います。
参考URL:http://www.toride.com/~sansui/medieval/shi05.html
当時は「主上御謀叛」と言っていたのですね。
やはり当時の言葉で言わなければ歴史の本質は理解できませんね。
「帰化人」「唐入り」「戦地売春婦」などもそうですね。
本当に詳しい説明で納得できました。
ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
歴史は、勝者が定義するものです。
勝者は、広い意味で戦いが終結してから決まるものです。
単純に言うと、統治権を(結果として)「握った」ものが勝者で、戦いのさいちゅうでは、勝者は決定しておりません。
この論理で言えば
承久の変に勝利することにより、公家が武家の統治下に入った。といえます。具体的には、六波羅探題が常設され、皇位継承に関して、京都から関東にお伺いが出るようになりました。逆に言えば、承久の変の前では、京都監視の六波羅探題もなければ、皇位継承に関して関東が関与することもありませんでした。(源氏と友好関係のある九条家を通じて影響を及ぼしていたようですが、間接的です)
総追捕使についても、「警察権をこの名称で渡す」ということではなく、頼朝側からの圧力で「京都の敵でもある、義経を探して逮捕するために、全国で動いてよいよ」という形で認められています。
統治権が武家へとなりますと、南北朝のどさくさで、「あ!取られてちゃっているんだ」と明確になったのが、義満の力による南北朝合一のタイミングになるかと。
詳しい説明をありがとうございます。
かなり納得できました。
やっぱり当時の日本は2元的な支配構造で、総追捕使においても、朝廷の支配する地域でも動いてもOKという感じで、鎌倉幕府の支配地域では朝廷などは関係なく動いていたのですね。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
天皇主権的な立場からは反乱ではないと、「承久の変」と呼びますが、当時の鎌倉方が「主上御謀叛」と呼んでいたことから考えると、鎌倉幕府に対する反乱としても、間違いではありません。
「日本の統治権が武士に移る」とは、律令体制の国司・郡司の実権が、守護・地頭・その他に奪われた状況を指すと定義しますと、「南北朝のどさくさにまぎれて」が正しいのではないでしょうか。
なるほど、当時は「主上御謀叛」と言っていたのですね。
やはり当時の言葉で言わなければ歴史の本質は理解できませんね。
「帰化人」「唐入り」「戦地売春婦」などもそうですね。
納得できました。
ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
一般的には#1の言うとおりだと思います。
けれども、承久の乱までは朝廷側もかなりの力を保持していたようです。その証拠に承久の乱後設けられた地頭(新補地頭)は西日本を中心にかなりの量に上るようです。
また、この敗戦により六波羅探題が設けられ朝廷や西日本の監視し、政治などに参加していきました。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2% …
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